不滅の大天使
ランプの光を浴びて暗闇の中から人影が浮かび上がる。
年の若い男性だ。年齢はまだ三十路には届いていないだろう。ガイアスほどではないがかなりガタイがよく服の上からでもわかるほどに鍛え上げられていた。
精悍な顔には大きく縦に割れる傷が二本ある。漂う気配や放たれる聖気の質からも、おそらくは歴戦の勇者であることがうかがえる。
男は十分に目を引く身体的特徴を持ってはいたが、アドラが驚いたのはそこではない。彼の着るその衣装だ。
暗闇の中ですら目も眩まんほどに眩しい純白の礼服。
施された見目麗しい刺繍は六枚の大翼広げる荘厳なる天使。
布地自体から穢れを知らぬ強い神気を漂わせている。
この服の形をした神器に袖を通せる者は世界にたったの四名しかいない。
「ガブリエェェェェェェェェルぅ!!! なぜ貴様が此処にいるぅッ!!!?」
驚き叫んだのはマルディだった。
顔からは今までの余裕がすべて消え失せていた。
ガブリエルと呼ばれた男はヒエロの極寒を体現するかのような冷たいまなざしでマルディを見下ろしながら口を開く。
「異なことをいう。教皇が自らの職場に居らずになんとするか」
「馬鹿な! 馬鹿な! 馬鹿な! 貴様はすでに――――ッ!」
「ああ、死んだよ。おまえたちの手にかかってな。だがね……」
ガブリエルは倒れたままでいたマルディの傍まで近寄ると、その頭部を容赦なく踏み潰した。
「大天使は決して滅びぬ。何度でも地上に舞い降りる」
マルディの操っていたアンデッドを沈黙させた後、ガブリエルはアドラのほうに視線を向けた。
その鷲のように鋭い眼差しと全身から漲るオーラに思わず気圧されてしまう。
「せ、聖下……で、よろしいのでしょうか?」
「そうだ。教皇の名の下に命ずる。聖杯には決して触れるな」
ちょっと前までガブリエルのことを自分の生命を狙った犯人ではないかと疑っていたにも関わらず、アドラはひたすら弱腰で対応した。
元田舎暮らしの仕立屋の悲しいサガだが、天下の教皇相手ならそう間違ってはいないはずだ。
「その聖杯は魔を滅する絶対の神器。アスカロン程度の聖具とは訳が違う。触れれば君は跡形もなく消滅するだろう」
「ええ!?」
ガブリエルの忠告にアドラは慌てて前に出した手を引っ込める。
――そうか、おれは聖杯に触れるようマルディに誘導されていたんだ!
アドラはマルディが仕掛けたトラップに今頃になって気付く。
もしもこの聖杯がマルディにとって都合の悪い代物なら、わざわざ祭壇の前で戦うはずがない。
聖杯は、万が一エリスが敗北した場合にアドラを確実に始末するための保険だったのだ。
「もっともこれは君に限った話ではない。この世に穢れのなき人間など存在しないのだから、聖杯に触れれば誰しもが無事では済まない。浄化されずに聖杯を扱える者はこの世にただ一人しかいない」
ガブリエルはアドラの横を通り過ぎ、聖杯の前に立つと、すべての魔を消滅させるという杯を躊躇なく掴んだ。
「神より聖杯の使用権を授かったこの私だけだ」
掴んだ聖杯を高々と掲げ、その内に湛えられし聖水を周辺に振りまいた。
アンデッドによって汚染された謁見の間の邪気が瞬く間に消滅していく。先ほどまでと同じ景色のはずなのに、まるで陽光を浴びているかのように眩しく感じる。
――これが、聖杯の威力か。
「そこだ」
ガブリエルの指さす先には黒いローブを着た老人がいた。
柱の陰でやせ衰えた小さな身体を大きく震わせている。
どうやらあれがマルディの本体のようだ。
魔力で姿を消していたようだが聖杯の前ではあまりに無力。
アドラはすぐさま駆け出し、怯えるマルディの首を掴んで捕獲する。
