1.駆け引き
石造りの皇宮は、中も実に簡素だった。廊下には飾り気ひとつなく、所々に帝国ゴルディアのエンブレムが刻まれている程度で、歩く度に石畳が無機質な音を奏でる。
「レイラ様、これよりお部屋にご案内させて頂きます。」
「部屋?」
フローディアの言葉に怜は訝しげに眉を潜める。
「はい。」
「私はここに住むの?」
「然様でございますが……。」
「帝都にはギムナジウムがあると聞いた。寮もあるらしいからそちらでいいよ。」
フローディアはぴたりと足をとめ、驚愕に目を見開く。
「ギムナジウムは確かにございますが、王族の方が行かれるような場所ではございません!警備にも不安がございますから、どうぞ、皇宮内で我慢下さい。家庭教師を既に手配しております故。」
怜は僅かに目を伏せて逡巡する。
――確かに今の私では自分の身を守りきるのは難しいかもしれない。いつまた狙われるのか、予想もつかない。しばらくは安全なところで鍛えた方がいいか。
怜にとって何よりも優先すべきは自分の命を守ることだった。そうでなければ愛を迎えに行くことは出来ない。
「そう、わかった。それではしばらくこちらでお世話になる。」
怜の言葉にフローディアは安堵する。
「よろしゅうございました。お部屋で御召替え頂きましてから、謁見の間へご案内いたします。」
「着替えなくちゃ駄目なの?」
ぴっちりとした乗馬服を身に纏ったまま、皇帝に会おうとした者が未だかつていただろうか。小柄な怜には大人用の乗馬服では大きすぎたため、子供用の乗馬服を着ているのだが、そうすると胸元が全く合わず、はち切れんばんかりになっている。キュロットも同じようにお尻が苦しそうだ。しかし、どうやら当の本人はそんなことを全く気にしていないらしかった。
「しかし、あの、ドレスは……。」
「あぁ、やっぱりドレスじゃないと駄目なのか。まぁ確かに、皇帝陛下の御前でこれはないか……。大人しく着替えよう。」
自分の服装をくるくると見回して、納得したように首肯する。
「余は別にそのままで構わぬが。」
前方の扉がゆっくりと開かれると同時に、低い、直接脳に響くような声が静かに反響する。その声にフローディアは慌てて廊下の端に寄ると両膝を付き、深く頭を垂れた。後に続いていた者達も、同様に道を開き頭を下げていく。その動きで、悠然と近づいてくるこの男が皇帝なのだろうと怜は察し、身構える。
――全く気配に気付かなかった……。
その事実に憮然とすると同時に、恐怖が身体中を巡った。自分より遥かに上位の存在に、動物的な本能が警鐘を鳴らしている。
「皆、ご苦労であった。」
カイルの労いの言葉に、フローディア達は床につくほど深く頭を下げる。
「お疲れでなければ庭を案内しよう。」
「……有難うございます。」
怜は皮手袋を脱いでカイルの手に自分の手を重ねる。相手の指先は、本当に生きているのかと思うほど冷たかった。カイルは怜の手をとると、先ほど自分が出てきた扉の方へ怜を誘う。蔦模様で飾られた扉の向こうには、石造りの壁に囲まれた中庭が広がっていた。真ん中には小さな噴水が置かれ、青い鳥数羽が水を啄ばんでいる。確かに美しい光景ではあったが、庭を見渡した怜の表情が和らぐことはなかった。
「やはり長旅で疲れておられるのかな。」
寄り道に寄り道を重ね、通常の倍程の時間をかけて帝都に着いたことを揶揄されているのだろうか、カイルにそう言われ、怜は静かに首を横に振る。
「いいえ、フローディア達によくして頂きました故、疲れはございません。この度は私の留学を快く受け入れて頂きまして、真に有難うございます。」
礼を取る為にさり気無く重ねていた手を離し、胸元にその手をあてて腰を曲げる。ポニーテールが重力に従い流れ落ちて、隠されていた白く細いうなじが露になる。カイルは無意識に手を伸ばして、ゆっくりとそのうなじを指先で撫でた。怜は触れられたところを手で庇いながら弾かれたように後ずさる。
「これは失礼を。」
カイルは謝罪を口にしながら面白そうに目を細め、開いた分だけ距離を詰める。
「……血がお望みなら、私は皇宮に留まることは出来ません。」
怜はさらに一歩後退する。
「……余が恐ろしいか、異界の姫君よ。」
その距離をさらに一歩、カイルが詰めた。
――異界の……?
