ヴェルゼブブ到着
ヴェルバルト帝国の首都ヴェルゼブブは、ヴェルバルト荒原を抜けてしばらく北上した場所にあった。
シュメイトクとは決して遠くはないのだが、さりとて近いというわけでもない微妙な位置関係にあるため、ここまでやってくるのにさすがのアドラも三〇分はかかった。
本気で突っ走れば一五分を切れたかもしれないが、さすがに目立つし疲れるしちょっと恥ずかしいのでやめておいた。本当はちゃんと乗り物に乗って行きたかったのだが生憎馬を調達して世話をする手間暇が惜しかったのだ。当然だが車を買う金などない。
とはいえ、いい歳こいた大人が必死こいて走る様はやっぱりクソダサい。
汗臭い服を着て街中を歩いたり知人に会うとか常識を疑うし、こういうのは今回だけにしておこう。
「相変わらず辛気くさいなぁ」
ヴェルゼブブの城下街に入るとアドラは思わずため息をついてしまった。
行き交う人々の目に生気はなく行商人たちも活気がない。
それもそのはず、現在ヴェルバルト帝国民には重税が課せられており、納税のために重労働が強いられ皆、疲れきっているのだ。商人たちもあまり目立つと告発されて稼ぎを国に没収されてしまう。よって大手を振って商売もできない。
表向きは魔王軍の軍門に降っていても、現在この国は戦時中なのだ。
「馬鹿馬鹿しい。いつまで中世の政治を続けてるんだか」
こんな馬鹿げた支配はいつまでも長続きはしない。
いずれは立ち上がった民衆の手により滅ぼされることだろう。
反乱軍をレジスタンスが叩き潰したシュメイトクのように。
だがそうなれば、両者に多くの血が流れるの必定だ。
王族はともかく民草に犠牲が出るのは耐えられない。
ならばやはり、最後の王族である自分がこの手で引導を渡すより他ないだろう。
きっかけを与えてくれた弟には感謝せねばなるまい。
アドラが決意を新たにしていると、大通りが何やら騒がしいことになっていることに気づく。
黒山の人だかりをかきわけて前に進むと、どうやらトラブルが発生しているようだ。
「坊主……俺にぶつかってきたってことは、相応の覚悟はできてるんだろうな?」
巨漢の魔族がその太い腕で少年の襟元を締め上げている。
見た感じトロール種の血が濃そうだ。アドラの倍に近い身長がある。雑種の低級魔族だが腕力には自信があるタイプとみた。
「勉強が足りてねぇようなら教えてやる。この街で俺たちが歩いていたら、愚民どもは道を開けなきゃいけねぇんだよ」
そういってトロールは服に縫いつけられた蠅のアップリケを見せつける。
なるほどヴェルバルト騎士団の一員か。選民意識は相変わらずのようだ。
「以後決してこのようなことがなきよう、このガキは見せしめとする!」
トロールが少年の頭に手をかける。首をねじ切ろうとしているのだ。
さすがにこれ以上は看過できない。アドラはトロールの腕を掴んで制止する。
「まあまあ、たかが子供のやることじゃないですか。笑って許しましょうよ」
「なんだぁ、てめぇ! 邪魔するならてめぇもぶっ殺すぞッ!!」
アドラは掴んだ手に力を入れて腕を締め上げた。
骨が砕けかねないほどの圧迫にトロールは耐えきれず、少年の頭から手を離す。
「騎士さん、ここらで引くのが得策ですよ」
アドラは誰かに聞こえないようトロールの耳元でひそひそと囁く。
「それ以上やるというならおれもあなたと戦わざるをえない。それで万が一にも負けようものならあなた、騎士団に居場所がなくなりますよ? 勝ったところで賞金が出るわけでもないんですから、損しかない戦闘行為です」
トロールはアドラの提案に大きく舌打ちするが、それでも少年の襟元から手を離す。
「次はねえからなっ! 覚えとけっ!!」
アドラが一礼するとトロールは鼻を鳴らして去っていった。
思っていたよりも理性的で助かった。ひとまず危機は去ったようだ。
「大丈夫かい少年」
アドラは倒れた少年の手を取って立ち上がらせる。
「この街は物騒だ。子供が独りで歩いていたら危ないよ。ご両親はどうしたんだい?」
「死んだ。親父は過労死。お袋は税が納められなくて処刑された」
こちらに顔を向けた少年の目は憎しみの色に染まっていた。
「ヴェルバルト軍なんてみんなクソったれだ。教えてくれよ兄さん、なんでおれがあんな連中のために道を開けてやらなきゃいけない?」
少年の激しい怒りに、しかしアドラは静かに首を振る。
「だとしたら、なおさらこんなところで意味のない意地を張るな。虎は伏して機を待つものだよ」
そう告げてアドラは少年に早く家に帰るよう促した。
少年は納得していない様子だったが周囲のギャラリーは湧きに湧いた。
「兄さんスゲーな! あの胸くそ悪ぃ騎士を一発で黙らせちまったよ!」
「スカッとしたぜ! あんたはおれたちの英雄だ!」
アドラは盛り上がる民衆に愛想笑いを浮かべながら応じた。
