3
翌日、僕はいつも通り起きて各部屋を廻り、寝坊助どもを朝食に追いたてる作業から始めた。
これは休暇中も食事を用意してくれる職員さんに、少しでも手間をかけさせないための措置で、普段からそんな甘やかしをしているわけではない。僕はこの寮の食堂で、休みの日だけお皿洗いのアルバイトをさせてもらっているので、自分の手間を省くためでもある。
そう話すと編入生のふたりに感心されてしまったが、先に社会に出ていた彼らに比べれば、僕の仕事など子供のお使い以下のことだ。
僕が彼らを伴って食堂に入ると、いつもの休日のダラダラと弛緩した雰囲気がパッと緊張感のあるものに変わった。じきに元に戻って挨拶やおしゃべりが再開されたけれど、僕らの方へ近付こうとする者はいなかった。
レオナルドは昨夜の時点で打ち解けない空気を振りまいていたが、きっと僕の貼った『不良』のレッテルのせいで他の寮生からも一歩か二歩、引かれてしまったのだろう。つまり結局、僕が彼らの面倒をみることになるわけだ。
「えーと、この白紙の答案は……、学んだことのない科目だったのかな?」
「ああ悪い……。俺は数学とかバケ学とか、全部わからない」
……レオナルドは勉強が出来なかった。新学年が始まる迄に座学だけでも学院の授業とすり合わせておこうと、自習室にある過去の試験問題集で実力テストをしてみた結果である。
神殿では読み書きと経理と初歩的な医術の知識を教わっただけだというし、編入の際は前の学校と編入試験の成績により評価相当の単位が付与されるはずだが、彼はそもそも試験を受けていないらしい。
「いや大丈夫だよ。理系教科は四年生では自由選択科目になるから。それよりも重要なのは『世界地理』『近・現代史と各州史』『世界法と各州法』この三つを毎日集中してやっていこう」
「ぐ……、わかった……」
本当は三年までに単位が取れていれば自由選択になるのだけれど、ここは深く追及せずに暗記モノに絞るべきだろう。これから彼が貴族として生きるのなら必修の知識でもあるのだから。
「シュガルド君はひと通りできてるね。古代史が平均以下なのは旧い学説で解答しているからだよ。例えば帝国の成立年代だと、最近の発掘調査でより古い遺跡からも大災害の痕跡が」
「セドリック、俺も食堂で働きたいんだが、どうやって頼めばいい?」
――こんなふうに、レオナルドは僕がシュガルド君と話しているところへ横入りしてくることがよくある。何故か彼は、シュガルド君のことをわざと無視しようとしているみたいだ。
シュガルド君に目線を送ると「かまわない」と言うように頷いてくれた。
「残念だけどレオナルド、アルバイトは勝手にはできないんだ。学院の本部棟に掲示される求人目録から選んで斡旋して貰うんだけど、今は事務方も休みだし。新年度になって受講する科目が決まってからでないとね。もちろん、社会学習として単位も取れるから、是非やるべきだと思うよ」
「そうか……、じゃあ今はベンキョーだけか」
「アハ、そういうこと」
情けない声音で肩を落とすレオナルドに和んで、ちょっと笑ってしまった。でもその後、彼はさらに落胆することになるんだけれど。
学院の許可するアルバイトで一番人気はやはり家庭教師だ。ジーンベルツに住む貴族の子供に週一回読み書きを教えるだけで一万セル、という破格の待遇ゆえに競争率も高い。それ以外では、郵便物の仕分け、書庫や倉庫の整理、工場内軽作業といった雑役が中心で、店舗等での接客は不許可だ。
学院内での仕事は寮での皿洗いか、各教師が臨時で募集する雑用くらいだが、どちらもかなり人気があって毎回抽選で決めている。
レオナルドは寮での仕事を望んでいたが新年度の募集にもれて、しかも父方の家からの命令で学院の外には出てはならないとかで、結局勉学に勤しむしかなくなってしまった。
ちなみに僕は単位取得済みのため、今回の休暇明けで引退だ。
◇
「そう、この神殿の祭文にしても後の時代に作成されたもので、史料というよりは神話だよね。最初の皇帝を神の化身と崇め讃えるための説話集で、所々おとぎ話の『翡翠の魔女』のエピソードも混じってる」
「翡翠の魔女が初代皇帝って説もあるけど?」
「うーん、僕はやっぱり架空の人物だと思うよ。強大な力をふるった初期の皇帝一族を象徴的に表現したんじゃないかな」
「だって黒髪黒衣の妖艶なる美女だよ?実在したほうが良くない?」
「え、でもきみ……」
それからの日々、僕と彼らは朝食後の数時間を自習室で過ごし、時折り午後からも学院の図書館へ行ったりと、真面目な生活を続けていた。
レオナルドはやればできる子で、歴史や法律に加えて学院では習わない紋章学や儀式作法まで、教えれば教えるだけ、乾いた喉を潤すように新しい知識を吸収していった。
夕食後はシュガルド君が僕の部屋を訪れ、しばらく話していくことがある。彼は歴史の勉強をやりなおしているのでそれに関する質疑や、借りて来た本を読んでの感想と雑談も少し。この時間ならレオナルドはベッドに転がってウトウトしているので邪魔されずにすむそうだ。
「ねぇ今、僕が女の人に興味あるの意外って思った?」
