2.影
カラカラと揺れる馬車の中の空気は重く乾いていた。
「レイラ様、そう気を張り詰めなくとも。」
気を使って声をかけたルディアをひと睨みし、黙したまま怜は視線を窓に戻す。彼女の腕の中に収まっていたリリーまでもがルディアをぎろりと睨んでからぷいっとそっぽを向いた。
「レイラ様、夜の帝都は如何でございますか。」
苦笑いをしているルディアに代わって今度はフローディアが重い空気を変えようと挑戦する。予想以上に活気溢れる夜の帝都では、至る所で商人が声を張り上げており、或いは酒が酌み交わされ談笑が響き、また一歩路地に入れば賭け事が興じられているようだ。しかし男性の姿しか見えない。
「女性は夜、出歩かないものなの?」
素直に疑問を口にするとフローディアは当然というように頷いた。
「素行の悪い者ほど夜行性でございますから、夜は危険なのです。」
「――そうみたいね。」
言下に裾の長いスカートを思い切り縦に引き裂くと、膝の上でそれを結び、ヒールの靴を脱ぎ捨てる。腕から下ろされたリリーは恨めしそうに怜を見上げながらも、大人しく馬車の隅に移動して身体を丸める。
「レイラ様?!」
「ほう。なかなか敏感だな。」
感心したように頷くカイルの言葉にようやくフローディア達は馬車の後をひそかに付けている影の気配に気付く。
「仕掛けてくる様子は無さそうですね。」
殺意や害意は感じない。隙を探っているだけのようだ。
「陛下、いかがなされます。」
「好きにしろ。」
フローディアはならば、と剣に手をかける。
「待って、フローディア。こんなところで争うの?」
「レイラ様、危険分子は見つけた時に始末しておきませんと。」
「人気のいないところに誘い込むことは出来ないの?」
この疑問にはルディアが答える。
「こちらの意図に気付けば立ち所に逃げ散じますよ。とにかく逃げ足だけは俊敏な連中です。不意打ちでなければ仕留めるのは難しい。」
「……そう。狙われているのは私?」
「恐らく。」
「わかった。なら私が引き付けよう。無関係な都民が巻き込まれないよう、頼む。」
言うなり怜は走っている馬車から飛び出し、着地する前に思い切り魔力を膨らませ地面に叩き付けた。反動で怜の身体は弧を描きながら大きく飛翔し、飲み屋の硬い煉瓦造りの屋根に身体を打ちつけながら落ちる。
「なっ……!?」
「レイラ様!?」
影が怜を追って動く気配に慌ててフローディアやルディアも馬車から飛び降りる。
「おっ?なんだ?!」
地面に座り込んでいた街の者達は驚くよりも先に、非日常を愉しむかのごとく目を輝かせた。膨大な魔力を放出させて飛び上がった怜や、剣を抜いて殺気立つフローディアを観察しようと色めき立つ。
「どけ!邪魔だ!」
彼らを突き飛ばして一目散に怜へと向かっていく影に短剣数本を投げ飛ばせば、どうやら何本かが敵を掠めたらしい。致死性の毒を塗りつけてあったそれを受けたいくつかの影がぼたりと地面に落ちた気配にルディアはほくそ笑む。
「残り六だ。」
悠然と馬車から降りてきたカイルはそう言いながら、驚異的な脚力で魔力を使うことなしに壁を蹴って飛び上がり、身体を打ちつけた怜の横へマントをふわりと広げながら着地する。カイルが意図的に存在感を消しているためか、或いはフローディア達が目立っているためか、都民は彼らの王に全く気付いていないようだ。
「逃がすな!!!」
大声で部下に命じるフローディアの様子や、笑みを浮かべながら次々と首を切り落としていくルディアの様子を、怜は身体を押さえながら呆然と見ていた。
「随分と無茶をする。」
むき出しの白い足を隠すようにマントで怜を包んだカイルは、覗き込んだ彼女の顔面が蒼白になっているのを意外そうに見つめた。
「なんだ、慣れているのではないのか。」
「……動けなくする程度かと。」
フローディア達が命をこうも簡単に刈り取って行くとは思ってもいなかった。森で受けた一度目の襲撃の際も、小屋を囲まれた二度目の襲撃の際も、実際に人が殺されたところを怜は見ていない。今始めて命のやり取りを目の当たりにし、怜は浅い呼吸を繰り返した。帝都の夜は幾千もの炎で照らされているが、それでも払いきれない闇が飛び散る血を浅黒く染めている。信じがたい事に、観戦者達は口笛を鳴らして歓声を上げていた。
