脱走
気がつけばアドラは、博物館の外で仰向けになって寝ていた。
上体を起こして左右を見渡してから、夢でも見てるのかもしれないと、ためしに頬をつねってみる。
――痛……くはないけど、現実だ。
どうやらモモの結界術から無事生還できたらしい。
サタンと一緒に封印される覚悟でいたが――あの状況下でどうやって助かったのか正直よくわからない。
己の内に隠されていた不思議な力のひとつでも覚醒したのだろうか。
アドラが首を傾げていると、一匹の子犬がよちよちと足下にやってくる。
『ビックリしたか。もちろん脱出手段はちゃんと用意してあるぞ』
子犬はモモの使い魔だった。
聞けば予め脱出用のバックドアを用意してあったとのこと。
いちおうはアドラのことを考えてくれていたらしいが……。
「脱出の手だてがあるなら、なんでさっき教えてくれなかったんですか」
『サプラァァ――イズ!!』
――このクソ女め!
さっそく実兄と同じ感想を抱くがこれは決して同類とかそういう話ではないはず。
誰だって怒るだろこんなの。
『……というのは半分冗談で、下手に説明してバックドアをサタンに利用されたら困るからな。では用事も済んだことだし、予定の場所にて合流な』
「もう半分はあなたの愉悦目的だったんですよね」
アドラの皮肉を無視して、モモの使い魔は術符へと戻った。
彼女はああいう性格なのでイチイチ怒ってもしかたがない。いい加減慣れよう……って、これ思うのこれで何度目やねん。そう簡単に慣れるなら苦労はないわ!
「でもまあ、がんばらなきゃいけないのは事実か……」
アドラはうんざりしつつも、できるだけ周囲を刺激しないようゆっくりと立ち上がる。
博物館はすでに武装した警察隊に囲まれていたからだ。
「大丈夫かきみ! 酷い怪我をしているじゃないか!」
警官の一人がアドラに声をかける。
テロリストにやられた観光客だと思って心配してくれているのだ。
モモの百倍ぐらいはいい人だ。
「か、観光してたら武装した連中に突然襲われて……いったい何が……っ!」
なので、さっそくその勘違いに乗っかることにした。
ウソが下手なことは自覚しているので、できるだけ口数は減らしつつ、それでもできるだけ哀れな被害者を装うよう心がけながら。
こんな発想が出てくる時点でもう自分も「いい人」ではなく、どちらかといえばモモ側の魔族なのだと思うと悲しくなってくる。
「きみは博物館の聖遺物を狙ったテロリストに襲われたんだよ! 今、救急車を呼んでいる。もう少しの辛抱だ!」
「あ、ありがとうございますぅ……っ!」
アドラは泣きながらいった。
演技ではなくわりとマジ泣きだ。
最近は悪意ばかり向けられてたので人の優しさが身にしみる。
――さて、ここからどうしようか。
アドラはサタンから受けたダメージの回復に専念しながら脱出方法を考える。
周囲は事情を知らない一般の警官だらけ。強行突破はできれば避けたい。
ならばここはお言葉に甘えて呼んでもらった救急車に乗って病院まで運んでもらい、そこから機を見て脱走するのがベターではなかろうか。
善良なる警官の皆さんを騙すようで気が引けるが、こればかりはしょうがない。
アドラは重症患者の演技をしながら救急車の到着を待つことにした。
……が、どうも警官たちの様子がおかしい。
何やら集まって相談しながら、こちらをチラチラとうかがっている。
自分の勘違いだと思いたいが……。
「きみ、ちょっといいかな」
先ほど懸命に声をかけて励ましてくれた警官が、今度は怪訝な顔つきでいった。
「実は先ほど上層部から、テロリストの人相書きが送られてきたんだが」
警官が見せてくれた人相書きは、どこからどう見てもアドラの顔だった。
「もちろん他人の空似かもしれんが……治療後に改めて事情聴取させてもらうよ」
――やっ、やっ、やべえぞこれっ!!
アドラは脂汗をだらだら流しながら言い訳を考えるがまったく思いつかない。
このまま流れに身を任せていては前科者になってしまう。
どうする? 警官をぶっ倒して逃げるか?
しかしこの深手ではいつまでも逃げられるとは思えない!
指名手配された以上この街にはもう居場所がない!
包囲網でも敷かれようものなら遅かれ早かれだ!
半分詰んでないかこの状況!?
つうかさ、おれ今回のテロとそんな関係ないじゃん!
ウリエルが勝手にやったことに巻き込まれただけだし!
盗難は……まあしたけど、あれだって盗りたくて盗ったわけじゃないし、槍のほうから勝手にやってきたんだから無罪だよ無罪!
てか誰だよこんな人相書き用意したの!
