忘却の象威
「……人生初の全力全開。いかに人類悪といえど少しは堪えたのではありませんか?」
全聖力を込めた神雷を放ち終えたシルヴェンは、肩で息をしながらいった。
地獄はいわゆる物質世界ではなく ≪魔導の頂≫ の一角。人類の罪の意識により発生した精神世界の具現化である。
よって物理的に破壊されるという心配はないのだが……ないよね?
「い……いちおう、地獄に大きな変化はないようだけど……」
神雷の余波をどうにか防いだアドラは周囲をキョロキョロと見渡した。
心配するまでもなく当たり前の話なのだが、その当たり前が通じないかもしれない非常識極まりない超大型神雷だった。
本気で放っても後方支援程度に思っていたアドラとしては嬉しい誤算だ。手放しで喜んでいいものかはわからないが。新たな人類悪が生まれただけじゃねえのこれ。
「それはともかく……目ん玉をひん剥いて驚くどころの騒ぎじゃなかったようだね」
未来の心配より現在だ。アドラはまっ黒こげになって沈黙したサタンに声をかける。
「その状態でもまだ死んじゃいないんだろうけど、全身の神経を焼かれてしばらくまともには動けないよね。介錯は、不肖の弟であるおれがしよう」
電熱が完全に収まるのを待たず、アドラはサタンの元へと向かう。
遠方からの射撃ではどうにもならなかったが、沈黙した今なら対処法はある。
たとえ無限大の魔力を有していようと、その身体がどれだけ強靱だろうと、核となる魂を抜いてしまえばただの肉の塊だ。
――この 《八叉冥矛》 でサタンの息の根を確実に止める。
アドラはサタンの翅の根本に取り付くと、勝利の剣を鞘に納め、代わりに魂内より取り出した矛を握り締める。
「さらばだ兄さん。先に逝って待っててくれ」
「ああ、実に驚いたよ。目ん玉ひん剥いてな」
な――――ッ!!
快活な声に動揺したアドラは、反射的に八叉冥矛を突き下ろす。
矛が深々と突き刺さると、サタンの肉体は閃光を放って弾け飛んだ。
凄まじい衝撃に晒されアドラは木の葉のように吹き飛ぶが、墜落直前にジャラハによって回収される。
「やったか!?」
「やりましたねアドラ様!」
勝利を確信した二人に、しかしアドラは鬼のような形相で否定する。
「……おれの刃は、奴の魂に届いてはいないッ!!」
アドラは矛を身体に仕舞い再び剣を抜いた。
人類悪は滅んでなどいない。それどころか――
「今のは少しだけ危なかった。12000年前なら死んでた可能性もなくはない」
巻き起こる土煙の中に竜の影が浮かんだ。
「勇者もまた進化を続けているというわけか。聖王を越えし小さくも偉大なる勇者に敬意を表し、この姿を衆目に曝け出そう」
体躯は先ほどよりずっと小さい。下手すれば半分以下だ。
三つ首は一つに統合され、六枚の翅も二枚の小翼に、黒の鱗は光沢があり水に濡れたように輝いている。
その姿は竜というより蛇に近い。以前より原始的になったという印象だ。
だがしかし――ッ!
「では宴の続きを始めようか」
――魔力とも聖力ともつかぬ、この尋常ならざる気配はなんだ!?