なんだか魔界に戻って来てからこういうのが多い。それだけこの地が荒んでいるということなのだが。
――やはり魔界は、ルーファス様のような英雄を求めているのか。
この状況はサタンランドの首都キョウエンでの熱狂を思いだす。
ルーファスはあのような性格だったが圧政を敷くことは決してなく、商売も自由にさせていた。それがどれだけ素晴らしいことだったかは、ヴェルゼブブの惨状を見れば明らかだろう。
――おれも、あの御方のようにならなければいけない。
どれほど問題があろうとも、やはりルーファスは規範にすべき偉大なる魔王なのだ。
ヴェルゼブブに来てそのことを再認識し、アドラもまた果たすべき責任を果たす時が来たのだと痛感した。
少年と別れたアドラは再び城へと向かって歩き出す。
障害物のせいで予定よりほんの少しだけ遅くなってしまった。ほんの少しだけ早足で歩こう。
だが不幸というものは連鎖するもので、先を急ぐアドラの前に、再び面倒な障害が立ち塞がる。
「さっきはよくもやってくれたな」
障害物は先ほど逃げたと思ったトロールだった。
今度は独りではなく仲間を引き連れている。ざっと見たところ十人以上はいる。
「これで万が一にも負けようがねえだろ。さあ俺たちと闘ろうぜ」
なるほど賢い。人間の血が混ざっているだけのことはある。
ひとつだけ残念な点を挙げるとしたらいささか数が足りていないことだろう。
イビルの私兵数千人でまるで足りなかったのだから、アドラを止めるには最低でも万の人員が必要になる。それで万が一つの勝機が得られる。
「こんなところで闘りあったら街に被害が出ますよ。穏便に話し合いましょう」
「もう遅ぇっ! てめえは俺を怒らせたッ!」
「おれはあなたがたのためを思っていってるんですよ。悪いことはいわない、絶対にやめたほうがいい」
「うるせェ!!」
猛然と襲いかってきたトロールをアドラはマタドールのようにひらりとかわす。
こいつとはこれ以上、会話はできそうにないな。
「君たちさ……それだけ頭数が揃ってておれが誰だかわからないわけ?」
なので、アドラは二人の諍いを見物しにきた騎士団員のほうに話を振った。
騎士団の荒くれたちは最初はこちらを小馬鹿にしたような態度をとっていたが、一人の魔族が叫ぶと状況が一変する。
「アドラ様ッ! どうしてここにッ!!?」
上流階級だと思しき身なりのいい中年騎士だった。
城仕えならアドラの顔も何度か拝見しているだろう。もしかしたら反乱軍に参加していたかもしれない。
「その様子だとおれの事情を全部知ってるみたいだから子細は省くけど、じいさん……じゃなくて炎滅帝にちょっと用事があってね」
騎士団がにわかにざわめきだった。
顔は知らなくともアドラの名と今の肩書きを知らない騎士がいるはずがない。
当然その立場の複雑さも。
「わかる、わかるよ。おれは炎滅帝の孫で現魔王軍四天王だ。ついでにいえば閻魔の子息でもある。どう対応したらいいかわかんないよね。おれだって君たちの立場だったらどう接していいかわからないよ。非常に高度な政治的判断が必要な話だしね。でも、だからといって上の判断を仰ぐのは怖いだろう。適当な命令を下してから、責任だけをおっ被せてくるかもしれないし。いや、あいつらのことだから間違いなくおっ被せてくるか。今の君たちってわりと人生の崖っぷちに立っていると思うんだ」
反論の余地を与えぬようまくしたてるようにいうと、アドラは一番話がわかりそうな上流階級の騎士の肩をポンと叩いていう。
「そこで提案なんだけど……お互い『見なかった』ことにしないか?」
君たちは何も見ていない。
おれも何も見ていない。
何のトラブルも起きていない。
今日も一日いい天気だ。
魔界の天候なんていつもクソったれだけどな。
「おれとしてはそれが一番いいと思うんだよ。非常に不安定な今の魔界情勢、何が起きてもおかしくないしね。たとえば――」
アドラは笑いながら、決していってはいけないその言葉をさらりと口にした。
「――おれが次代の炎滅帝になる、なんてこともあり得るかもしれないよ」
騎士たちはその言葉に心底震え上がった。
ヴェルバルト地方における禁忌中の禁忌に、アドラが驚くほどあっさり触れたからだ。
もはや末端の騎士が介入していい問題を遙かに越えている。
「賢明な判断に感謝する」
騎士たちが無言で開けた道をアドラはありがたく通らせてもらうことにした。
背後をちらりと見ると先ほど因縁をつけてきたトロールが他の騎士たちに袋叩きにされていたが、とりあえず見て見ぬふりをした。そういう約束だし。
――……無駄な時間を消費した。
とにかく今は一分一秒が惜しい。
だが、さすがにこれ以上邪魔されることはあるまい。
気を取り直すとアドラは再び城を目指した。