「おい、皆来て見ろ!!あれ親衛隊の軍服だぜ!兄ちゃん頑張れーー!!!逃がすな!!!」
「あいつら何だ?罪人か?何したんだ?誰か知ってるやついないのか?」
「おいあの姉ちゃん、ドルツィエ隊長じゃねぇか?相変わらずおっそろしい女だなぁ。」
怜が巻き込みたくないと思っていた都民達はむしろ大喜びで集まってきている。
「恐ろしいなら見る必要はない。」
カイルに目元を覆われそうになったのを、首を左右に振って拒絶する。
――あれは、私が背負うべき命だ。
実際に首を落としているのはフローディア達でもそれをさせているのは自分なのだ、と気丈に蒼白な顔を上げる。自分を抱いているカイルを押しのけると結んでいたドレスの裾を降ろし、ゆっくりと立ち上がると、逸らすことなく倒れていく命を直視する。
僅かな時間で勝敗が決したようで、程なくしてフローディアが息を切らしながら怜の立つ家屋へと走ってくる。
「レイラ様!!ご無事ですか?!」
「少し打ったけど、大丈夫。」
――問題は屋根の上から降りられないことだ。
「フローディア。」
「はい。」
「私はどうやって降りたらいいだろう。」
どこか足を下ろすところはないかと辺りを見回し、結局方法が見つからず困惑しつつ問いかける。
「は?」
呆然とするフローディアを尻目にカイルが声を上げて笑った。
「リリーと同じだ。」
「リリーと?」
「余があれを見つけた時は、樹の上で震えながら鳴いていた。登ったものの降りられなくなったのだろうな。成獣になれば飛べもするが。」
「猫が飛ぶのですか?」
「何を言っている。飛ぶにきまっているだろう、猫なのだから。あぁ、そうか、そなたの世界に猫はいなかったのか。」
「フィオールには猫がおりませんでしたので。無知で申し訳なく。」
しれと答える怜にカイルは"然様か"と鼻を鳴らす。
「飛び上がったときのように、魔力を放出してクッションにはできないのですか?」
ルディアからの当然の疑問に怜は首を横に振る。
「失敗したら痛そうだから嫌だ。それに飛び上がるのは怖くないが、飛び降りるのは怖い。」
「では私が受け止めますので。」
そう言ってルディアは腕を伸ばすが、それにも怜は首を横に振る。
「嫌だ。」
仁王立ちで拒否を繰り返されてしまい、些か途方に暮れて立ち竦む面々に、観戦者達がわらわらと集まってくる。
「十三部隊隊長と親衛隊隊長が一緒なんて珍しいなぁ。」
「寄って来るな!お前達は飲んだくれていればいいだろう!」
追い払おうとするフローディアを軽く抑えてルディアは彼らに答える。
「十三部隊はフィオールからいらした姫君の護衛を仰せつかったのですよ。」
「へぇ?!お、まさかあそこのお嬢さんがお姫さんなのか?」
「そうだ!こら、見るな!!!」
破れたドレスから覗く白い足に男が目尻を下げたのに気付き、フローディアは目くじらを立てて怒る。
「で、なんで親衛隊の隊長までいるんだ?」
「お前達はレイラ様の横にいらっしゃる方が見えんのか?!」
フローディアの絶叫に首を傾げながら怜の横に目をやった誰もが身体を強張らせた。
闇色の軍服に身を包んでいるとはいえ、何故今まで全く気付かなかったのか。闇の中ではっきりと浮かび上がるあの蘇芳色の目は、まさしく彼らの支配者のものではないか。
「皇帝陛下……!」
各々酔いが一瞬で醒めて、膝から崩れ落ちる。存在を認識するまでは何も感じなかったのに、今はどうだ。身体中が恐怖で支配され、額には嫌な汗が滲む。母の胎内にいた時のように身体を丸めて平伏し、彼の気配に晒す面積を出来るだけ狭くする。そうでもしないと気を失いそうだった。
「よい、面を上げよ。」
カイルは怜をさっとマントで包むと、怜が拒絶の声を上げるより早く屋根から飛び降りた。絶叫しそうになったが、そんなに高さがある訳でもなかったため、声を上げる前に着地の衝撃が怜を襲った。
「ぐっ!」
舌を僅かに噛んでしまい、血の味が口内に広がる。き、とカイルを睨み上げれば顎を掴まれ深く口付けられた。血を舐め取るカイルの舌の動きから逃れようと抵抗するが力で敵う筈もない。カイルの身体を打つため拳を振り上げてはみたものの腰を強く引き寄せられ身動きもとれない。
「ふ……ん……やめ……。」