「そんなことは――す、少しだけ……」
またしても急接近したシュガルド君がデスクの上の僕の手を握る。彼は人をからかうときスキンシップが多めになるようだ。
「セディはフィアンセいるよね?美人?清楚系?かわいい系?」
「かわいい、かな?入学前に会ったきりだから今はどうかな。手紙なら月に一度は書くけれど」
「ふーん、ちゃんと大事にしてるんだね」
「義務だからね! そういうことでからかって罪をそそのかそうったって無駄だから!」
「罪? 何が罪なの?」
しまった―――
綺麗な顔に妖しい笑みを浮かべたシュガルド君が握った手に指を絡めて僕に続きを促す。手のひらをくすぐられると何故か抵抗できなくなった。
……それは、この秋の進級試験明けのこと。
所属していた論述クラブでは、四年生のための卒業祝賀会が催された。会場はおいしいと評判の庶民向け料理店だけれど、安い酒も出すし、上階が娼館になっているところだった。
酔いと開放感にまかせた四年生たちの会話は段々と下品なほうへ流れ、恋人や婚約者のいる者は質問攻めにあった。僕は婚約者と二人きりになったことも無いと正直に答えたのだけれど、次期領主がそれでは情けないと説教され、実地訓練として全員で娼館へ上がると言い出した。そして僕は仕方なく……
「酔って吐きそうなふりをして逃げ出して来たんだ……」
「――ぷふっ!!」
「そうだよっ、笑ってくれ!僕はカタブツで小心者で卑怯者なんだ!」
「ゴメンゴメン、そうじゃなくて……」
シュガルド君が「し」と指を立てたので僕もハッとして口を噤む。
大声でこんな話をしてるなんて、よほど気が緩んでいたに違いない。或いは気を許し過ぎていたのか。
「それって元から示し合わせてたんじゃない?次期領主の君をダシにするつもりだったのか、単なるいらないお節介なのか知らないけどさ」
「もしくは、僕を貶めるつもりだったかね…」
「あー」
「でも当然、学院生が娼館や遊戯施設に出入りすることは禁じられているし、卒業が決まっていようが次期領主だろうが、だめなものはだめだ。あのあと娼館の主人から学院へ連絡が行って、四年生の数人が謹慎処分になったけれど、場合によっては退学や卒業資格取り消しまであり得ることだった。結局のところ、僕がひとりで逃げたりせずに、きちんと正していれば良かったんだよ」
「そっか、じゃあ僕からもいっこ白状しなくちゃね」
「え?」
「僕とレオナルドは賭けをしてた。フツーのフリをしてる君を、どっちが先に落とせるか」
「……」
―――普通のふり……
「ごめんね?でもセディのことをを貶めようなんて思ってないよ?言っちゃったから僕はもう降りるし、レオナルドにも君に迷惑かけないようにって言っておくから」
まだ触れ合ったままだった指先が急激に冷えていく。それにより感情を知られてしまう気がして僕は、指を握って隠すように彼の手から逃れた。
―――普通のふりをしている僕を、笑ったのか
「……わかったよ、どうせかけるなら面倒だけにしてほしいね」
シュガルド君はいつもと変わらないふわっとした笑顔で、ちょっとした悪戯がばれたみたいに謝って帰って行った。
僕は何か冗談めかして言い返そうとしたけれど、声が震えてしまうのをごまかすのが精一杯だった。
◇
その後も僕は、彼らの『悪戯』に関して追及することなく、つとめてこれまで通りに振る舞った。
ただ、夕食後にシュガルド君が僕の部屋へ来ることは無くなり、食堂でお喋りするようになったので、新参の二人が他の寮生になじむのには丁度良かったかもしれない。
新年を迎えてもこれといった催し事は無く、一年で最も静かな時期を堪能した後は、寮生たちの帰京と新入生の入寮で一気に最も騒がしい時期に突入する。
そして、一月の第三週からはいよいよ、或いは容赦なく、新しい学年の授業が開始された。
レオナルドが何れかの領主のご落胤だというのは僕の推測でしかないと思っていたけれど、すでに何処からか噂になっていたようだ。
正真正銘次期領主である僕が、初日から付き添っていたことで噂は確定として広まってしまった。
レオナルドはそれを否定しない。
というより僕以外が話しかけても始終無言で睨むだけなので、興味本位で近付く者はすぐにいなくなった。
たぶん、激しく人見知りを発揮しているだけなのだろうけれど、ボサボサだった髪を切って後ろへ撫でつけているせいで、精悍な顔立ちに鋭い眼光が際立って、まさに不良番長というべき圧力だ。
彫像的美少年であるシュガルド君との関係も、やはりそれなりに取り沙汰されている。けれど驚くべきことに、剣術や馬術やダンスもできてマナーの心得もあるシュガルド君は、あちこちのクラブ活動や研究会から招かれては顔を出しているようで、授業以外は寮でゴロゴロしているだけのレオナルドのお守り役など放り出してしまったようだ。
存外活動的で社交家なシュガルド君も、もはや不良番長なのか寮の警備員なのかわからなくなったレオナルドも、暇を見つけて自習室での勉強会を継続しているし、ふたりと僕は、課せられた学院生活を問題なく過ごしていた。
その日が唐突に訪れるまで。
後半は明日投稿します。