サタンはさっき封印されたからミカエル以外ありえない。冤罪甚だしい。ぜってー許せねぇあのハゲ、今度会ったら髪の毛をぜんぶむしってやるっ!!
アドラが若干逆恨みめいた憎しみを抱いていると、
「アドラさん!!!」
聞き慣れた声がアドラを呼んだ。
小型のオイルカーがもの凄い勢いで突っ込んでくると、目の前でドリフト反転して助手席が開く。
「早く乗ってくださいッ!」
アドラは近くにいた警官を魔力で気絶させると言われるがままに座席に乗った。
「じゃ、軽くぶっ飛ばしますよぉ――っ!!」
運転手のリドルは、慣れた手つきでギアを入れると、アクセル全開にして車をかっ飛ばした。
「リ、リドル君! いったい何をやってるんだ!!」
「それはこっちの台詞ですよ! 舞踏会場から突然いなくなったと思ったら、なんでこんな場所で警官に囲まれて職質受けてるんですか! グロリアで警察に捕まるっていうのは人生を棒に振るのと一緒だって知ってるでしょ!?」
アドラは言葉に詰まりしどろもどろになる。
弁解せねばならない相手が次から次へと現れて頭の回路がショート寸前だ。
「舞踏会場もメチャクチャだし、あなたのいるところは騒動ばかりだ! 何があったのか絶対説明してもらいますからねっ!!」
――もういいや。
リドルに脅されるとアドラは観念して力なく頷いた。
心も身体も疲れ果て、もはやウソをつく気力も尽きていたのだ。
背景だけは巨悪だが、どうがんばっても悪党にはなりきれない男だった。
※
「容疑者が逃げたぞ! 絶対に確保しろ!」
逃亡するアドラを慌てて追おうとする警官隊。
しかしそれを制する者がいた。
「彼は放っておいて構いません。それより首魁であるヤポン人の確保に専念なさい」
警官隊を止めたのはミカエルだった。
小さくなる車影を見て薄笑みを浮かべている。
「し、しかし聖下。彼が凶悪犯罪者だとしたら市民に被害が――ッ!」
「私がいいといっているのだからいいのです。心配せずとも彼らは罪なき者に被害を出したりはしませんよ」
教皇にそういわれては一介の警官にすぎない彼は黙るしかない。
ヴァーチェ最高の権力者がなぜここににいるのか。
影武者か本人か。はたまたまっ赤な偽物か。
そもそも逃げた男は本当に凶悪犯なのか。とてもそんな風には見えなかったが……。
疑問は尽きないが決して言葉にはしない。
余計な詮索は死を意味する。
グロリアで長生きしたければ何も考えずに粛々と上に従うことだ。
「マド地方に逃げられないよう包囲網を敷いてくれればそれでいいです。後は決着がつくまで静かに見守りましょう」
「決着?」
「そうです。アドラがヴァーチェに来てから今日まで続く因縁のゲームのね。我らが横やりを入れるのは無粋というものです」
末端の警官にはミカエルが何をいってるのかさっぱりわからない。
ただ曖昧に頷くことしかできない。
「人類に破滅をもたらす最悪の死神と、何の取り柄もない最低の愚者! いったいどちらが勝つか楽しみだ! もちろん私は愚者に賭けますがねッ!!」
わけのわからぬことを口走りながらミカエルは、顎を大きくしゃくってけたたましく笑いだした。
そして次の瞬間、あげていた顎の下が不可視の刃によって両断されていた。
頭部のなくなった首から噴水のように吹き出す鮮血に、何も知らぬ哀れな警官は腰を抜かして悲鳴をあげることしかできなかった。
「……任務完了」
警官に扮していたその男は、ミカエルの首を切断した『カラドボルグの一閃』を解除すると、誰に知られることもなくその場を後にする。
「これで指揮系統は混乱し包囲網を敷く時間が遅れる」
制服を脱いでスーツに着替える。
目が覚めるような純白のスーツだ。鍛え上げられた肉体にフィットして実に美しく、ある種の神々しさすらある。顔に深々と刻まれた厳つい二本の傷痕さえなければ、この男が暗殺者だと思う者はまずいないだろう。
「おれに出来ることはここまで。後は君次第だアドラ。幸運を祈る」
男は勇者信仰国ヒエロが秘匿する禁忌にして唯一の暗殺者。
黒死の一三翼 “流離う者” ヨシュア・マーカス・ストレンジャーは、ひと仕事を終えるとまるで最初からいなかったかのようにグロリアから去っていった。
誰にも告げず、誰にも知られず、何食わぬ顔でヒエロに戻った彼は神衣に着替え、大衆から尊敬の眼差しと共にこう呼ばれることだろう。
ヒエロの神聖なる教皇ガブリエルと。
 