呼吸の間に言葉を紡ぐも黙殺され、ならばと足を強く踏んでみたが鼻で笑われた。カイルの唾液と共に体内に流れ込んできた覇力が、糸のように張り巡らされて動けなくなる。ようやく唇が離されたのと同時に腕を突き出してカイルから離れる。衝撃でバランスを崩したところをフローディアに受け止められた。
「陛下、何をなさるのです!」
「マーキングしただけだ。これで多少血が滲もうと襲い掛かる吸血族はいないだろう。」
悠然とカイルは口元を吊り上げた。確かに怜からカイルの覇力の気配がする。魔族が本来もたない力だ。魔族から感じられる覇力はそれを植え付けた吸血族による所有権の主張に他ならない。自分より遥かに強い覇力を魔族から感じたら、その魔族に近づく者はいない。欲しいとも思わなくなる。どんなにその血が魅力的でも生存本能が吸血欲を奪うのだ。
「しかし、……ですが!」
「フローディア、薬……。」
フローディアははっとして、慌てて馬車へ駆け込み薬箱を持って戻ってくる。
「随分と用意がいいですね。」
感心したようなルディアを睨みつけながらフローディアは怜に薬を打ち込んだ。
「持ち歩くようにレイラ様から仰せ付かりましたので!」
怒気を含ませながら薬箱を乱暴に片付ける。
「レイラ様、本日はもう帰りましょう。休息が必要です。」
「嫌だ、服は、買って帰る。」
短い呼吸を繰り返し熱を逃しながら怜は頑固に言い張る。
「しかし……。」
「出来るだけ、脱ぎ、難そう、な服、選んで。あと、一緒に、寝て。」
息も絶え絶えという様子の怜をしっかりと支えながら、フローディアは真剣に頷いた。
「そういうことでございましたら、畏まりました。」
女性二人のやり取りにルディアもカイルも苦笑いを浮かべるしかない。
結局、頑なな怜を連れて貴族御用達という既に閉店していた店を無理やり開けさせて数枚の既製服を買った。この世界の女性の平均値に比べれば背丈が小さいが、一方でバストはしっかりと大人サイズの怜であるので、やはり調度良い服が見つからず、サイズを測らせて数枚をオーダーメイドで後日届けてもらうことにする。破いたドレスを脱ぎ捨てて、飾りベルトで上から下までびっしりと締め付けられる乗馬服を試着室で身に着けながら、あれやこれやと話し合う。
「レイラ様、これならベルトが複雑に絡めてあるので、すぐに脱がされることはありません!」
「うん、良いね。着るのは手間だけど動きやすいし。」
薬の効果もあって、落ち着き始めた怜はカタログを広げながら取捨選択をし、実際に身に着けてみて着心地を確かめる。その様子を盗み見ながらルディアはカイルに耳打ちする。
「あの様子ではしばらく寝所に入れてもらえそうにありませんよ。」
「十代の餓鬼じゃあるまいに、余はそこまで飢えてはおらぬ。」
カイルは店に飾られていた真っ白な毛皮のマントを羽織り、内側に潜り込んだ長い襟足を搔き出しながら答える。そこにはいつでも自分のものにできるという支配者であるが故の余裕があった。
「おや、それはどこぞの国の第五王子のことですか。」
白は似合いませんね、と柔らかなファーが内張りされている黒地に銀模様のマントを差出しながら問えば、意味ありげな笑みが返ってきた。
「陛下がそこまでご機嫌麗しいと、不気味ですねぇ。」
「楽しくなりそうなので、ついな。あぁ、これはいいな。店主、もらっていく。」
「は、はい!!」
平伏さんばかりの店主にルディアは金貨数十枚を渡す。
「これぐらいで足りますでしょうか。」
「こ、こんなに!滅相もございません、半分でも十分でございます。」
「いえ、あちらのお姫様の分も含まれておりますので。」
「必要ない。」
さっと振り向いた怜はつかつかと歩み寄り、首からさげていたネックレスに連なっている黒く透き通った宝珠を数個抜き取ると、地べたに座り込んで頭を下げている老店主に差し出す。
「私の分、2~3個で足りるだろうか。」
「こ、これは、フィオールの樹黒晶でございますか?!」
「うん。フィオールには貨幣がなくてね。代わりにこれを持っていくように、と母に言われた。途中で積荷を失ってしまってこれだけしかないのだが。足りないようであれば母にもっとよこせと連絡しよう。」
