地獄へ④
燃え盛る焔の岳。
煮えたぎるマグマの河。
岩肌に触れれば肉が焼け焦げる。
炎と氷。温度の差はあれどその過酷さはコキュートスに勝るとも劣らない。
そこは地獄の第八階層――炎極の園マーレボルジェ。
アドラの父、トマル・メノスは長年この地である調査を続けていた。
「ここに来るといつも眠くなるなぁ」
護衛兵団には内密に独りでマーレボルジェにやってきたアドラは大あくびをひとつ。
肉焼き骨焦がす炎熱地獄もアドラにとっては春の麗らだ。
「生前悪意をもって罪を犯した者はここに堕とされ嚢に入れられるそうだけど」
アドラは何度も周辺を見渡すが岩とマグマと赤黒い空だけ。
「……やっぱり見えないか。これでも父さんの息子なのになぁ」
月日が経って少しは霊感が高まったかと期待したがまるでダメだった。
やはり父の仕事の手伝いはできそうにない。
アドラは遥か昔に諦めたはずの幻想を振り払いトマルを捜して歩き始める。
地獄ではいっさいの通信手段が無効化される。
だがアドラたちには決して切ることのできぬ親子の絆がある。
どれだけ離れていようとも瞳を閉じて強く想えば居場所を感じとることができる。
「――――……居た」
父の気配を感じ取ったアドラは地を駆けた。
常人ならば生涯かけてもたどり着けぬ場所。しかしアドラなら一刻もかからない。
魔界一のその健脚は瞬く間にアドラをトマルの許へと運んだ。
「やあアドラひさしぶりだね。こうして会うのはおまえが家出した時以来かな」
トマルはアドラを見ると優しく微笑んだ。
手入れのできていないぼさぼさ頭とビン底眼鏡。
申し訳程度に着ているワインレッドのローブはすでによれよれだ。
シュメイトク産の樫の杖で何か気になることでもあるのか足下を何度も叩いている。
一見どこにでもいるくたびれた中年男性。
しかし紅蓮に燃える双眸が彼の正体を如実に示す。
魔界六大王家の一つに数えられるメノス家の嫡子であると。
もっともトマルはとある事情により当主の座を継ぐことができなかったのだが。
「また地獄に来たということはまだ父上と仲直りできてないのかな?」
「無理無理。じいさんホント頭固いんだもの。おれは絶対家督なんて継がないから」
真に家督を継ぐべきはトマルだとアドラは今でも思っている。代わりに継ぐなどとんでもない。
では何用かと尋ねるトマルにアドラは地獄に来た事情をかいつまんで説明した。
「魔王軍四天王か。家を継ぐのとたいして変わらないな」
「今だけだから! おれ絶対すげえデザイナーになって故郷に錦を飾るから!」
アドラが慌ててそう付け足すとトマルは嬉しそうに微笑んだ。
「一度偉くなると色々としがらみが増えるけどそれにめげずにがんばれよ。努力は決しておまえを裏切ったりはしないからな」
何かにつけて笑われることの多いアドラの夢だがトマルは決して否定しない。
生来魔力が弱く、周囲はもちろん家族からも疎まれ蔑まれ、すべてを否定されて生きてきた男は他人の夢を決して馬鹿にしない。
トマルはアドラの数少ない理解者であり、この世でもっとも尊敬する父親だった。
「……父さんは、今の仕事に満足してるの?」
「もちろん。神様からもらった才能にいつも感謝してるよ」
トマルは笑った。
嘘偽りのない笑みだった。
魔力の代わりに類いまれなる霊力を備えていたトマルは霊媒師を生業にしている。
トマルの霊媒師としての能力は魔界でも屈指。
彼の年齢を考えれば天才と呼んで間違いはない。
だがそれでも周囲はその希有なる才能を決して認めはしなかった。
実父のヴェルバーゼすら。
誰にも見えないものが見える。これほど素晴らしい能力はない。
それを理解しない周囲のほうがアドラには理解できない。
ともあれ本人が現状に満足してるならこれ以上何もいうことはない。一旦仕事を切り上げてコキュートスに戻ろうと提案する。
しかしトマルは険しい顔でそれを却下した。
