愛妻
シュメイトクの一件が片づいてもアドラに安息の日々は訪れない。
今や魔界全土を支配せんとする魔王軍。大規模な戦闘行為こそなくなったものの支配地域でのトラブルは常に絶えない。
シュメイトクのように魔王軍に反抗的なところは珍しくも何ともないのだ。
そしてアドラはそのすべてに対応した。
他の四天王が「反抗的なら潰せばいい」としかいわないから。
忙しいわりには誰からも感謝されない。
それどころか畏怖と奇異と反抗の目で見られるばかり。
おまけに部下は皆ゾンビ。愛想は良くなったが職場が臭くてかなわない。
「人って死ぬと悟りが開けるんですよ。アドラ様も一度死んでみては?」
とは部下の言。
死んでもお断りだ。
「おれはいったい何のために働いているんだろう……」
ストレスフルの日々で頭がおかしくなりかけたアドラは仕方のないことを口走った。
何のために働いているのか。
今更自らに問うまでもない事だ。
故郷のため、お金のため、そして何より家族のためだ。
本日の業務をどうにか終えたアドラはくたびれた足取りで帰宅した。
アドラの住所はキョウエン郊外にある木造の一戸建てだった。
もちろん借家だが賃貸料は免除されている。
四天王であれば自らの領土を持つことも可能なのだがそれは固辞した。
領土を持つということは城外でも部下を持つということ。
プライベートぐらい愛妻と水入らずで過ごしたいよね。
若干不気味な薄笑いを浮かべながらアドラは自宅のドアをノックした。
「おかえりなさいあなた。今日もおつかれさまです」
帰ってきたアドラを妻がエプロン姿で出迎えてくれた。
妻の名はステンノ・ゴルドー。
腰まで伸びる美しいストレートロングが魅力的な妙齢の女性だ。
シュメイトクの女性特有の奥ゆかしい雰囲気が実にアドラ好みだった。
ちなみにこの借家も城から遠いにも関わらずヴェルバーゼ木材を使用しているという理由だけで決めた。
アドラは故郷シュメイトクが大好きだった。
だったらなんで家出したのかと訊かれたら「若気の至り」としか答えようがない。
重責を押しつける祖父が嫌いだった程度で国を飛び出したのは完全に早計だった。
一度シュメイトクに戻ったせいで最近は若干ホームシック気味である。
妻の顔を見ると今やすっかり遠くなってしまった故郷を思い出して癒されるのだ。
もちろんそれだけが理由で娶ったのではないのだが。
「ごはんにする? お風呂にする? それともあたし?」
少し悩んだ後、アドラは夕食を選択した。
本当はステンノをいただきたかったが今まで一度もその選択肢を選んだことはない。
忙しいから。
経済面に問題があるから。
この年齢で子供はまだ早いから。
あれこれ理由をつけてはいるが単に奥手なだけである。
ヘタレと書いたほうが正確かもしれない。
「それじゃすぐに支度するから。あなたはそこで座って待ってて」
ああ――自分にはもったいないぐらいの良妻だ。
台所に向かうステンノの背中を見てアドラは惚ける。
ボルドイで知り合い告白されて結婚し、ルーファスに強制連行されたせいで暫し離ればなれになってしまっていたが、ようやく許可を取って呼び寄せることができた。
今の職場は辛いけど彼女との生活を守るためと思えば耐えられる。
愛するステンノは人生に疲れきったアドラにとって唯一の癒しだった。
「お待たせ。腕によりをかけて作ったから残さず食べてね」
ステンノの持ってきた料理はおよそ料理とは呼べないナニカだった。
黄土色と橙色が混じったパンのような物体。
紫色のスープは異臭を放ちぐつぐつと煮え立っている。
濃緑の焼き魚はまだ生きているらしく濁った眼でこちらをにらんでいた。
「もちろんだよ。いただきます」
嫁の料理下手は萌え属性のひとつ。
寛容なアドラは躊躇なく狂気の皿に箸をつけた。
「くそ……なんで死なねぇんだ」
「今何かいった?」
「いえ何も。おほほほ」
ステンノはアドラに聞こえないよう小さく舌打ちする。
地獄から命がけで調達してきた冥異生命体。
竜すら絶命する強い毒素を持つがアドラを殺すには悪意がまるで足りない。
「反乱軍に襲われた時は大変だったけどこうしてまた一緒に暮らせて嬉しいよ」
「ちっ……あいつらホント使えねぇ」
「今何かいった?」
「いえ何も。おほほほ」
正体がバレないよう精一杯の愛想笑いを浮かべる。
反乱軍に村を襲うよう指示したり、魔王軍に情報をリークしたのは彼女の仕業だったが、なかなか思い通りの結果に繋がらない。
ステンノが歯ぎしりしている間にもアドラは三ヶ月もかけて準備した毒膳をぺろりと平らげてしまった。
「君は食べないの?」
「ご、ごめんなさい。あなたがあまりに遅かったから先に食べちゃったの」
「こちらこそ仕事が忙しくてごめん。これからも気にしないで食べちゃっていいよ」
「ちっ……なんで厚遇されてんだよ」
「今何かいった?」
「いえ何も。おほほほ」
かつて数多の為政者を破滅させてきた魔性の女。
しかし今回ばかりは相手が悪すぎる。
すでにアドラを狙う意味など失っているがここまで来たらもはやただの意地。
絶対にこの男を破滅させる。
今はただその一念のみだ。
魔界一の悪女ステンノの不可能への挑戦はまだ始まったばかり。