「……レイラディア様。樹黒晶はひと粒で家を建てられるほど高価なものですので、どうぞそれは胸元に締まっておいて下さい。」
苦笑するルディアに頷いてから、樹黒晶を炎に透かしてじっと見つめる。
「そんなに高価な物だったのか。フィオールでは良く目にしていたから知らなかった。フローディア、これ換金してもらえる?」
くるりと振り返りフローディアに樹黒晶を差し出す。
「大体5000万トルテでしょうか。帝貨でしたら50枚ですね。」
「この国の貨幣価値はわからないからまかせる。」
「帝貨が100万トルテ、金貨が10万トルテ、銀貨が1万トルテ、銅貨は1000トルテです。一般的に使用されるのは銀貨、銅貨、100トルテ紙幣、10トルテ紙幣、1トルテ紙幣ですね。帝貨は銀行や貴族しか持ちません。金貨は商人でしたら持ち歩くこともありますが、普通は金庫の中です。」
「そう。じゃあ、金貨と銀貨にしてもらえる?」
「畏まりました。皇宮に戻りませんとご用意できませんので、今はラード少佐に立て替えて頂きましょう。」
怜は仕方なくこくりと頷く。
「では少佐申し訳ございませんが、後でお返ししますので。」
「いえ、これは私のお金ではなく国庫のお金ですので衣服ぐらい贈らせて下さい。積荷を失ってしまったのは我が国の落ち度でもありますし。」
落ち度と言われて一瞬不快げに眉を潜めたフローディアを押し留めて怜は口角を上げてゆったりと微笑む。ルディアはその表情が一度見れば忘れられないフィオールの女王ルディベッラの毒々しい笑みと重なり、異界から来た娘なのではなく、本当に女王の娘なのではないか、と肝を冷やす。
「国庫のものなのであれば尚の事、ちゃんとお返ししなければ。フローディア、よろしくね。」
「お任せを。」
皇帝の臣下であるはずのフローディアであるが、どこからどうみても怜の忠臣だった。
「数日の間に有能な臣下をひとり取られましたねぇ。」
本人達には聴こえない様にナディルがそっと耳打ちすればカイルは面白そうに頬を緩める。
「お前の望む妃の器があればこそであろう?」
「えぇ、本当に。あまり悠長に構えている時間はございませんよ、陛下。フローディアに先を越されたらどうします。」
「フローディアのことはレーバルド公に抑えておいてもらわねばならんな。」
「あぁ……!許婚でしたね。絡んでいるところは見たことがないのですが。」
「フローディアが避けているらしい。」
「おや、レーバルド公は多方面で苦労なされているのですねぇ。」
同情を滲ませて肩を竦める。ふと前を見れば訝しげなフローディアと目が合い、ルディアは好青年と名高いその笑顔を振りまいた。
「買い物は終わりましたか?」
「えぇ、終わりました。レイラ様、夜も更けましたから観光は明日にして、本日は皇宮に戻りましょう。」
「わかった。」
今度は素直に頷いてくれた怜に安堵しつつ、一同馬車に戻り、行きと同じ道を引き返す。皇帝の乗った馬車だと気付いたのだろう、既に出来上がっている都民達は酒に酔った真っ赤な顔をぴしりと引き締め道をあけ、頭を下げる。
「庶民の雰囲気も街の雰囲気もゼフィーニアとは随分違うな。」
ぽつりと呟かれた声をフローディアが拾う。
「ゼフィーニアをご覧になったことがあるのですか。」
「魔鏡で母に見せてもらった。向こうはおっとり穏やかな雰囲気だったけど、こちらは活発だね。」
「ゼフィーニアは王族がかなり手厚く国民を保護しておりますからね。あれは守られることに慣れてしまっているが故の穏やかさです。平和ボケとでもいいましょうかね。」
どこか侮蔑を含んだ物言いでルディアは続ける。
「自由にしろ、安全にしろ、与えられて当然と思うようになった国民ほど性質の悪いものはない。欲はとどまることを知らず膨れ上がるばかりです。こういう国は一度崩れ始めれば崩壊まで早いですよ。いざと言う時戦い方を知っているのが軍人しかいないというのは致命的です。あぁ、向こうでは"騎士"でしたかね。」
「ゴルディアの在り方は違うようね。」