「母さんに信頼されて僕はここに派遣された。成果も出さずにおめおめと戻れない」
「父さんが調べてる問題って確か――」
「地獄温暖化問題だ」
毎年少しずつ地獄の気温が上がっている。
以前から話は聞いてはいたがまだ解決の糸口すら見つかっていないらしい。
「地殻、霊圧共に異常なし。亡者たちも口を揃えて原因がわからないという。だが毎年確実に気温は上がり続けている。今日なんて特に暑い、普段より5℃は熱いだろう。原因があるとすればここマーレボルジェ以外にありえないのだけれど……」
トマルの顔には珍しく焦燥が浮かんでいた。
灼熱地獄の熱さが数℃ほど上がる。
たいしたことのない問題に思えるかもしれないが魔界の住民にとっては極めて深刻。
なぜなら――
「今はまだ弱々しい。でも確かに感じるこの禍々しい黄泉からの波動……このままで決して遠くない未来にサタンが復活してしまう!」
地獄が万全だからこそ機能している極大氷獄結界。
たとえわずかでもそのバランスが崩れれば封印は瞬く間に破られるだろう。
サタンの魔力はそれほどまでに強大だった。
トマルの仕事は理解されずとも魔界の命運に関わること。誰に嘲笑われようとも決して立ち止まるわけにはいかない。
「ここで働いているのは父さんだけじゃないんでしょ? だったら少しぐらい……」
「だからこそリーダーの僕が抜けるわけにはいかない。魔界の平和は僕たちが守る」
相変わらず頑固だなとアドラは苦笑いを浮かべる。
だがそんな父だからこそアドラは心から尊敬していた。
トマルは弱々しい外見とは裏腹に強い信念と熱いハートを持つ真の英雄だった。
「異変が本格的に始まったのは約2500年前。その日に何かが起きたのは間違いないんだ。そして理屈じゃなく直感で理解る。その『何か』に僕は今、これ以上ないほど近づいていると。ああ――こうしている今も感じる、まるで何かに怯えているかのような地獄の鳴動を! だからこそ僕はまだここを離れるわけにはいかない!」
父の仕事は難しくてアドラにはよくわからない。
だが立派な仕事をしていることは間違いない。
できることなら力になってあげたい。
アドラはあまり良くない頭で原因を考えてみるが、どれだけ頭をひねってもたいした閃きは得られなかった。
「2500年前っていうとちょうどおれが生まれた頃ぐらいだよね。もしかしてそれと何か関係あったりして」
苦し紛れの戯れ言だった。
当然トマスは呆れて肩をすくめる。
「父さんは真面目に話しているんだぞ。おまえの誕生日なんて関係な……」
いいかけてトマスは閉口した。
先ほどまで調査のことで頭が一杯で息子のことをそれほど注目していなかった。
それを今、ハッキリと正視してしまったのだ。
「やっぱ違うか。そりゃそうだよね……ってどうかしたの父さん?」
今日のアドラは帰郷ということで結界を外していた。
だから天才霊媒師であるトマルには視えてしまったのだ。
アドラの奥底に眠る無限の悪意――そのほんの一端が。
「……やはりコキュートスに戻るよ。母さんに相談したいこともあるしね」
「やっとその気になってくれたんだ。帰ろう帰ろう」
全身汗だくになりながらトマルはにわかには信じ難い仮説にたどり着く。
「地獄全土が、サタンをも越える恐怖に震えているのか? 今の僕のみたいに……」
「父さん今何かいった?」
「ただの独り言だ。気にしないでくれ」
トマルは部下に後を任せてアドラと共にコキュートスへと戻った。
帰り次第トマルはイザベルと相談してアドラの結界をもう一度張り直した。
今までよりもずっと強固なものに。
「杞憂だと思うけどね」
トマルは笑いながらそういったが、次の日から地獄の気温上昇はピタリと止まった。
彼の直感は正しかったのだ。
トマルはそのことを妻以外の誰にも教えなかった。
息子には何にも縛られず自由に生きてもらいたかったから。
シャーマンである前に、英雄である前に、一児の父親だったから。