怜は努めて表情を消す。ここで一切の動揺を見せてはならない。この男は一体何を、どこまで知っているのだろうか。鎌をかけられているのか、試されているのか、怜はカイルの目をひたと見つめながらその真意を探す。
「何をおっしゃっていらっしゃるのか、解りかねます。」
言葉を選びながら、また一歩後退する。何かがちくりと背中に当たり、思わず身を庇う様に後ろ手に手を伸ばしてしまう。振り返るとそれはアーチ上のオブジェに絡みつく蔦植物で、棘のあるそれに触れてしまった怜の掌は僅かに傷ついた。
「……っ!」
毒でも含まれているのだろうか、痺れる様な痛みに顔を歪ませ、掌を見つめると、うっすらと血が滲み出ていた。その腕を掴まれて、問答無用で引き寄せられてからようやく怜は自分の失態に気付いた。カイルの目は金色に輝き、瞳孔は糸のように細くなっている。吸血欲を感じている吸血族特有のその変貌を目の当たりにして怜は息を飲んだ。
――フィオールで聞き習ってはいたが、ここまではっきりと瞳の色が変わるとは……。
感情の伴わない怜悧な眼差しが煌々と輝く様は、美しくも恐ろしかった。カイルは彼女の掌に躊躇なく舌を這わせ、血を舐め取り、掌の甲に唇を押し当てる。そうしてようやく顔を上げた頃には、彼の目はもう元の蘇芳色に戻っていた。
「余に隠し立てをするか。」
全てを見透かしたような目を、真っ直ぐに見つめ返すのは容易ではない。けれども怜は一切視線を避けることなく、はっきりと先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「何をおっしゃっていらっしゃるのか、解りかねます。」
カイルの口角が僅かに上がったような気がしたのは気のせいだろうか。それはあまりにも一瞬で、怜は確信を得ることが出来ない。
「……良かろう。そなたの血に免じ、此度は許そう。」
怜はカイルの手から自分の手を引き抜いた。
「フローディア達のところに戻ってもよろしいでようか。」
「許可しよう。」
怜は軽く腰を落とし礼を取ると、カイルの横を通り過ぎ、振り返ることなく皇宮へと戻っていく。その後姿を、カイルはうっとりと眺めた。
「お気に召されましたか。」
隠れていたルディアが、木陰から顔を出す。
「美味であった。」
「それはよろしゅうございました。」
カイルが怜の血を執拗に舐め取っている姿を密かに眺めていたため、十分に予想していた答えではあったが、それでもどこか信じられないような心地だった。
――陛下から"美味"という単語が発せられる日が来ようとは。
感無量と言った面持ちで、ルディアは嬉しさを隠そうともしない。
「それで、今後のご予定は。」
「ガルドの様子はどうだ。」
「は、異界の者を呼び出すために、相当数の術者を犠牲にしたと見えて、再び呼び出す余裕は残っていないかと。またこれまで呼び出された異界の者の生死についてはまだ調べがついておりません。もし亡くなっているとすれば……。」
「ゼフィーニアに送られた娘や、先ほどのあの娘を血眼で探していることだろうな。」
「それについてですが、待ち伏せされていたことからも、ガルドはフィオールに奪われたことに関しては大方、予想がついていたのではないかと。」
「そうであろうな。……鼠がうろちょろと煩わしい。宮内にまで入り込んできている。」
「間者ですか。」
「余に害を成す程の力はなき故、放っておいたがこれを期に片しても良いか……。面倒ではあるが。」
そう言って一拍置くや、狭い範囲にカイルは覇力を開放する。すると、ぼとりと木の上から庭師のような格好をした男が落ちた。
「始末しておけ。」
カイルはそう言い捨てると、白地に黒の斑が入った毛皮のマントを翻す。
「畏まりました。」
ルディアは先ほどの覇力の余波を受けて少し辛そうに顔をしかめながら、それでもしっかりと立って、カイルの背中を見送る。そうしてカイルが完全に扉の向こう側へ消えてから、カイルの覇力を直接向けられて気絶してしまった男に、躊躇なくざっくりと剣を突き立てた。
「陛下は優しき故、拷問はなされない。楽に死ねたこと、あの世で感謝するといい。」
赤い血が絨毯のように広がり、けれどもそれは瞬く間に土に吸い取られて行く。
「今年もこの庭の花は赤いのだろうか。」
その花々を、あの異界の娘は受け入れてくれるだろうか、そんな懸念だけがルディアの胸を締めた。
