ノイズは雨音に似ている
また、火曜日だ。
これで、何度目だろうか。
大学の講義室。俺は、一番後ろの席で窓の外を眺めている。
空はどんよりとした、特徴のない曇り空。天気予報は「降水確率20%」だ。
「……というわけで、この現象を『存在論的脱臼』と呼びます」
退屈な哲学史の教授が、今、そう言った。
俺はノートに目を落とす。そこには、震える字でこう書かれている。
『10時42分。「存在論的脱臼」』
俺が書いたものではない。少なくとも「今」の俺が書いたものではない。
昨日……いや、「前の火曜日」の俺が、次の俺に向けて残したメモだ。
この現象に名前はない。
午前10時52分。必ず、それが起きる。
講義室の空気が、ふっと静止した。
水面に落ちたインクのように、無音のズレが広がる。
教授が、こめかみを押さえて言葉を切る。
前の席の女子が、小さく「ぁ……」と息をのむ。
誰もが、ほんの1秒か2秒、動きを止める。
「……すまない」
教授が咳払いをする。
「ひどいデジャヴュだ。今、まったく同じ話をしたような……」
学生たちがざわめく。
「私もです」
「気持ち悪い……」
俺だけが、平然と窓の外を見ている。
彼らにとっては一瞬の気持ち悪さで終わる。
だが俺は知っている。世界が、また一つ、劣化した。
講義室を出ると、中庭で一人の女子学生が空を見上げていた。
彼女は、いつもそこにいる。
黒髪の、見覚えのない学生。彼女はこちらに気づくと、いつも同じ質問をする。
「あの……雨、降りそうですか?」
「降らないよ。降水確率は20%だ」
俺は「前の火曜日」と同じ答えを返す。
彼女は「そっか」と呟き、どこかへ歩いていく。いつもそうだ。
だが、今日は違った。
彼女は去り際に、俺を振り返り、こう言った。
「うそつき。もう濡れてるくせに」
ドキリとして、自分の服を見る。
濡れてなどいない。乾いている。
彼女のいた場所を見ると、床のアスファルトが、そこだけ丸く濡れていた。まるで、そこに誰かが傘も差さずに立ち尽くしていたかのように。
空からは、一滴も降っていないのに。
大学の最寄り駅。
俺はこのループから抜け出そうと、何度も試みた。
隣町へ行こうとしても、必ず「踏切の緊急点検」で電車が止まる。
バスに乗れば、決まって「原因不明の渋滞」に巻き込まれ、同じ場所で日没を迎える。
まるで、この街全体が透明な壁で覆われているようだ。
今日も、駅の電光掲示板は「人身事故」の赤い文字を点滅させていた。
前の火曜日までは「緊急点検」だったはずだ。
ノイズが、悪化している。
駅前の広場で、一人の男がギターを弾き語りしていた。
彼は、いつも同じ、どこかで聞いたことのあるラブソングを歌っている。
だが、今日は、そのギターの弦が一本足りなかった。
それでも男は気づいていない。存在しない6本目の弦を指で押さえ、正確な和音を奏でているフリをしている。
音が、おかしい。どこか欠けた音が鳴っているはずなのに、周囲の通行人は、うっとりとした顔でそれを聴いている。
まるで、彼らの耳には正しい音が鳴っているかのように。
自室のアパートに帰る。
カレンダーは、もちろん火曜日。
テレビをつける。どのチャンネルも、例の「人身事故」の臨時ニュースを流している。
ふと、机の上に置かれた一枚の紙に気づく。
見覚えのない、真っ赤な封筒。
『火曜日を繰り返している君へ』
宛名も差出人もない。俺の筆跡ではない。
震える手で封を開ける。中には、一枚の写真だけが入っていた。
大学の屋上から撮ったらしい、この街の風景。
特徴のない曇り空。
写真の中央、遠くのビルの屋上に、誰かが立っている。
小さすぎて顔は見えない。
ただ、その人物は、鮮やかな「赤い傘」を差していた。
そして、写真の裏には、こう書かれていた。
『世界から零れたのは、君か、私か。』
俺は窓に駆け寄る。
外は、まだ雨など降っていない。
窓ガラスに映る自分の顔を見た。
その俺は、ゆっくりと、こちらを見て、確かに笑った。
俺は、まだ笑っていないのに。
窓ガラスから目を逸らし、俺はアパートを飛び出した。
目的は一つ。写真に写っていた、大学の屋上。
あの赤い傘の人物に会わなければならない。
街のノイズは、さらに酷くなっていた。
点滅する信号機の色は赤と緑ではなく、赤と赤だった。
すれ違う人々の顔には、目や口といったパーツが欠落している者が混じっている。彼らはそれに気づかず、欠落した口で笑い、存在しない目で俺を見ていた。
大学へ続く道は、まるで腐ったフィルムのように歪んでいた。
壁が内側へ垂れ込み、アスファルトが波打つ。
一歩進むごとに、耳の奥でレコードの針が飛ぶような音がした。
プツッ、プツッ、と。
大学の屋上へ続く階段は、錆びた鉄の匂いがした。
扉を開けると、生ぬるい風が頬を撫でる。眼下に広がるのは、写真と寸分違わぬ、色のない街。
そして、そこに彼はいた。
退屈な哲学史の教授が、鮮やかな赤い傘を差し、屋上の縁に立っていた。
こちらに背を向けたまま、彼は言った。
「来たかね。観測者」
「あんたが、これを?」
俺は赤い封筒を掲げる。
「私かね。あるいは、君自身かね」