「ゴルディアでは自由も平和も、自ら掴み取るものだと幼少から教育されます。フェミニスト国家のゼフィーニアではまず在り得ないことですが女性や子供でも剣や魔術が操れて当然です。官吏が暴利を貪れば、陛下より先に国民が立ち上がりこれを排除します。善良な国民全員が警官だと思って頂ければ分かりやすいかもしれませんね。戦い慣れさせるために国境の結界もわざと弱くしています。略奪者には容赦ないですよ、うちの国民は。法で許可していますしね。」
「わざと治安が悪くなるようにしているってこと?」
「確かに、治安は悪いですね。賄賂に手を染めたり手形を不正に売買するような官吏も多い。しかしそれも自浄作用が働いていて減少傾向にあります。ゴルディアの国民は耐えることを知りません。自分達に不利益が被ると知れば血を流すことも厭わず剣を振りかざします。私がガルドでしたらゴルディアよりもゼフィーニアに仕掛けますね。ゼフィーニアの官吏は勤勉実直で有能ですし、結界も強固ですから付け入る隙がほとんどありません。ですが、一度入り込むことに成功すれば、後はちょっと突けばいいだけです。王族や騎士がどんなに優れていても、その他大勢の国民がパニックに陥れば収集は難しい。逆にゴルディアは付け入る隙だらけですが、帝国民はいち早く危機を察知する感覚を身に着けていますし、自衛する訓練を常日頃より受けていますから、少し崩れてもたちどころに修復してしまう。崩壊まで持っていくのは至難の技です。しかし、ガルドは愚かにもゴルディアを先に標的と定めたようですね。貴族院の連中にも接触を試みているようです。」
「ガルドか……。それでもこの国は大丈夫なのね?」
"ガルド"という国名に嫌悪しか感じない。怜や愛を無理やりこの世界に引きずり落とした皇国。もしかしたら怜や愛以外にも同じように落とされて、今も奴隷のように扱われている人間がいるかもしれない。
「無論です。貴族の中にも腐っている連中は多いですが、レーバルド公を始めまともな貴族もおりますからね。」
レーバルド公の名が出た途端ぴくりと身体を震わせたフローディアを横目で確認してルディアは思わず溢れそうになった笑みを噛み殺す。
「特にレーバルド公は自浄作用の使い方を良く心得ておいでだから、既にどこの貴族がガルドと密約を交わしているとかの情報をそれとなく行商人に流したりしているようです。行商人はおしゃべりですからね、今や帝都中に知られていると言っても過言ではない。噂を聞いた庶民らは自ら監視団を作る等の対策を始めているようですよ。」
「そう。では皇帝陛下は普段何をされているのですか。」
ちらりと怜がカイルを見れば、嫌がるリリーを膝に乗せようと真顔で奮闘している姿が目に入る。
「基本的に陛下は国民の自発的な行動に許可を与えるだけです。それ故に他国では冷酷だとか非情だとか言われているようですね。どんなに民が苦しんでいても"自分達で何とかしろ"というのが陛下の在り方です。しかし陛下の覇力は強大ですので、この国に御座して頂くだけでも他国への牽制になっている。国民は自分のことは自分で守るのが当然だと教育されていますので、陛下に感謝こそすれ、恨む者などごく少数ですよ。」
そう、と短く頷きつつ怜は内心安堵していた。ゼフィーニアは今のところ安全なのだ。ガルドの使者もゼフィーニアにはなかなか入れないという。愛の命はひとまず保障されているといっていいだろう。ただしガルドがゼフィーニアに牙を剥いたその時は、直ぐにでも助けに行かなければならないようだ。
――何かあった時のために、直ぐに連絡を取れる手段を用意しておきたいな。
石造りの堅牢な皇宮へと吸い込まれていく揺れる馬車の中で、怜は逡巡する。術式で繋がった魔鏡を持ち込むのは何処の国でも禁止されていると言われ、持って行くことが許されなかった。全く同じ特別な魔法陣を裏に刻めば、その魔鏡同士がリンクし、空間を越えて会話も出来るようになるらしいが、国境のある国同士が、一枚づつ持つ程度で、個人でそれを持つことは厳しく罰せられているらしい。元の世界で携帯電話を自由に持ち歩けたことが、懐かしく思い出される。
「レイラ様、着きました。」
フローディアの手をとりながら馬車から降りる。夜空を仰げば、紅い月が煌々と輝いていた。"あの不気味な月を愛も見ているのだろうか"と、何処となく不安で締め付けられる胸を軽く押さえながら、今はただ無事を祈ることしか出来ない自分を、怜は歯痒く思えてならなかった。