3.ゴルディアの皇帝
「ゼフィーニアの第二王子は存外に勘が鋭いようだ。」
大広間の玉座にゆったりと腰掛け、年老いた術者が用意した魔鏡を眺めていた皇帝カイルは、メディシスが力強くカーテンを引くや否や、そう言って目を細めた。襟足だけ長く伸ばした漆黒の髪が、椅子から零れ落ちている。
「王宮内は結界が強く、流石に覗き見することは叶いません。」
白く長い髭が床に着きそうな程、深く項垂れる老人に、カイルは苦笑する。
「良い。ルディア、何かわかったか。」
それまで玉座の横で立哨していた青年が、名を呼ばれて僅かに向きを変える。
「私は別に読唇術に長けている訳ではないのですが・・・。そうですね、ガルドやフィオールの名が出ていたように見受けられましたが。」
「ふん、やはりフィオールはゼフィーニアにも打診をしているか。」
「どうです、陛下。ゼフィーニアを見習ってもう少し真剣に正妃を探されてみては。そろそろ喉の渇きも限界でございましょう。」
「余計だ。だがフィオールの娘は受け入れても良い。異界人には興味がある。」
ルディアはカイルの言葉に意外そうに眼を見開く。
「やはり、フィオールが送り出そうとしている王女というのは、異界人なのでしょうか。」
それまで項垂れたままだった老人は、ナディルのその言葉にはっとして顔を上げる。
「ガルドから異界人を掠め取ったのは間違いなくフィオールですぞ!この爺がしっかりと見届けておりました故!命をかけてもよろしい!」
「爺、そう興奮するな。寿命が縮むぞ。」
白い眉にほとんど隠れている眼を見開いて唾を飛ばす勢いで力説する老人を落ち着かせようと、大広間を囲っていた武官数名が慌てて老人に近づく。
「で、あればやはり王女の正体は異界の者でしょうかね。フィオールにしてみれば爆弾を抱えているようなものでしょう。」
「多大な犠牲を払い禁をやぶってまで呼び出した異界人を横から掻っ攫われたと知らば、短気な皇国は怒り狂うだろうからな。」
「ガルドに知られる前に、大国に条件付きで渡した方が安心と判断してもおかしくはありませんね。ゴルディアもゼフィーニアも、フィオールに侵略する意思はないと明確に宣言しておりますから。もし異界の者が送られてきたならば、信用して頂けているということでしょうかね。」
「さて、本当に異界人が送られてくるかどうか。女王は実子と言い張っているようであるが。」
「どちらにしろ、陛下のお口に合うと良いのですが。」
「ふん、確かに、美味でさえあれば血筋などどうでも良い。」
酷薄な笑みを浮かべながら、カイルはゆったりと席を立つ。
「陛下、どちらへ。」
「リリーを構いに行く。」
あぁ、と会得したようにルディアは頷いた。
上機嫌で大広間の扉をくぐり、廊下を突き進むカイルの歩幅は心なしかいつもより広く、早い。カイルに付き従うルディアは思わず苦笑する。
「随分とあの子猫がお気に召されたようで。未だに陛下には威嚇をしているようですが。」
「なかなか懐かぬところが良いのではないか。」
首筋には昨日無理やりリリーを抱き上げようとして引っかかれたばかりの爪痕がしっかりと残っている。
「野生に還されては如何です。母猫が今頃躍起になって探しているのではと思うと、胸が痛くなりませんか。」
「ならんな。一時でもリリーをさ迷わせた母猫の落ち度であろう。」
廊下の随所で文官や武官、侍従等が手慣れたように道を開け、腰を低く落とす。そんな彼らには一瞥もくれずにカイルは真っ直ぐと自室の隣室を目指す。本来、正妃が入るはずのその部屋は今や、壁紙は引っ掻き傷だらけになり、金糸で花々が描かれた豪華なカーテンは糸がほつれ、高級な家具の数々も噛み傷だらけ、と見るも無残な状態になっている。
「いつかあの部屋に入る妃のために、と部屋を整えていた侍女達が嘆き悲しんでおりますよ。」
ねちねちと嫌味を繰り返すルディアを無視して、件の部屋の扉を思い切り開け放つ。窓のすぐ側にはふさふさとした尻尾を不機嫌そうに揺らしている猫が背中を向けて座っている。こちらの世界の猫は、耳が翼のような形状をしており、長く真っ白なその耳が、ぱたぱたと空を仰いでいる。
「リリー。」
つい先日もらったばかりの名を呼ばれたリリーは振り向くや否や、短い牙をむき出しにする。
「フーッ!!!!!」
「・・・。」
「嫌われておりますねぇ。」
しっぽを真っ直ぐに立て、翼のような耳を目一杯広げて、これでもかと威嚇する。よくよく室内を見回すと、今朝リリーのためにカイル自ら絨毯の上に敷き詰めたクッションの数々が彼女の鬱憤を晴らす対象とされたのか、破れかぶれの状態で真綿が飛び出している。
「リリー。」
気を取り直したカイルは真っ直ぐにリリーに近づいて彼女に触れようとするが、いきり立ったリリーは窓の桟の上にさっと飛びのいて、再びカイルを威嚇する。
「愚かだな、リリー。そこに逃げては後がないだけではないか。」
大真面目な顔で小動物に話しかけるカイルに半ば呆れつつ、ルディアは怯えて威嚇することしか出来ないリリーに同情を寄せる。カイルは無理やりリリーを押さえ込むと、嬉しそうに抱上げて目線を彼女と合わせた。
「フーーーーッ!シャアァーーーーッ!!!」
「陛下から漏れ出ている覇力に怯えているんですよ。野生の動物は敏感ですからね。」
「よしよし、そう怖からずとも、余はそなたを悪いようにはせぬ。」