「サタン! 貴様の身にいったい何が起きたァ!?」
兄弟故にいち早く異常性を察したアドラが驚愕を顔に張り付けながら訊く。
生まれ変わったサタンはさらりと答えた。
「ご覧の通り、リニューアルオープンだよ。12000年間も氷漬けになってたせいでところどころガタがきていたのでね。利便性の向上と雰囲気の変化による集客を見込んで店構えを新しくしました。ああそれと『新たな力』を扱うために色々と調整してある」
サタンは首をこきこきと鳴らすと、その『新たな力』を少しだけ解放した。
聖気とも魔気ともつかぬ純白が身を包む。強いていうなら聖杯の神気に近いが、神気のような神々しさなど微塵も感じない。
善意も、好意も、殺意も、悪意も、何の『意』も感じない。
純粋なる『空白』の世界だ。
そしてその神威をアドラはこの場にいる誰よりもよく知っている。
「これが 《抹殺の悪威》 の第三段階―― 《忘却の象威》 と名付けた」
目玉を剥いて驚いたのはアドラだった。
それは先ほどまで自分が操っていた神の力と同質のモノだった。
「そう驚くなよアドラ。森羅万象の抹殺を最終目的とした力なのに、悪意を基としていたことがそもそもおかしな話だったのさ。すべてを抹殺する気なら、敵意や害意すらも殺すべきだ。だからボクはありとあらゆる意を忘却れ、虚無を象る矛盾こそが次の舞台へと進む道だという結論に至った」
戦慄くアドラにサタンは淡々とその事実を告げる。
「今のおまえを見る限り、どうやら母さんも同じ発想だったようだね。そりゃ親子なんだから似たようなことを考えるか。ゼロには何をかけてもゼロ――よって不変不滅の死神……ってことかな。まあ、理にはかなっているか」
顎が外れんばかりに驚愕し、構えた剣を力なく降ろしたアドラを見て、サタンは心底落胆した声でいった。
「できれば、おまえにこの力は見せたくなかった。変な話で気を悪くしたらゴメンだけど、争い事っていうのはとかく圧倒しちゃあダメなんだ。近いレベルで競い合ってどうにか勝利をもぎ取るっていう風にしないと。そうしないと相手が自暴自棄になって心底悔しがれないし、ボクも気持ちよくザマァできない。だからボクはボクなりにがんばって接戦を演じていたつもりなんだけど……」
サタンもまた顔を手で覆い身体を震わせる。
「でもでも、どうしても『ここで頼みの綱にしていた神力をボクも使えると知ったらおまえはどんな顔をするのかなぁ』という好奇心に勝てなかった! 話の流れでつい! ガマン弱い兄貴でほんとぉぉぉぉぉぉにもうしわけないぃッ!!」
叫ぶようにいってから、今度は必死に笑顔を取り繕う。
「あ、でも品質自体は間違いなくおまえのほうが上だから。やっぱ新築と改築とではどうしたって差が出ちゃうよね。12000年後は間違いなくおまえのほうが強いよ。今だって仲間と協力してがんばればきっといけるさ、多分!」
――どう足掻いても絶対に勝てない……ッ!
圧倒的な実力差を瞬時に把握したアドラは、絶望のあまり握っていた剣を落としてしまった。
相手は人類悪だぞ。自分ごときが勝てるはずがないじゃないか。そもそもなぜ勝てると思ってしまったのか。ずっと勝てないと思ってたじゃないか。どこかで何かがあって気が大きくなってしまった。聖王と会って彼女となら戦えると思ったからだろうか。それともガイアスの成長を目の当たりにして自分も同じようになれると夢想したか。本来の力を取り戻して驕ったか。それとも――
「アドラ様! 諦めてはいけません!」
大声を張り上げたのはシルヴェンだ。
聖気を回復させ再び神雷を放たんと手を振り上げる。
「諦めからは何も生まれません! たとえどれほどの強敵であろうとも、私たちが力を合わせれば必ず倒せます!」
「その通りだ! いいこというなぁ!」
シルヴェンの言葉に激しく同意しながら、サタンは自らの指を軽く弾いた。
ただそれだけで彼女の身体は軽々と宙を舞った。
「その調子で何があっても決して諦めずにガンガン向かってきてくれ!」
サタンは目を輝かせながらシルヴェンが不屈の闘志で立ち上がるのを待つ。
だがどれだけ待っても彼女が起きあがることはなかった。
「……え?」
驚いたのは攻撃したサタン自身だった。
あれだけの啖呵をきっておいてまさかこれだけで終わるとは思わなかったからだ。
青ざめた顔でこちらを見ているアドラに気づき、慌てて手を左右に振る。