部屋に案内された怜は、そのままソファに倒れ込んだ。
「レイラ様?!」
慌ててフローディアは怜に駆け寄る。
「いかがなされました。」
「舐められた。」
「え?」
ソファに転がったまま掌を開いてみせる。もともと血が滲んでいた程度であったため、傷口さえ何処にあるのかわからない程だ。だが、その掌が熱を放ち、その熱が怜の身体中を駆けずり回り、暴れている。
「吸血族、の、唾液って媚薬……、なんだっけ……?」
息が苦しく、呂律も上手くまわらない。
「然様でございます。ああ、陛下はなんてことを。レイラ様、申し訳ございません、鎮静剤をお持ちしますのでしばらくお待ちを。」
フローディアが慌てて部屋から出て行く音が耳に残る。身体を支配する熱を追い出そうと、魔力を巡らせてみるが上手くいかず、逆に身体が酷く疼き出す。慌てて戻ってきたフローディアが注射器で薄い紫色の液体を怜の身体に流し込むのを、朦朧とする頭を傾けてぼんやりと眺めていたが、やがて瞼が重たくなり意識を手放した。
「みゃぉ。」
耳元をふさふさとした感触でくすぐられ、怜は目を覚ました。いつの間にかベッドに運ばれており、服もネグリジェのような寝巻きに着替えさせられていた。窓からは沈みかけではあるものの、まだ太陽が見えていて、そこまで長い間眠っていたわけではないらしかった。怜は身をすりよせてくる白い生き物を見る。顔はほぼ猫であるが、真っ白で長い耳は翼のような形でせわしなく動いている。ふさふさの尻尾を上機嫌に布団に打ち付けながら、少し距離をおいた怜に再びぴとりとくっつき欠伸をする。
「みゃぁ。」
愛らしい声で鳴くその生き物を怜はそっと腕に抱き上げて、ベッドから降りると、真っ直ぐに扉に向かい開け放つ。扉の両脇で立哨していたのはフローディアと同じように軍服に身をつつんだ女性だった。彼女達は怜が扉から出てくると怜の方に向き直り無言で礼をとる。
「皇宮内を案内して頂きたいのですが、構いませんか。」
女性軍人達は顔をあげ、頷いた。怜の腕の中に鎮座しているリリーを瞥見して少し目を丸くしたようではあったが、すぐに視線を怜に戻す。
「はい、ご案内いたします。しかしその前にお着替えを。」
やっぱりこれは寝巻きだったのだな、と怜は自分の着ている服を見下ろしつつ頷く。
「ヴィオラ!」
大声に合わせて、隣の扉からばたばたと足音を響かせながら、質素なドレスに白いエプロンをボタンでとめた女性が出てくる。
「レイラディア様が出歩きたいとのことですので、お着替えのお手伝いを。」
ヴィオラと呼ばれた女性は怜ににっこりと微笑むと、低く腰を折った。
「ヴィオラと申します。お世話をさせて頂きます故、よろしくお願いいたします。」
「有難うございます。」
ヴィオラに連れられて部屋に戻った怜は、開かれたクローゼットから服を引っ張り出すヴィオラと共に、動きやすそうなものを探す。
「裾が長いのはちょっと……。」
「しかし、おみ足を出されるのは、この国ではあまり良く思われないのですが……。」
フィオールでは女性の人口が圧倒的に多かったためか、その辺りのことについて口煩く言われることはなかったが、ゴルディアではそうもいかないらしい。
「……私が着てきた乗馬服は?」
「あれはお洗濯に出させて頂きました。」
「では扉の外にいる女性の方が着ていた、」
「あれは軍服でございます。姫様が召されるようなものではございません。」
怜が言い終わる前に、ぴしゃりと遮られる。さてどうしたものか、と怜は外を見る。広がる帝都に少しずつ明かりが灯り始めている。
「お店ってまだ開いているでしょうか。」
「え?」
怜は一旦リリーを降ろすと、不服そうに睨み上げてくるリリーを踏まないように気をつけながら、最もレースやフリルの少ない衣装にささっと着替える。裾はやはり無駄に長い。フィオールから持ち込む予定だった普通のワンピースのような服は、ゴルディアでは着られないらしい。道中でも、確かに足を出すような服を着ている女性は全く見ることがなく、ズボンか裾が地面に着くほど長いローブかのどちらを身に着けていた。途中で馬車を失ったのが悔やまれたが、足を出してはならない、というのがこの国の文化であるならば従わざるを得ない。
「城下町に服を買いに行きたいのですが。」