穏やかな表情でそう言ってみせて、リリーをそっと抱え直し喉を撫でようとしたが、敵対心をむき出しにしているリリーによりその指をかぷりと噛まれる。
「陛下!?」
「お前が声を荒げるとリリーが怖がる。黙っていろ。」
指を噛まれても気にすることなく、もう片方の手で頭を撫でてやると、リリーは諦めたかのように指から牙を抜き、耳を伏せてただただ耐えるかのように、カイルの膝の上でうずくまる。
「大人しくなったか。」
「陛下、何だか私には哀れに見えるのですが。」
「・・・余はこれよりリリーと共に一眠りする故、一刻程したら迎えに来い。」
ルディアの言葉を無視してそう告げると、カイルは爪跡だらけのフリルたっぷりの天蓋を分け、ベッドへいそいそと潜り込む。リリーはじたじたと最期の悪あがきで、カイルの手に爪を立ててみたりもするが、まだ子猫ということもあり、結局疲れ果てて大人しくなる。
「・・・畏まりました。ガルドはいかがなされますか。」
「しばらくは放っておけ。ゼフィーニアが先に何らかの手を打つだろう。」
「よろしいのですか。」
「構わん。ただやつ等がフィオールに手出しするようであれば余も動かねばなるまい。」
「承知いたしました。術者に見張らせておきます故。」
ルディアは胸に手を当てて腰を折ると、音をたてないようにそっと部屋の外へ出る。
術者が集まっている司書館に行くべく、皇宮の中を練り歩いていると、皇帝の親衛隊のみが持つことを許される皇剣とも呼ばれる魔剣が鈍く振るえた。気配がする方を顧みると、遠くから帝国ゴルディアに根付く十一貴族の筆頭、レーバルド公の若き当主が悠然と歩いて来ている。ルディアは胸に手を当てると今度は浅く礼をとる。
「やぁ、ルディア・ラード。少佐に昇進したとか。おめでとう。その若さでさすがだね。」
「有難う存じます。陛下はお休みになられております故、私でよろしければ代わりを務めますが。」
「ああ、では陛下に伝言をお願いしたい。」
「畏まりました。それで、どのような。」
「老獅子が、ガルドの餌に興味を示しております、と。」
ルディアは頭に手を当てて短くため息をつく。
「追われて後のない猛獣なんて、そんなものだよ、少佐。」
「追った者の責任も大きいのでは。」
「おや、もちろん、善処すべくそこら中に罠を張り巡らせてはあるよ。ただ長く生きた分、余計な知恵をもった獅子でね。それに、彼らを追い詰めるように僕に命じたのは他でもない君の主のはずなんだけどね。」
「それは承知しております。・・・そうそう、その換わりとして公が提示された条件についても、動きがありそうですよ。」
「僕は魔族との婚姻を陛下にすすめただけで、交換条件にしたつもりではなかったんだけどね。それでどこの姫君かな。まさか猫と婚姻関係を結ぶつもりではあるまいね。」
つい先日飼い始めたばかりの猫の情報まで既に知られている事実にルディアは内心舌を巻く。まったくこの公爵は侮れない、と。
「リリー様のことまでご存知でしたか。いえ、フィオールの姫君です。」
「ほう、あのフィオールの魔女がこの吸血族の国に娘を差し出すのか。」
「いろいろ事情があるのでしょうね。・・・残念ですか?公の妹君ではなくて。」
「おや、君はいろいろ僕のことを勘ぐっているみたいだね?僕としては妃が魔族の女性であれば誰でも構わないよ。魔族の流出を防がなければこの国に未来はない。緩やかに滅びの道を歩むだけだ。そのためにまずは、吸血族と魔族は対等にならねばなるまい。差別を無くすための法律を作り、禁じ、罰しても、庶民に根付いた差別意識を取り払うのは君が考えている以上の膨大なエネルギーと時間がかかる。ところが王侯貴族がすすんで魔族を寵愛すれば、それは自然と庶民の間にも広がっていく。法律で罰するよりもずっと早くね・・・。」
「公のそのお考えには私も賛同しておりますよ。さて、老獅子の件は陛下にしかとお伝えいたしましょう。ただ、しばらくは静観なされるおつもりかと。」
「ゼフィーニアが先に動くだろうからね。やれやれ、相変わらず陛下は面倒がお嫌いなようだ。」
「不服でございますか。」
「ガルドに捕らわれている魔族達の、ゼフィーニア崇拝が今から目に浮かぶようだよ。僕としてはゼフィーニアより先に動きたいところだ。」
「一応、それも陛下にお伝えいたします。」
「頼んだよ。」
片手をあげて去っていくレーバルド公の背をしばらく眺めていたが、当初の予定を思い出して再びルディアは司書館へと歩み始める。
「老獅子か・・・。」
皇帝陛下に直接意見することが出来、尚且つ庶民にもそれなりの影響力を持つ貴族院に、ガルドとひそかに手を組むものがいるとすれば。
「獅子身中の虫か。」
自己の利益のために、国を蔑ろにする輩がいる。自分1人ぐらいが利益を優先させたとて、この国が揺らごうはずもない、とでも思っているのだろうか。あらゆる選択は全ての結果に帰着しているのだ。ひとつでも間違えばそこから全て瓦解していくことだって十二分にあり得る。それとも。自分さえ良ければ国家などどうなっても良いとでも言うのだろうか。ルディアは剣の柄を強く握り締めた。
―この剣に誓って守ってみせる。国を、陛下を、臣民を、家族を、友を。
フィオールの姫君がこの国を訪れるのは、それから2か月後のことだった。野生の猫よりも尚激しい気性を持ち、微塵も心を開かない姫君に振り回されようとは、この時のルディアは予想だにしていなかった。