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第八十六話 濡れた死者

 Eさんは彼女と共に旅行中、観光スポットでもある岬に夕方頃にやってきた。

 山からせり出している岬は海が眼下に入るいいロケーションだ。


「ほら、波が結構あるよ」


「うん、落ちたら……帰ってこられないね」


 柵があるとはいえ彼女の方が少し怖がっている。

 向こう側の方にもせり出した箇所があるが、Eさんらがいるところとは違って柵などの整備もされず、断崖絶壁に見える。

 Eさんはそちらの崖の方に目をやり、あることに気づいた。


「あれ、あそこに何か、人みたいなのが」


「えっ? 誰かいる?」


 彼女も向こうの崖に注目する。

 白っぽいシャツの男性らしき姿が、崖の上に立っている。今にも落ちてしまいそうな位置だ。

 Eさんの記憶では、男性がいる方の崖は歩道の舗装もされていないし、観光客が行かないように立入禁止になっていたはずだ。

 だが、そこになぜか人がいる。


「なあ、あれ落ちるんじゃないか」


「いやっ、ねえ、止められない?」


 彼女は目を覆う。軽くパニック状態に陥ったようだった。


「無茶言うなよ、ここからじゃ聞こえないよ。あっ」


 Eさんが見ている間に、男性が崖から落ちていった。

 気をつけの姿勢の、まま、崖の向こうに落下していったように見えた。


「うわっ、マジで落ちたぞ」


「ねえ、どうするの、警察呼ぶ、警察」


「え、いや、どうしようかな」


 彼女は警察を呼ぶか相談してくるが、Eさんは悩んでいた。

 そろそろ予約していた宿に行く時間だった。警察を呼んでいると事情聴取に時間を取られていろいろ面倒だという思いがある。


「うーん、自殺したかったみたいだし、正直、俺たちができることはないよ」


 そう言って、その場を離れようとするEさん。


「おい」


 背後から声がした。


「えっ」


 見ると、白いシャツで下は黒のジーンズをはいた男がEさんたちの後ろに立っていた。

 Eさんは一瞬で、先ほど飛び降りた男のことが頭をよぎった。


「あ、あの」


「なんで助けない」


 男が低い声で言う。不思議なことに、男の口が動いていないように見えるのに、声は耳にはっきりと聞こえた。


「なんで助けない」


 Eさんは気味が悪くなり、彼女の方を見ると彼の腕にしがみついて震えている。


「あ、その、僕たち帰る時間なんで、失礼します」


 そのまま早足で男の横を通り、車を停めていた駐車場まで向かった。

 幸い、男は追いかけては来なかったようだ。


「なんなんだ、なんなんだあれは」


 Eさんは運転席に座って大息をつく。

 彼女の方はまだ震えが収まらないようだが、助手席に座って喋り始めた。


「ねえ、さっきの人なんだけど」


「ああ、気持ち悪かったな。言ってることも意味不明だったし」


「なんで全身濡れてたのかな」


 彼女がそう言って、Eさんは背筋がぞくりとするのを感じた。

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