着替え終わると同時に飛びついてきたリリーを抱き上げ、何でもないことのように言ってのける怜の言葉に、ヴィオラは慌てて首を横に振った。
「ドルツィエ少尉や陛下の許可を取らないことには!」
「取ってきてもらえますか?それとも私がお願いしにお伺いした方が良いのでしょうか?」
「い、いえ、畏まりました。」
慌てて出て行ったヴィオラを待つこと数分、彼女はフローディアを連れて室内に戻ってくる。
「レイラ様、……あら、リリー様。」
怜の腕の中に顔を擦り付けている白い猫を見て、思わずフローディアはその猫の名を呟く。
「リリーという名前なの?」
「あ、はい、然様でございます。こちらにいらしていたのですね。陛下が随分探していらっしゃるご様子だったのですが。」
「お前、皇帝陛下に飼われているの。」
哀れみの目でリリーを見つめると、リリーも悲しそうな声で同意するかのように"みゃっ"と鳴く。
「それより、お外に出られたいとのことですが……。」
「うん、この服は嫌だ。動きにくい。」
一週間以上もの旅の間に、怜はすっかりとフローディアに打ち解け、気は使わないで欲しいというフローディアの意向もあり言葉を崩していた。怜の少しぶっきら棒な物言いに、ヴィオラは目を剥いたようだった。
「それでは仕立屋を呼びましょう。」
「今から仕立てていたら時間がかかる。それまでこのビラビラしている服を着ていなくちゃいけないのは嫌だ。」
「しかし、もうほとんど陽も落ちてしまいましたし、危のうございます。既製服でも良いのでしたら衣装屋を呼んで参りますので……。」
「夜の帝都も見てみたい。賑やかだと聞いた。」
どこか期待に目を輝かせる怜の様子に、フローディアは諦めて頷いた。
「畏まりました。陛下にお伝えして参ります。」
怜の部屋を一度離れ、カイルの執務室へと急ぐ。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し"失礼します"と声をかけると、ルディアが中から扉を開けた。
「やぁ、フローディア。陛下がお待ちかねだよ。」
「ラード少佐、お待ちかねというのは……。」
不思議に思いながら中に入ると、カイルは外出用の服に着替えている様子だった。
「陛下、……まさか。」
ちらりと部屋の端を見てみると、魔鏡にリリーを抱いた怜の姿が移っている。しかし、魔鏡では声までは聞こえないはずだ。
「ここ一週間ほどで読唇術に随分磨きがかかったような気がするよ。」
得意満面の笑みでフローディアの疑問にルディアが答えた。
「少佐……。」
ずっと覗き見をしていたのか、と呆れると同時に、同じ女性としては怒りも沸くが、フローディアはぐっと耐えた。
「陛下も一緒にお出になられるようだから、私も護衛につく。」
「街に下りるのは久しぶりだな。」
無表情だがどこか楽しげなカイルは、飾り気のないジャボでシャツを締め、詰襟の上着を羽織る。貴族が好んで着るスタイルだったが、カイルを取り囲んでいる侍女達はさらに、豪華な毛皮のマントの端を肩に付けられたループに通し、折り返してブローチで固定する。カイルの持つ独特で強力な存在感が豪華な衣装の影響で増してしまっている。
「さて、行くか。」
「しかし、陛下!」
「まぁまぁフローディア、気配を隠していれば誰もわかりはしないよ。」
「……わかりました。」
そんなはずはない、という言葉を呑みこんで同意する。結局カイルやルディアを連れて怜の部屋へ戻ることになった。
――レイラ様の反応が怖い……。
それでなくても第一印象は良くなかったはずであるので、フローディアとしては今以上に怜とカイルの溝を広げたくはなかった。足音で気付いたのか、部屋へ近づく途中で扉が開かれ怜が出てくる。カイルを目にしても表情ひとつ変わらないが、やはりどこか固い。カイルは怜の胸に抱かれたリリーを見とめて眉を潜めた。
「リリー、そこにいたか。」
「ふぎゃー!」
怜の腕の中で毛を逆立たせて威嚇するリリーを怜は驚いて見つめた。
「やれやれ、いつまで経っても余に慣れぬな。さて、街へ降りたいとのこと、余も同行しよう。」
「まぁ、陛下のお手を煩わせる訳には参りません。」
心が全くこもっていない怜の棒読みの遠慮に意を介した様子もなく、カイルは怜の腰に腕を廻して歩き出す。怜は仕方なくリリーを抱いたまま付き添うしかなかった。