(9)
降臨祭を七日後に控えた今日、学院内は朝からそわそわした空気が漂っていた。あちこちで女の子が男の子をつかまえては声をかけ、また意中の相手の目にとまるよう、男の子は何度も女の子の前をうろついている。
そんな中、昼食後にイオタがやってきて、怖い顔でシータに迫った。
「ちょっとあんた、まだ誘ってないんですって?」
「あー、う、うん……」
「何やってんのよ!? こんなところでのんびりくつろいでる場合じゃないでしょ? さっさと行かないと取られちゃうわよっ」
いきなり押しかけてきて怒鳴る『黄玉の姫』に、パンテールたちは完全にかたまっている。シータもその勢いにたじろいだ。
一応、心の準備はしてきたのだ。しかし今日にかぎってなぜかファイの近くには珍しく同期生がいたり、自分のそばを行ったり来たりする男子生徒数人にやたらと道をふさがれたりで、なかなか近づけなかった。
「アヴェルラがファイに告白したそうよ」
イオタの報告にシータの胸がひやりとした。
アヴェルラ・シェルフ。舞踏会の最初のダンスでファイと踊った炎の法専攻二回生だ。最後のダンスでも、ファイの手をつかんで熱心に誘っていた。
「舞踏会の最後のダンスは、あくまでも事前申告でしかないの。降臨祭に一緒に出かける確約じゃないから、別の相手と動くことだって普通にあるのよ」
わかったら早く行けと背中を押され、シータは駆け出した。きょろきょろしながら走っていると、途中でラムダとミューに会い、「ファイならあっちにいたぞ」と先に教えられる。廊下の角を曲がったところでは、幼馴染のティスベといたローが「シータ、こっち」と手招きし、そのずっと先に、ファイとアヴェルラを含む数名の女生徒、さらにタウがいた。
タウが何か話し、アヴェルラたちのもとからファイを連れ出したところで、シータを見た。
ほんの少しだけ息切れしながらシータがファイの前まで来ると、タウは赤い瞳を弓なりにして場を離れた。シータをにらみつけていたアヴェルラたちも、反対側から現れたイオタに追い散らされ、姿を消す。
二人きりになった廊下で、シータはファイと視線をあわせた。
「ファイ……あ、あの……あのね」
うまく言葉が出てこない。鼓動が全速力で駆け巡っていき、顔が熱い。シータは胸の前でこぶしをにぎると、一度生唾を飲み込んだ。
「あの、こ、降臨祭……いっ、一緒に行ってくださいっ」
思った以上に大きな声が出てしまい、中庭にいた生徒たちがふり向く。恥ずかしさにうつむくシータの耳に、柔らかい声音が届いた。
「いいよ」
目をみはって顔を上げたシータはドキリとした。自分を見つめるファイの瞳の優しさに吸い込まれそうになったとき、近くで歓声がわいた。びっくりして見回すと、イオタやタウだけでなく、いつの間にかラムダとミューとローたちもいて、笑顔で拍手している。
「迎えの時間は、朝九時頃でいい?」
「う、うん」
シータがうなずいたところで、イオタたちが寄ってきた。
「やれやれだわ。本当に気をもませるんだから。そうと決まれば、服を買いに行くわよ、シータ」
「普段着じゃだめなの?」
首をかしげるシータに、イオタが人差し指を突きつけた。
「あんたの普段着は、どうせ動きやすさ重視のものしかそろえてないでしょ。それと、当日は武器は家に置いていくのよ」
「ええっ!?」
「当たり前でしょ。降臨祭の日に長剣ぶらさげて歩く女の子がどこにいるのよ」
「短剣は? 短剣くらいなら……」
「だめなものはだめよ」
泣きつくシータをイオタが叱る。それを見てローたちは噴き出し、タウやラムダも苦笑した。
「それで服だけど、今度はどうしようかしら……かわいらしく? それともちょっと大人っぽく? ファイ、どんな感じが好みなの?」
すでにさまざまな組み合わせを頭の中で描いているらしいイオタが、ファイをかえりみる。
「イオタたちに任せるよ」
最後にちらりとシータを見てファイが去る。その口元が上向きにゆるく弧を描いていたことに気づいたのは、シータだけではなかったようだ。
「……今、笑ったわね」
「そうね」
とても珍しいものを目にしたとばかりに、イオタとミューがつぶやく。一方シータは、何とか短剣だけでも持っていく方法はないものかとひそかに考えていたが、店でイオタに勘づかれ、剣をさすベルトが装着できないような服に強引に決められた。
降臨祭の朝、約束通り九時頃に、ファイが家まで迎えにきた。今日は冒険をするわけではないので、ファイも杖は持っておらず、暖かそうな服装で襟巻や手袋もしている。
シータはもこもこした生地の上着に、丈の短いスカート、そして膝くらいまであるブーツをはいていた。これだけスカートが短ければ、積極的に乱闘騒ぎは起こさないだろうというイオタの意図だった。しかも短いスカートは最近首都アーリストンで流行り始めたばかりだ。普段長いスカートに慣れている女の子たちはまだ身に着ける勇気がなかなか持てないが、見るからに活発なシータなら絶対似合うからと、イオタに勧められた。
髪は、今日は後頭部ではなく横側の高い位置で一つにくくり、毛先は軽く巻いている。さすがに舞踏会のときのようにイオタたちに手伝ってもらうわけにはいかなかったので、祖母の助けを借りながら何度か練習したのだ。本番の今日が一番きれいにまとまってくれたので、シータはほっとしていた。