教授はゆっくりと振り返る。その顔は、講義室で見たときよりもずっと老いて見えた。疲弊しきった、深い皺が刻まれている。
「この世界は、完璧なはずだった。雨の降らない、静かな火曜日。悲劇の起こらなかった、ありえたかもしれない一日。だが、君という異物が混入したことで、綻びが生じた」
彼の言葉は、風に溶けていく。
「君のせいで、弦は切れ、電車は止まり、アスファルトは濡れる。君の存在そのものが、この世界にとっての『ノイズ』なのだよ」
「抜け出させろ」
「出口などない。ここは始まりも終わりもない、閉じた円だ」
教授は傘を少し傾け、空を見上げる。
「だが、君には選択ができる。この円を維持するか、破壊するか。……ああ、ひどいデジャヴュだ。この会話も、もう何度目だったか」
彼は、答えを求めてはいなかった。
ただ、そこにいるだけ。まるで、これから起こるすべてを記録するための、レンズのように。
屋上を後にし、非常階段を降りていると、踊り場で彼女が待っていた。
黒髪の少女。
今日は、空を見上げていなかった。俺の目を、じっと見ていた。
「あの人、うそつきだよ」
初めて聞く、感情のこもった声だった。か細く、震えている。
「本当は、雨だったの。あの日……あの火曜日。駅のホームで、私は……」
言葉が途切れる。
彼女の足元のアスファルトが、じわりと濡れていた。
いや、違う。濡れているのではない。アスファルトそのものが、黒い水たまりのように揺らめき、溶け出している。
「お願い」
彼女は俺に手を伸ばす。その指先は、半ば透けていた。
「雨を、降らせて。私を、終わらせて」
「うそつき。もう濡れてるくせに」
彼女がかつて俺に言った言葉が、脳内で反響する。
俺は自分の手を見る。乾いている。服も、肌も。
だが、魂の奥底が、芯から冷たく湿っているような感覚があった。
この世界に存在しなかった「雨」の記憶。それを持ち込んだのは。
「俺、か……」
「あなたは、覚えてるはず」
少女は泣きそうな顔で囁いた。
「ノイズは、雨音に似ているでしょう?」
俺は、決めた。
この歪んだ、静かで、残酷な天国を終わらせる。
目を閉じ、意識を集中させる。
願うのではない。思い出すのだ。
あの日、本来、ここにあったはずのものを。
アスファルトを叩く、激しい音。
窓を濡らす、冷たい雫。
赤い傘を押し流そうとする、灰色の奔流。
「降れ」
その瞬間、世界が軋む音がした。
空が、一枚の絵画のようにビリビリと破れ、その向こうから、本物の「雨」が、暴力的な勢いで降り注いできた。
――街が、悲鳴を上げた。
駅前のギター弾きは、弦のないギターごとノイズの砂となって崩れ去った。
電光掲示板の赤い文字は、意味のない記号の洪水となって明滅し、焼き切れた。
通行人たちの顔が、のっぺらぼうのマネキンのように溶けていく。
世界が、その体裁を保てなくなっていく。
目の前の少女は、全身で雨を受け止めていた。
その体は、降りしきる雨粒に洗われるように、どんどん透明になっていく。
最後に、彼女は俺を見て、はっきりと微笑んだ。
「ありがとう」
そう言って、消えた。
大学の屋上を見上げる。
教授は、赤い傘を閉じ、天を仰いでいた。
降り注ぐ雨に打たれ、その輪郭がゆっくりと滲んでいく。彼もまた、この雨に溶けていくのだろう。
世界のすべてが、音と光の奔流に飲み込まれていく。
これで、終わる。
これで、よかったんだ。
気づくと、俺は完全な闇と無音の中にいた。
崩壊も、雨音も、何もかもが過ぎ去った、虚無。
ふと、目の前に、ぼんやりと光が灯った。
それは、一台の古いブラウン管テレビだった。
電源が入っているわけでもないのに、画面だけが白く光り、砂嵐を映し出している。
ザーッ……ザーッ…………。
耳鳴りのようなノイズだけが、この空間のすべてだった。
やがて、その砂嵐の奥から、緑色のカタカナが滲み出すように浮かび上がってきた。
『記録媒体ノ破損ヲ確認。修復シ、再生ヲ続行シマスカ? [Y/N]』
俺は、自分が誰なのか、なぜここにいるのか、思い出せなかった。
ただ、この選択肢が、途方もなく重要なものであることだけは理解できた。
修復。続行。
それは、あの静かな火曜日を、もう一度始めるということなのだろうか。
無意識だった。
俺の腕が、ゆっくりと持ち上がる。
震える指先が、画面の『Y』に向かって、伸びていく。
ガラス質の冷たい画面に、指が触れる、その瞬間。
俺は、そこに映る自分の顔を見た。
その顔は、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
どうしようもない喪失感と、終わらない後悔に歪んでいた。
そして、その顔は。
あの講義室で、退屈そうに哲学史を語っていた男の顔と、瓜二つだった。
ザーッ……ザーッ…………。
ノイズが、次第に、耳慣れた音に変わっていく。
それは、どこか遠くで降り始めた、優しい雨音に似ていた。
また、火曜日だ。
これで、何度目だろうか。
この物語が、あなたの心に小さな水たまりを残せたなら幸いです。
それでは、また次の物語で。
雨上がりの、どこかで。




