地獄へ②
――デュデッカ――
コキュートスの中心部。世界の中枢。
地獄でもっとも冷厳で神聖な場所にその竜は静かに眠っていた。
六枚の翅を広げた三つ首の黒竜。
その巨躯は凍りつき氷の彫刻と化し永遠の罰を受け続ける。
魔王竜サタン。
かつて八翼のドラゴンを従え魔界全土を蹂躙した伝説の邪竜。その成れの果て。
ピクニック気分だったアドラもこれを見るとさすがに身が引き締まる。
魔界の民すべてを巻き込んだ第一次魔界大戦。
多大な犠牲の上に八翼のドラゴンは討伐したものの、サタンだけはどうしても殺せずこの地の獄デュデッカに封印された。
レイワール家は代々閻魔としてこの黒竜を監視する宿命を背負っている。
アドラはその直系で次期閻魔候補と呼ばれてもおかしくない立場なのだが、適正なしということで幼少の頃に地獄を離れたため、あまりその自覚がない。
だが氷漬けのサタンはアドラにとって罪の象徴であり、今もなお彼の心に底知れぬ恐怖として刻みついていた。
人を殺し罪を犯せば地獄に堕ちて罰せられる。
アドラが殺しを忌み嫌い、常に善人であろうと心がけているのは、幼少期の教育によるところが大きい。
「おれたちはこんな風にならないよう常に善行を心がけていこう」
引き締まった顔でアドラは後ろを振り向き護衛兵団に声をかける。
そこに護衛兵団の姿は影も形もなかったわけだが。
「……みんなどこに?」
「何を今更。坊ちゃんが置いていったんではないですか」
カロンの言葉にアドラは唖然とした。
いちおう自分は上官なのだからみんな後についてきてくれると信じていたのだ。
「わかっちゃいたけど上官に対するリスペクトがないなぁ」
「リスペクトというか、坊ちゃんのペースについていけなかっただけですよ」
「おれ、そんなに歩くの早かったっけ?」
「坊ちゃんにはわからないかもしれませんが、コキュートスは生者にはいささか厳しい環境なんですわ。通勤444年目のわしでもこの距離とペースはちょっときついもの」
「カロンさんはもう歳じゃん」
「何をおっしゃる。まだまだ若いモンには負けとりません」
よくわからないが遅れているそうなのでアドラはその場で少し待つことにした。
※
コキュートスの環境は生きとし生ける者の活動をすべて停止させる。
しかしさすがはルーファスの選抜した精鋭たち。唯一人欠けることなくこの難関を突破してきた。
とはいえ、さすがに全員無事というわけにはいかない。
多くの兵が凍傷を負い、肩を貸し合いながらながら、どうにかここまで――といった感じだった。
「もう、何やってんのさみんな。道草もいいけどあんまりのんびりしてると約束の時間に遅れちゃうよ」
そんな兵士たちをアドラは頭ごなしに怒った。
アドラからすれば御歳10000を越えるご高齢のカロンですらついていけるのんびりペースで移動しているのだ。遊んでいたと思われても仕方がない。
閻魔の息子であるアドラの感覚は常人とはかなりかけ離れていた。
「申し訳ございません。今回は兵の装備が不十分でした。以後気をつけますので何卒ご容赦ください」
満身創痍の兵を代表して比較的ダメージの少ないシゲンが謝罪する。
シゲンレベルの実力者になるとこの程度の環境には屈しない。
だがそれでもまったくの無事というわけにはいかなかったし兵の統率にも苦労した。遊んでいたと思われるのは甚だ不本意だ。
「まあいいや。時間も押してるし早く行こう」
スキップしながら閻魔殿に進むアドラの後ろ姿を見ながらシゲンは思う。
この怪物に護衛なんて必要あるのかと。




