ミルクと酒
指定された時刻にアドラはサーニャと共に酒場にやってきた。
本当は独りで来たかったがそれは立場が許さない。
サーニャの他にもロドリゲスを中心に数名の部下が潜伏している。外にはシルヴェンたち聖騎士も待機していた。
――いくらなんでも大げさだ。
アドラ自身、自分を守れる程度の実力は備えているのだから不必要な警戒だ。
これほど大規模に動いてしまうとルージィに気取られてしまう。
――自分もエリを見習って隠密に行動するべきだったかな。
とはいえ今更いってもしかたのないこと。アドラは酒場のカウンターに座って相手を待つ。
待ち人はすぐにやってきた。
酒場に入ってきたルージィは礼服ではなく普段の作業着だった。彼が着るとよれよれの作業着でも幾分マシに見えるから不思議だ。
ルージィはアドラを見かけるとすぐに隣に座ってミルクをひとつ頼む。
「なぜ酒場でミルクなんですか」
「お酒を飲む前にまずはミルクを一杯。今ちょっとしたブームなんですよ。火付け人はもちろんあなたです」
アドラは苦笑した。
ならばしかたないと自分もミルクを頼む。
「先ほどは失礼しました。なにぶん急いでいたもので」
ルージィの最初の一声は謎の謝罪だった。
アドラは首を傾げる。
「礼服の話ですよ。改めて思えば脱がずに来たのは無礼でした。ヴァーチェ聖翼教会からの緊急召集の帰りで急いでいたのでつい……いや面目ない」
アドラの背筋に悪寒が走った。
間一髪とはまさにこのこと。もう少しアドラたちが戻るのが遅ければルガウはヴァーチェに攻め滅ぼされていたかもしれない。
だが逆にいえば間に合ったのだ。
これは奇跡的といっていい。
おかげである程度は強気に行ける。
内心の安堵をおくびにも出さずにアドラは話を切り出した。
「あなたと腹のさぐり合いをしても無駄なので単刀直入に聞きます。ヴァーチェはルガウに出兵する気なのですか?」
「ええ。そうみたいですね」
あいかわらずシンプルでストレートな物言い。そしてどこか他人事だ。
腹の内が本当に読めない。
「どうも教会はあなたのことを女神の子だと思ってるらしくて結構警戒していますよ。まあ私の権限で出兵は止めていますけどね」
「エリもいってましたけどその女神の子ってのはいったい何なんですかね」
「女神は女神ですよ。月星神ネメシス。ソロアスター教の伝説をご存じない?」
「知ってますけどぜんぜん違いますよ。おれには普通に母親がいます」
「王はレイワール皇家のご子息ですものね」
――やっぱりこちら側の情報は調べ尽くされてるか。
ルージィはエリたちほど杜撰ではない。素性は完璧に洗われていると考えていい。
「だからですよ。伝説の勇者様ご一行の子孫だからこそ、その可能性がある」
「いったい何の可能性なんですか」
「感染ですよ。サタンの因子―― 《抹殺の悪威》 のね」
かつてのアドラなら理解不能だった。
だが魔術を深く学んだ今の彼ならその可能性に辿り着くことができる。
「魔界では六英雄らしいですが地上だと英雄は四名。勇者エリ・エル・ホワイト。戦士ジークフリーデ・ド・フォン・ショーワルド。魔法使いシオン・リー。そしてあなたのご先祖である僧侶レイチェル・レイワール。これが俗にいう『勇者様ご一行』です。さすがにこのぐらいは知ってますよね?」
「ちょっと待て、なぜおれなんだ!? おれはレイワール家の落ちこぼれだぞ!!」
アドラは思わず叫んだ。
その仮説が真実ならばアドラは存在そのものが赦されない。
「サタンの因子が濃いからこそ落ちこぼれたという考え方もできます。もし感染するとしたらサタン封印の最大の貢献者でありもっともサタンの間近にいたレイチェルというのは至極妥当でしょうね」
「なぜ今更! もう一万年以上も昔の話だぞっ!」
「知りませんよそんなこと。教会がそう危惧しているというだけの話ですから。根拠は当たるも八卦の星占いですからあまり重く受け取らないでくださいね」