「わ、私が悪かった! だから、こ……殺さないでくれ……っ!」
「安心しろ、殺しはしない」
脅威なしと判断してからアドラは掴んだ首を放した。
喉を抑えて苦しむマルディをあらかじめ持ってきたロープで拘束する。
殺しはしない。
ただヒエロの司法機関に引き渡すだけだ。
その結果、死刑の判決がくだされようがそれはアドラの関与するところではない。
「ただこちらの要求には応じてもらうぞ。街で暴れるゾンビたちを今すぐ止めろ」
「……それは無理だ。この術式は自動的で一度放てば術者自身にも止められない」
マルディの言葉にアドラは嘆息した。
だがこれは予想の範囲内。これほど大規模なパンデミックを一人の人間の手でコントロールできるわけがない。もちろん主犯を抑えれば新たな脅威が増えることは防げるのだから、まったくの無駄というわけではないのだが……。
「まあいい。だったらおまえの知ってることを洗いざらい吐いてもらうぞ。おまえの雇い主は誰だ?」
「それも勘弁してくれよ。雇い主に殺されちまうよぉ」
「今ここで死にたいのか?」
アドラが剣を鼻先に突きつけると、マルディは顔面を蒼白にして震え上がった。
「教皇だよ教皇! 私たち 《黒死の一三翼》 は教皇御用達の殺し屋集団なんだから当たり前の話じゃないか!」
「馬鹿かおまえは。だからどの教皇なのか聞いているんだ」
「知らねえよ! 知るわけないだろ! 教皇は暗殺防止のために身内の枢機卿にすら正体を明かさねえってあんただって知ってるだろ!」
「だったらそこにおられる聖下は偽者だとでもいいたいのか」
「偽者じゃないからこんな有様になってるんじゃないか! ちょっと前に暗殺されたはずの教皇の後継者がこうも早くに生まれるなんてまったくもって想定の範囲外だ!」
嘆くマルディにアドラは大きく舌打ちしてから剣を下ろす。
教皇も暗殺者に自分の素性を明かすほど馬鹿ではない。しょせんは末端にすぎない彼から有益な情報を得るのは難しそうだ。
「本当に残念な奴だな。あれだけおれを煽っておいて、結局最初にしゃべっていた以上のことは知らないのか。もっとも、おまえようなおしゃべりが誰かに信用されるはずもないか……」
とはいえアドラの中では、今回の事件の黒幕はもはや一人しか考えられない。
ミーザル地方の代表者である教皇ミカエルだ。
つまりこれからアドラたちは敵の本拠地に自ら飛び込むことになる。
――モモさんのいうとおり、何事もなしとはいかないようだね。
だがそれは望むところでもある。
手酷くやられた上に無関係な人間まで巻き込んで、こちらはすでに怒り心頭だ。直接戦りあって決着をつけなければ気が済まない。
「もういいや。おまえは司法に引き渡す」
アドラは剣の柄で叩いてマルディを気絶させると、すぐさまガブリエルに向き直って膝を突く。
「もうしわけございません聖下! 自分たちの諍いに無関係なヒエロの民を巻き込んでしまいました! この罪、すべてが終わったら如何様にも!」
「それは違う。連中は以前よりヒエロを狙い続けていた。君たちがいようがいまいがどのみちこうなる運命は避けられなかったであろう」
ガブリエルは冷静な口調で応じると、聖杯を持ったまま祭壇を降りる。
「むしろ予定外の戦力が増えてこれ幸いと私は考える。さあ膝をついて畏まっている暇はないぞアドラ。そこのクズが吐きだした邪悪をヒエロからすべて消し去らねばな」
「はっ、仰せのままに!!」
アドラは勢いよく立ち上がると、ガブリエルと共に混乱渦巻く市街へと出撃した。
この惨状を長引かせるつもりは毛頭ない。
街に蔓延る邪悪なるゾンビ軍団に明日の朝日は拝ませはしない。




