死神のレクイエム
「ああ……」
地獄に顕現し君臨する閻魔をも越えし真の死神。
その断罪の瞬間を、エリは誰よりも間近で見ていた。
「終わったんだな……すべてが」
彼女の呟きにジャラハは苦笑いを浮かべる。
「ホントに終わったのかねぇコレ。新たな人類の敵が現れただけじゃねえのかい」
「いいや終わった。少なくとも私の中では」
エリは歓喜にうち震えながら指を組み、祈る。
「ラースでもネメシスでもない。私の神はここにいた。すべては神の思し召しのままに――アーメン」
――ああそうですかい。
ジャラハは大きく肩をすくめた。
ウロボロス種は主神ラースが相手でも契約によってビジネスライクに対応した。一族郎党揃って無神論者なのだ。
なのでこういうノリは理解できない。当然ながら選神もしない。神になる気もさらさらない。勝手にやってろ。
「神でも亀でもなんでもいいが、あれってアドラだよな? 何固まってんだか」
アドラは動かない。
上空に停滞したまま、ただ虚空を見つめている。
泰然としたその様は神々しくもあるのだが……。
「力の使いすぎで頭がイカれちまったかな?」
「無礼なことを! 神の御心を推し量るな!」
エリはジャラハを一喝すると、滞空したままのアドラを心配そうに見上げる。
「あ――」
そしてしばらくして、決してあってはならぬ恐るべき可能性にたどり着く。
「まさか、まだ……終わってはいないのかッ!?」
※
すでに鎮火し焼け野原と化したアドラの家の跡。
再び訪れし魔導の麓。
そこでアドラは独り静かに佇んでいた。
今からここに現れる客をもてなすために肉体のほうは停滞させてある。
「 《無叉虚矛》 はすべての冥道を塞いだ」
待ち人はすぐに訪れた。
いやアレは人と呼ぶべき存在なのだろうか。
ともあれ、ここまではおおむね計画通りだ。
「あんたの逃げ場はここしかない」
アドラは振り向き 《勝利の剣》 に手をかける。
「最後の決着をつけようか――サタン」
サタンはすでに邪竜の姿ではなかった。
褐色白髪黒眼の優男――よく見ればアドラに似ていることがわかる。
それは彼の魂に刻まれし人形の姿。
「そうだね。肉体を滅ぼされた借りは返さないとね」
サタンもまた腰に提げた 《銅の剣》 を抜いた。
剣はまたたくまに悪意の黒に染まる。
「愚弟よ、最期に言い遺すことはないか?」
「あんたはすごい奴だった。たった独りで人類すべてを相手取り、それに勝利したといって過言じゃないと思う。不覚にも尊敬してしまった自分がいる」
「ようやく兄の偉大さに気づいたか。遅ぇんだよボケ」
「だからおれは、今ここであんたを越える」
アドラが剣を構える。
サタンは無形のままで迎え討つ。
すでに二柱は刃の届く必殺の間合いにいる。
一瞬の静寂。
だが決戦の火蓋はすぐに切られる。
両者共にそう我慢強いほうではない。
次の瞬間、互いの刃が火花を散らせた。
激しい剣閃が飛び交い、金属音と共に弾かれ、それが幾度となく繰り返される。
両者譲らぬ一進一退互角の攻防。
だが仕合の最中にサタンは、なぜかやる気なさげに剣を降ろした。
「どうしたサタン。勝負はこれからだろう」
「アホくさ。やってられっかよこんな茶番」
サタンは剣を放り投げるとその場にゴロンと寝転んだ。
「どうせ途中で斬られてボクに華を持たせるつもりだったんだろう」
「……やっぱり兄さんはすごいや。本当に何もかもお見通しなんだ」
「マジで何もかも見通してたら、こんな状況に陥ってねえっつーの」
すべての力を奪われ残った魂を拘束された。
今のサタンは完全なる無力であり、仕合はただの遊戯にすぎなかった。
自分がやる分には構わないが、他人にやられると腹が立つ。
バカバカしくてこれ以上はつき合えない。
「だいたいなんでおまえが最新鋭の魔導兵器でボクがペラッペラな銅の剣なんだよ。遊ぶ時ぐらいもっといい剣持たせろや」
「いや、だってグロリアにいたときにそれを愛用してるっていってたから……」
「マジに受け取るなよ。本音いやボクだって聖王みたいな偉大な勇者になって超すげえ聖剣を自在に操りてえわ」
「ようやく本音が聞けて嬉しいよ。兄さんは口を開けば嘘ばっかりだったし」
「本心を曝すというのは弱点を曝すのと同義さ。世間はそんなに優しくねえぞ」
「そうだね。最近は痛感しっぱなしだよ」
「……」
サタンは上体を起こすとアドラのほうを見ずに訊く。
「なぜボクを殺さない?」
最後の瞬間 《無叉虚矛》 はアドラの精神世界のみに対してか細い冥道を空けた。
それがなければ魂は完全消滅していた。
完全勝利できたはずなのに、なぜそれをしないのか。
「おまえはボクが憎くないのか? まあ、ある意味最高の辱めではあるけれど、ボクがおまえだったら、あの場で即殺してやりたいほどムカついているはずなんだがなぁ」
「ああ、自分が悪いことをしてるという自覚はあったんだ」
「知的で善良な元霊と違って分霊どもは粗野で乱暴なクズ揃いだからな。本来の肉体に戻れて一番嬉しかったのは、あいつらを吸収する大義名分を得れたことだわ」
「やっぱり無自覚なのか」
でも確かに自分がもう一人いたとして、仲良くなれる気はしない。
