コインの表と裏
深い霧を抜けると、今度は懐かしい瘴気が足下に纏わりついた。
確信と共に坂を降りると、見知った風景が眼前に広がる。
「……こんなところに繋がっていたのか」
アドラがたどり着いた場所は第二の故郷シュメイトクへと続くヴェルバルト荒原だった。
後ろを振り返れば見慣れた山岳がそびえ立つ。
理屈はよくわからないが、どうやら問題なく魔界に到着できたようだ。
「そうか、シュメイトクはこうやって建国されたのか」
マド地方にはヤポンからの亡命者も多かったと聞く。ヤポンからヴァーチェへ、ヴァーチェからサタンランドへと逃げ延び、そこで魔を受け入れシュメイトクを建国し、ヴェルバルト帝国の一部になったということか。
納得するのと同時に、ヤポン人に訪れた突然の悲劇の数々に心を痛める。
――人類悪サタン、やはり見過ごすわけにはいかない。
だが憤ったところでどうしようもない。
敵はもはや神も同然の超越存在。
独りでは手も足も出ないことは先日思い知ったばかりだ。
今も昔もアドラは変わらず無力だった。
「力が足りない……」
砂嵐吹き荒ぶ荒野を前に、アドラは独りごちるようにいった。
サタンを討ち果たす力が。
リドルを安らかに眠らせることのできる力が。
自らの無力を痛感することはこれまでも多々あったが、これほどまでに強く力を欲するようになったのは生まれて初めてのことだった。
アドラは現状でも世界最強の悪魔を名乗るに相応しい魔力を兼ね備えている。
だが、しょせんはその程度なのだ。
エリとジャラハを筆頭に同レベルかそれに近い相手は世界を見渡せば幾らでもいて、彼らと戦えば負ける場合もある。
無論、複数人の強者を同時に相手にはできないし搦め手にも弱い。
個としての頂点の一角にはいても個の限界を越えてはいない。
それでは武闘大会のチャンピオンにはなれても人類悪には決して勝てない。世界を変えることはできない。
もっともっと強大な力を持たなくてはならない。
個としてはもちろん、それ以外の権力も。
そのためには――
「おれはシュメイトクに行きます。ガイアスさんはどうしますか?」
「俺は一旦てめえの集落に戻るわ。一族の意志を統一しなきゃならんしな」
アドラは小さく頷き、ガイアスの前に手を差し出す。
「どうか御武運を。この戦争、二人で絶対に止めましょう」
「戦争を止める……ねぇ」
ガイアスは意味深な笑みを浮かべてからアドラの手を取る。
「おまえのツラは、そうはいってねえけどな」
「……」
「いいさ、こいつはおまえのヤマだ。おまえの好きにやりな。俺も俺の好きにやらせてもらう」
「……半年後、できれば魔王城で」
握手を済ませると、アドラはガイアスと別れた。
アドラは独りその場に取り残される形になる。
――こうして独りぼっちになったのはいつ以来かな。
メノス家を出奔したての時は独りの時間が圧倒的に多かった。
あの頃を懐かしいと思うようになっていたのでちょうどいい。
考え事をする時間も増える。
――戦争を一時止めたところで戦争は終わらない。
それはかつて戦争回避を選択したシュメイトクが、すぐさま魔王軍に牙を剥いたところからも明らかだ。
――ならばいっそのこと、徹底的に争うべきなのか。
実際にぶつかり合い、多くの血を流さねば、人は心から納得することなどできない。
何事もやってみなくてはわからないという奴だ。
――昔はそれを愚かと断じたが、今はそうとは思えない。
勝ち目が薄いからとサタンに、魔王軍に、従って生きることが正しい事なのか。
たとえその先に破滅があろうとも、自らの権利を主張し、強者に抗い続けることが生きるということではないのか。
安寧と引き替えに自由を奪われ、いずれ殺されるために生きるというのであれば、それは家畜と何ら変わりはしない。
シュメイトクの民からすれば、今の状況はまさにそれではないのか。
――ならばおれが、彼らのためにできることはただ一つ。
独り荒野を進むアドラの瞳に決意の焔が灯る。
その焔は悪であれどいずれ暗闇の中をあてなく彷徨う民の道標となるであろう。
力を振るうことを躊躇わない。
力を得ることを迷わない。
二度と悲劇が起きない世界へと変えるために。
この時からすでにアドラは正気を失っていたのかもしれない。
だが現時点で彼の行動の正しさを判断することは誰にもできない。
正義と悪はコインの表と裏。
どちらが出るかは盤面に落ちる瞬間まで誰にも――弾いた本人にさえわかりはしないのだ。




