新しい物語
――ヴァーチェ聖翼教会――
ヴァーチェの首都グロリアにあるソロアスター教の総本山。
世界最大の規模を誇る教会であり、その最高位である教皇には国王ですら頭が上がらない。
エルエリオンでもっとも巨大な権勢を誇る場所。
いわば世界の中枢機関だ。
本日はそこに一人のルガウ島民が召集されていた。
血のように紅い礼服で身を包んだひょろがりの中年男性。
貧相な体格とは裏腹に大層立派な口髭をたくわえている。
義兄が島民に舐められないようにと薦めてくれたものだが、そんなものがなくとも彼が周囲から軽んじられることは決してなかっただろう。
ヴァーチェ聖翼教会枢機卿ルージィ・マレアニトには海のように深い知慮と鷹のように鋭い眼があったから。
「教皇。ルージィ・マレアニト、参りました」
祭壇にたどり着くとルージィは教皇に拝礼した。
膝はつかない。ソロアスター教徒が隷属するのは至高神ラースのみ。
神の前に万人は平等だ。
「遠路はるばるご苦労」
「髭をたくわえたか」
「十歳は老け込んだように見えるな」
「いやなかなかに男前だ」
祭壇に教皇の姿はなかった。
あるのは神杖を掲げるラースの石像と初代聖王の遺体が眠るという聖棺のみ。
ただ声だけが聞こえてくる。前後左右から一人ずつ話しかけてくる。
「ルージィ卿よ、長きに渡る使命をよくぞ果たしてくれた」
「報告はしかと受けている。君の仕事はいつも素晴らしい」
「魔族であれどもっとも敬虔な信徒といえよう。だが……」
「それでも、同胞に対する情が湧かんとも限らないからな」
ソロアスター教の教皇は一人ではない。
権力の一点集中を避けるために四名で責務を分担している。
そのため神に代わり天下を管理する四人の皇――『四天皇』などと呼ぶ者もいる。
暗殺防止のため姿は見せない。本名も明かさない。
ルージィは教皇という名の四身一体の生物という認識で接している。
「ラース神像の前にて問おう。今までの報告に虚偽はないか?」
教皇の一人が厳かにそう告げた。
ルージィは拝礼をやめると静かに、だが力強く断言する。
「神の御前において嘘偽りはいっさいございません」
その瞳はまっすぐに前を見据え一点の曇りもなかった。
たとえ心清き信徒でなくとも彼の言葉を疑う者は少ないであろう。
「……そうか。わずかとはいえ疑心を抱いたことをここに謝罪する」
「しょせんは星占い。杞憂であったか」
「当然だ。大神御自らが手を下されたのだぞ」
「邪神の復活などあるはずもない」
現在から遡ること約十年前、ヴァーチェ聖翼教会にひとつの予言が舞い降りた。
複数の占星術師より詩という形で告げられたその予言とは要約すると以下の通り。
『地の底より現れし死神により女神ネメシスが復活するであろう』
太陽神ラースを至高神として崇め、月星神ネメシスを邪神として嫌悪する教会としては決してあってはならぬこと。
教皇の懐刀であるルージィが魔界の魔族の拠点であるルガウへと派遣されたのはそういった事情からだ。
……もっともそれは建前で、魔族であるにも関わらず協会内部で権勢を強めつつあるルージィを疎ましく思った四天皇の一人が、彼を体よくキュリオテスの辺境の孤島へと左遷したというのが真実なのだが。
実のところ彼らは、ネメシスの復活どころか、そのような神が実在することすら半信半疑だった。
いかに教皇といえど一万年以上も昔の伝説を本気で信じられるほど敬虔ではない。
いや教皇だからこそ盲目的に信じることができないというべきか。
権力者の神は常に自分の内のみに在る。
「ルージィ卿よ、本日付けで卿の任を解く」
そのような事情があるにも関わらず、教皇たちはルージィを釈放した。
長年権力の中枢から遠ざけたことで彼の権勢が弱まったということもあるが、一番の理由は純粋な憐憫だ。
教皇の懐刀とまで呼ばれた男にいつまでも奴隷同然の極貧生活を強いるのはあまりに忍びない。疎ましくは思うが頼れる人材であったこともまた事実なのだ。
「感謝いたします教皇。しかし私は今しばらくルガウに留ろうと思います」
だがルージィはあろうことか、教皇が恩情で差し出した手を自ら払った。
「予言の示す死神がルガウ王とは限りません。経過観察は必要です。それに……」
ルージィは力なく微笑み、そして優しい声でこう告げた。
「島には、尊敬する義兄と愛する妻がいますので」
その言葉を聞いて教皇たちは確信した。
かつて『教会の死神』とまで呼ばれ恐れられた大悪魔ルージィ・マレアニトは、孤島での生活に骨の髄まで毒されて、すでに死んでいたのだと。
※
祭壇を出たルージィは、ルガウへの帰路に就くべく誰もいない回廊を独り歩く。
陽はすでに暮れ、夜の空には美しい蒼月が浮かんでいた。
「そういえば、あの日も月が綺麗な夜でしたね」
アドラにオキニスをけしかけた時のことを思いだし、つい口元が緩んでしまう。
「世界の変革を最前列で観る絶好の機会。誰が帰るものかよ」
ルージィの報告に虚偽はない。
アドラが神雷も使えぬ低レベル勇者に手を焼いて未だ殺せずにいるのは事実。
だがルージィはすでにアドラが女神ネメシスの子だと確信していた。
彼の中に流れる邪竜の血が死神の存在を、そして悪魔らが母の実在を告げていた。
「期待してますよアドラ・メノス。この停滞した世界の針を動かせるのは、きっとあなたしかいない」
もしアドラがオキニスを情け容赦なく殺害していたら、ルージィもここまで期待しようなどとは思っていなかった。
ヴァーチェ本国に魔界から来た危険分子であると報告し、国家の総力を以てしてルガウを滅ぼしていたことだろう。
だがアドラはオキニスを生かした。
生かして勇者の心を諭した。
その姿にルージィは悪魔ではなく真の勇者の姿を見た。
彼ならば、もしかしたら止められるかもしれない。
朽ちゆく世界を、破滅の運命を、変えられるかもしれない。
致命に至る毒はそれと同量の毒を以て制するしかないのだ。
それはもしかしたらか細い可能性にすぎないのかもしれない。
だがルージィはそれに賭けた。勝敗は関係ない。賭けること自体に意義があった。
ギャンブルはルガウ島民の必須教科だ。
「古き伝説を捨て、新しい物語を綴りましょう。死神よ、世界は今、あなたを中心に回っていますよ」
ルージィは足を止め蒼醒めた月を見上げる。
昔はこれだけで好戦的になり、無性に誰かの鮮血を見たくなったものだが、今は驚くほどに何も感じない。
それ以上の狂喜と興奮で上書きされてしまっていた。
教会の死神ルージィ・マレアニトはアドラと出会って死んだ。
本物の死神を目の当たりにしてその異名を名乗るのはあまりにおこがましいと感じたから。