ラースに敗れバラバラになったネメシスの肉体から生まれたとされる魔王竜サタン。
そのサタンの因子がレイワール家に感染し、何かしらの偶然により、一万年の月日を経てアドラが発症した。
真偽も定かではない伝説を根拠にした馬鹿げた空想だと一笑に付したいところだが、今のアドラは何も知らぬ子供ではない。
理解している。自らの魔力の異常さを。そしてそれが陰陽結界の中で視たサタンの魔力と酷似していることも。
「落ち込む必要はないですよルガウ王。たとえあなたが本当に女神の子だとしてもその力を世界のために有効活用すればいいだけの話です。かの英雄ジークフリーデは邪竜ファフニールの生き血を浴びることでサタンの不滅の因子を手に入れて、その力を利用して戦ったというではないですか」
「ルージィさん、それあまり慰めになってないですよ……」
ジークフリーデ本人はともかくショーワルド家は代々暴君として知られている。
それが生来の気性ではなくサタンの悪の因子が原因だとしたらどうだろう。
自分や自分の子孫が将来ああなるかと思うと絶望しかない。
「では言い方を変えましょうか。落ち込んでいるヒマなんてありませんよ。もしあなたが 《抹殺の悪威》 に覚醒しているというのであれば、大元であるサタンもまた覚醒しているのですからね。彼奴との決戦はもう目と鼻の先だ」
アドラは目を見開きルージィのほうを見た。
ルージィの顔つきはすでにしがない配管工のそれではなかった。
「しかしサタンは結界で封じられ……」
「あんなチャチな代物でアレを止められるなら苦労はない。氷炎結界があなたの魔力をどれだけ止められているかを考えればわかる話」
「おれのそれとは規模がけた違いですよ。事実現在まで問題なく機能してるじゃないですか」
「機能などしていない。サタンは動けないわけじゃない。動かないだけだ。サタンに近しい血筋をひく私にはそれが直感る。もっとも理由まではわからないがな」
ルージィもまたアドラの眼を見据える。
その双眸は鷹のように鋭く、断固たる決意が見て取れた。
「サタンは魔に属するモノ。常識的に考えれば聖力に弱い。だが初代聖王は奴を滅しきることはかなわなかった。奴の身中に渦巻く“死”はそれほどまでに深く昏い。現世と黄泉を自由に行き来できるほどに」
サタンの魂が黄泉にいることはトマルの霊視によって確認されている。
その魂は煉獄の焔に焼かれてなお、現世の記憶を保持したまま邪悪な力を蓄えているという驚くべき事実も。
浄化などという言葉は、あの人類悪には無縁のものらしい。
「ならば発想を逆転させるべきだ。奴の器が“死”に満ちているというのであれば」
ルージィは何を思ったのかバーテンダーが持ってきた酒を、ミルクのたっぷり入ったグラスの中に注ぎ込んだ。
「更なる“死”を注ぎ込み器から溢れかえらせてやればいいッ!」
鬼気迫る表情だった。
冷静沈着を絵に描いたような男の意外な一面だ。
「これでも私は敬虔な信徒でね。おまえがここに居るのは邪神ではなく至高神の思し召しだと信じている。アドラ・メノス、おまえが真の勇者ならばその死と破壊の力でサタンに心臓を掴まれ、ただ生かされているだけのこの世界を救ってみせろ」
だがそれも一瞬だけの事。
ルージィの顔はすぐに仕事疲れの配管工のものに戻っていた。
「まっ――ぜんぶ私の妄想ですがね。おっと結構話し込んでしまいました。そろそろ帰らないと妻に叱られる。ではまたお会いしましょうルガウ王」
席を立ったルージィは、最後にカウンターにぶちまけられたミルクと酒の混合物を一瞥する。
「こんなもので酔って気持ちよくなれるなら何の苦労もない。私も、そしてあなたもね」
吐き捨てるようにそういってルージィは酒場を出て行った。
「……その一点についてだけは、同意しますよ。ルージィさん」
ルージィが酒場を去った後もアドラは座ったまま、ミルクの入った自分のグラスをただ無言で見つめていた。