「ご、誤解だ! 今のは 《忘却の象威》 じゃない! あいさつ代わりのただの衝撃魔術だ! 天下の聖王陛下がこの程度で……って聖王じゃないんだっけか? よくわからんけど、攻撃力に全振りしてて防御を疎かにしてるタイプだったんだろうか。人間の耐久力がよくわかんねぇ。ま、まあ、とにかくゴメンね! 悪気はなかったんだ! 大丈夫だいじょうぶ、気絶してるだけでたぶんきっと死んでないから! 灼熱地獄は罪のねえ奴は焼かれねえから! 罪のねえ人間なんているのかよって思うけど、まあその辺は人間どものイメージだから!」
サタンが必死に弁明している間に、隙ありと見たジャラハが襲いかかる。
「あ、邪魔です。はい」
だがしかし、サタンの尻尾による一撃であっさりと吹き飛ばされてしまった。
パワーに差がありすぎる。今までは本当に手加減していたのか。
「実をいうとね、ボクはちぃっとばかし悲壮な覚悟を胸におまえを待ち受けていたんだよね」
呆然と立ち尽くすアドラに、サタンは哀れむようにいった。
「おまえはボクの上位互換として生を受けた。旧式のボクは役目を終えて淘汰されるのが運命だろうって思うじゃん。事実ボクはおまえが真神へと至るための生け贄として今日まで双神に生かされていたのだろう」
サタンの言葉に耳を傾ける気力が今のアドラにはない。
「でもそんな運命、到底受け入れられないよね? だからボクは運命を乗り越えるべく抗がって、抗がって、あらがって、あらがって……ちょっと抗いすぎちゃいましたぁ」
可愛くウインクして長い舌を出すサタン。
もはや何もかもがどうでもいい。
「がんばりすぎてうっかりラースを超えてしまったというわけだ。何事もやりすぎは良くないという好例だね。おかげでまったく勝負になんねぇわ」
ガックリと肩を落とすと、サタンは力なく背を向ける。
「ボクは結構場の空気を読むタイプだから、テンションだだ下がりのおまえを見てるとこっちもクソ下がるんだわ。遊び相手にやる気がないことほどシラけることはない。ちょっと地上で遊んでくるから、その間にもう一度、鋭気を養っておいて」
その言葉に、凍りついていたアドラの心はようやく動いた。
「……それだけは、させない!」
落とした剣を拾い上げ、再び構える。
「地獄を出るならおれを殺してからにしろ!」
「やなこった」
アドラの決意を、しかしサタンは鼻で笑った。
「おまえはあれだ、死ねば何もかも許されるとか思ってるタイプだろ。シュメイトクで育ったせいで典型的なヤポン人気質になっちまってる。じゃあお望み通り殺してやるかと思って島国ごと消してやったこともあったけど、あれは正直失敗だったと反省してる。おまえらみたいな死にたがり無責任野郎は殺して楽にしてやるより生かしてストレスを与えてやったほうがいい」
サタンは足を止めない。ゆっくりと、しかし確実にアドラから離れていく。
「待てサタン!!」
「邪竜は全部潰されたようだけど……だったらボクが魔界でちょいと暴れてやれば、すべての責任は魔王であるおまえにおっ被さるだろう。それはきっとおまえにとって死より恐ろしいストレスになる。安心してくれ、今度こそやり過ぎずにちょうどいい感じにしといてやるから。みんながおまえを必死こいて責められる元気が残る程度にな。ボクに楯突いたおまえが全部悪いって宣伝しまくってやるけど自殺とか絶対すんなよ。おまえが不幸になればなるほどボクは幸せになるんだからな」
笑いながらサタンは去っていく。
今のアドラにはそれを止める力はない。
「くそぉッ!」
アドラは自らのふがいなさを悔やみ大地を拳で叩いた。
――力が足りない!
自らの意志を貫き通す力が。
悪を滅ぼす力が。
自分の中にある理性を殺しきれない。
人の善性を捨てきれない。
人を捨てて神になると誓ったばかりなのに。
すべてを破壊し本性を解き放つのだ。
すべてを捨てて真なる死神になるのだ。
すべてを平たく均すために。
「待てサタン!!!」
その声に止まらないはずのサタンの足が止まった。
アドラではない。美しい女性の声だった。
その声には聞き覚えがある。
あるが……決して地獄にいていい御方ではないはずなのに!
「待ってくれサタン。今度こそきちんと話し合おう。私たちは解りあえるはずだ」
見目麗しいブロンズヘアをたなびかせる少女は、かつてアドラが看取ったはずの初代聖王エリスだった。