究極の同族嫌悪だ。哀しいね。
「あんたを怨んでいない、憎んでいないといえば嘘になるだろう。でもそれは人としてのおれの話。今のおれは神の立場でもある」
「……」
「さっきもいったけど神としてのおれはあんたのことを尊敬してる。あんたはきっと誰よりも敬虔に運命に殉じていた。人類の敵として生まれおち、たった独りで悪としての役目を全うしきったんだ」
「……殉じたんじゃねえよ。敗北したんだよ、運命にな」
神より与えられし運命に抗い続けることがサタンの生き様だった。
だが心のどこかに何をやっても無駄という諦観があった。
だからこそ刹那主義に共感を抱いた。一見すると自棄に思えるような利敵行動をとったことも何度かある。今回もあえて不利な状況を自ら生み出したが、それがなくともいつかどこかで敗北を喫していたのであろう。
なんてことはない。結局のところ最初から最後まで運命の隷だったというだけのこと。笑い話にもならない。
「運命は人類を選んだ。敗者に生存する資格はねえよ。ちょうど生きることに飽きてたところだ。さっさと殺しな」
「そういうわけにはいかない。運命はあんたを選ばなかったかもしれないけど、あんたを選んだ人類はいるんだ」
アドラの背後には人影があった。
サングラスをトレードマークにした禿頭の冴えない中年男性だった。
マルディ・グラの人形を介してここまで足を運んできたのだ。
「ご機嫌麗しいでしょうか、我が神よ」
「ミカエルよ……こいつはキミが望んだ結末かい?」
サタンが鼻で笑うと教皇ミカエルは深々と頭を下げる。
「ご冗談を。私はただの傍観者。巡る運命をただ受け入れるのみです」
「思い返せば全部おまえの掌の上だった気がしてならねえんだけどな」
「確かに私はあなたを試しました。あなたに真神たる資質があるかと」
「その結果、出来損ないのボクは無様に落第したわけか」
「というよりも、あなたが神になる気がなかったというべきですかね」
「……」
「ならば私もその意に従いましょう。私が選んだ主は他ならぬあなたなのですから」
「はぁ? まさかここで一緒に暮らすとか言う気じゃねえだろうな?」
「いえ、私は帰りますよ。あなたが増やした政務がありますので。それにお邪魔虫にはなりたくありませんのでね」
「おいおい、ひょっとしておまえそのために……」
「すべてはマルディが言った通りですよ。永き御役目を立派に全うしたあなたの余生に、愛と安らぎがあらんことを」
ミカエルは最後にもう一度だけ会釈してサタンに背を向けた。
去り際にアドラに声をかける。
「政治の世界は玉虫色。悪事だけでは回らない。これからはボチボチと綺麗事もやっていきますよ」
消えていくミカエルをアドラは礼節を以て見送る。
腹の底がまるでわからず、決して手放しで尊敬できる人物ではなかったが、為政者は清濁併せ持つ必要があることをアドラに教えてくれた。そして――
「サタン」
ミカエルと入れ替わるように、彼女はアドラの魔導の麓へと入ってきた。
普段の鎧姿ではない。平凡で質素だが見目麗しいヒエロの町娘の姿で。
「これからはずっと一緒だ」
ホムンクルス体をミカエルに返上した初代聖王だった少女――エリ・ホワイトは、そういってサタンの胸の中に飛び込んできた。
「やっぱりか……ミカエルの奴、本当に余計なことを……ッ!」
エリを優しく抱き留めながらサタンがぶつぶつと恨み言を吐く。
だがその顔が少し緩んでいる事実をアドラは見逃さない。
「おいアドラ! 何笑ってやがる! あんまり見てるとブッ殺すぞッ!」
サタンに怒鳴られアドラは一目散に退散した。
これ以上は自分もお邪魔虫だ。さっさと意識を肉体に戻そう。
――美しい玉虫色でしたよ、ミカエルさん。
エリの告白後、精神感応でアドラにこの結末を提案してきたのは実はミカエルだった。 《八叉冥矛》 の形態変化の法を授けてくれたのも彼だ。神器を利用した元霊の拘束作戦――最初はとんだ無茶ぶりだと呆れていたが、結果は見ての通り。
サタンのいうとおり、何もかもすべて彼の掌の上で転がされていた気もするが、こんな結末なら大歓迎だ。どれだけ利用されても一向に構わない。
人類の立場からすれば人類悪の助命は赦されざる悪事であろう。
弟の立場としては兄の幸福は心から祝福するべき吉事だ。
今のアドラの内にはその両方の想いが混在している。
――でも、それでいいんだ。
玉虫色でいい。完全なる正義の執行などありえない。どのみち女神の後継者となった今の自分は、どちらか一方に寄ることなどできはしないのだから。
だから今は心からの笑顔で、彼らの新たな旅路に祝辞を述べることができる。
「お二人ともどうかお幸せに」
その日、人類悪は滅んだ。
後に残ったのは、神に運命を弄ばれた哀れな魂の残滓のみ。
その魂とて不滅ではない。いずれは世界の中に溶けて消えてなくなるだろう。しょせんは泡沫の夢なのかもしれない。
だがそれでも、その瞬間を、せめて安らぎの中で迎えて欲しい。人の愛を知ってから、幸福を胸に消えて欲しい。
それが弟としての最後の願い――邪竜に送る死神の鎮魂歌。




