ヒエロ=グレイス
三日がかりでヴァリアント高原を踏破したアドラたちは、勇者信仰で有名な独立都市ヒエロにたどり着いていた。
ミーザル地方へ進出するためには通常のパスポートだけではなくヒエロで発行される通行手形が別途必要となるため、ここに立ち寄るのは必須となる。
なぜこのような面倒な手続きがいるのか。
サタン襲撃時から連綿と続く東からの驚異への備えというのはもちろんある。
だが一番の理由はやはりグロリアとヒエロの確執だった。
「ここヒエロ=グレイスは初代聖王エリスの生誕の地。世界で一番最初に聖地などと呼ばれるようになった都だ。そのような過去から長らく遷都活動が盛んだった地でもある。いや、過去形ではないか」
「なんでそんなすごそうな場所がヴァーチェの首都になれなかったんですか? 民からの支持もすごかったんでしょう?」
ヒエロの飲食店でウォッカ片手にアドラはモモと雑談に興じていた。
通行手形の発行のためしばらくこの街に留まることとなり暇を持て余しているのだ。
「簡単にいえば聖王本人が嫌がったからだ。考えてもみろ。自分の住んでた実家が突然首都になってワサワサと人が集まってきたら激しくうざいだろう?」
「確かにうざいことこのうえないですね。めっちゃ納得しました」
「だがさすがに聖地認定だけは免れなかった。その後、逃げたサタンに対抗するという名目でヴァーチェを出て新たにソロネを建国したわけだが……妾は人間関係がうざったくなったから逃げたと見ておる」
「利権目当てで顔も知らない有象無象どもがわらわらと群がってくるんですよね。ホントまじうざったいですよねあいつら。聖王の気持ち、痛いほどわかりますよ」
人間関係が煩わしくて故郷を捨てた無責任放浪系皇家は、過去の偉大な英雄を懸命に仲間に引きずり込もうとしていた。
「聖王本人はそれで良かったかもしれんが、ずっと遷都を煽動していたヒエロは退くに退けん――というわけでな、それ以降ずっとグロリアとケンカしとるのよ。おかげでグロリアが発行しとるパスポートが通用せん」
「いうて元からグロリアが首都だったわけですし、さすがにそれは逆恨みかと……」
「それだけならただの逆恨みで民衆の支持を失ってハイおしまいなのだが、聖王の遺体絡みのいざこざが問題を複雑化させておる」
どれほど偉大な英雄でも死は平等に訪れる。
初代聖王の死後、遺言に従いその遺体は、ソロネから彼女の故郷であるヒエロへと返還された。
……はずが、移送中にグロリアの兵に襲われ、その遺体を奪われたのだという。
「それは酷い! 道理が通らないですよ!!」
アドラは怒ってテーブルを叩いた。
死者を在るべき場所へと帰さないなど智慧と慈愛の国が聞いて呆れる。
「妾も酷いとは思うがなぁ、これはヒエロ側の自業自得でもあるからなぁ」
「どういうことですかそれ」
「聖王の遺体なんぞをヒエロが入手したらそれを利用してまた声高に遷都を主張するに決まっておるからのう。しかも今度は死人に口なし、プロパガンダしたい放題よ。グロリアからすれば現体制を維持するために奪取せざるをえなかったわけだ」
「世界を救った大英雄の御遺体を政治利用ですか。本当にくだらない国ですね」
「ああ、くだらんことこの上ない。だからこの件についてあまりムキになるのはやめておけ。政治の世界には正義も悪もないのだからな」
アドラが義憤にかられていると、飲食店のおばちゃんが頼んだ料理を持ってきてくれた。
出された料理は注文よりいささか豪勢だった。おそらく客を間違えたのだろう。
そのことを指摘するとおばちゃんは笑いながら首を振る。
「さっきいい話を聞かせてもらったから、これはサービスだよ」
アドラは慌てて席を立ち、ものすごい勢いで頭を何度も下げながら謝った。
原住民が自国の悪口を聞いて心穏やかでいられるはずもない。怒りのあまりつい声を荒げてしまった自分を猛烈に呪う。
「いいんだよ。あんたらのいう通りさ。見栄を捨てられないヒエロが全部悪いんよ。だけんどうちらの醜い諍いと聖王様は何の関係もないからさ。どうにか故郷に戻してさしあげたいんだけどな。うちらの不徳でそれもようできん。もうしわけない気持ちで胸がいっぱいさね」
さっきは聖王のことで怒ってくれて嬉しかったといって、飲食店のおばちゃんはその豊かすぎる身体をゆっさゆっさと揺らしながら厨房へと戻っていった。
「……自国の過去を反省できる素晴らしい国民性。さすがは智慧と慈愛の国ですね」
「おぬしの手のひらの返しっぷりにはほとほと呆れ果てるわ」
調子のいいアドラにモモがツッコミを入れていると、手形の発行手続きを任せていたシルヴェンが戻ってきた。
ここは親勇者の地方ということで彼女ならスムーズに話が進むと思ったのだが……どうにも様子がおかしい。
不審に思ったモモが理由を尋ねると、シルヴェンは珍しく苦笑いを浮かべてから深々と頭を下げた。
「もうしわけございません。ヒエロの枢機卿に目をつけられてしまいました」
アドラは天を仰いだ。
どうやらこの地でも一悶着あるらしい。
首都へと続く路は果てしなく長い。