ファイは見送りに出たシータの祖母に軽く会釈して、シータを連れて家を出た。シータの格好についてファイは特に何も言わなかったが、満足そうな顔をしていたので、気に入ってくれたのだと思うことにした。
町はもう、恋人たちであふれていた。一人で歩いている男性も数人いたが、これから相手を迎えにいくのだろう。
シータは、はあっと手に息をかけてすりあわせた。さすがに空気が冷たい。降臨祭の日は毎年必ず雪が降ると聞いたけれど、今日も午後あたりからちらつきそうだ。
「手袋忘れたの? 取りに帰る?」
まだシータの家に近いから間に合うよと戻りかけたファイに、シータはかぶりを振った。
「降臨祭の日は女の子は手袋をしてはいけない決まりになってるって、イオタに教えてもらったの」
「そんな決まりは……」
首を傾けたファイが何かに気づいたような表情を浮かべた。黙り込むファイにシータが問い返そうとしたとき、ファイは自分の左の手袋をはずした。
「それ、左手にはめて」
言われるままシータがファイの手袋を左手につけると、ファイはシータの右手をにぎって自分の上着のポケットに引っ張り込んだ。
近い。そしてかなり恥ずかしい。ファイのポケットの中でにぎった手から伝わる熱に、シータの心臓がバクバク音を立てた。ファイも視線を外へそらしている。
意識しすぎて、何を話せばいいかわからない。そのまましばらく無言で歩いていると、眼前に屋台が見えた。
降臨祭の日は、恋人たちのためにたくさんの屋台が出る。いくつかの店の前で足をとめている男女の二人連れを眺めていたシータは、ある店に興味をひかれた。
シータの歩みが遅くなったのに気づいたのか、ファイがかえりみる。シータの視線の先を追ったファイが「寄ってみる?」と聞いたので、シータはうなずいた。
「いらっしゃい」
ふくよかな年配の女性が、ファイとシータを笑顔で迎える。目の前に広げられているのは髪飾りだ。
「腕のいい細工師が作ったものだから、しっかりしてて長持ちするよ。手に取ってみておくれ」
シータは並べられているものを見回した。どれも素敵で、目移りしてしまう。
「気に入ったの、ある?」
尋ねるファイの目も左右に動いている。シータは迷いに迷い、一つにしぼった。
「これ」
「これは?」
シータが指さした髪飾りを、ファイが同時に指し示した。顔を見合わせる二人に、店番の女性が笑った。
「あんたたち、気が合うねえ」
選んだのは、羽を広げた意匠に小さな青い石がいくつかついているものだった。
「じゃあ、これください」
そう言ってファイが財布を出したので、シータは慌てた。
「あっ、自分で買うよ」
とめてもファイはさっさとお金を払い、店番の女性が包んだ袋を受け取ってしまった。そしてファイは店を離れてから、シータに袋を渡した。
「前に天空神の本をもらったから、そのお礼」
「え? でもあれは、おばあちゃんが持ってた古本なのに」
「こっちではなかなか手に入らないものだから、僕にはありがたかったよ」
ファイは何が何でもシータに払わせる気がないようだ。そうわかり、シータは素直に甘えることにした。背負っていた小さな袋にシータが髪飾りを入れると、ファイが左手を出してくる。シータが右手を重ねると、またファイのポケットに導かれた。
今度はファイは正面を向いている。手をつなぐことにだんだん慣れてきたように見えるファイの隣で、自分一人が動揺していることにシータがよけいに恥ずかしさを感じたとき、見知った顔を見つけた。
前方から腕を組んで歩いてきたのはタウとイオタだ。二人とも自然体で、もう何年も寄り添っている恋人同士みたいだ。
「あら」
イオタが軽く目をみはった。
「髪、うまくまとめたわね」
ほめてくるイオタに、しかしシータは半目になった。
「……イオタ、降臨祭の日は女の子は手袋をしちゃいけないって言ってなかった?」
なんでイオタはしてるの、とあやしむシータに、「私はいいのよ」とイオタがさらっと言い返す。
「何のことだ?」
不思議そうな顔をしたタウの視線が、ファイのポケットに突っ込まれているシータの手に流れた。「ああ」と納得したさまで苦笑され、ますますおかしいとイオタに追及のまなざしを投げるシータに、イオタはふふんと笑った。
「私はちょっと手助けをしただけよ。それに乗るかどうかはファイに任せたのよ。それより、武器はちゃんと置いてきたでしょうね?」
イオタの手がのびてきて、シータの腰回りを探る。くすぐったさに悲鳴をあげると、耳元でささやかれた。
「最後、頑張りなさいよ」
瞬間、ぼっと顔がほてった。
「じゃあね」と微笑んで、イオタとタウが去っていく。それを見送ったファイもシータをうながしたが、イオタの言葉が頭から離れず、シータはその後、何度もつまずいて転びそうになった。
お昼を食べるときも、ぼうっとしては我に返って急いで食べ、またぼうっとするの繰り返しで、ファイに心配された。
「疲れた? それとも、具合が悪いの?」
「あ、違うの。そうじゃなくて、その……何でもないから気にしないで」
あははと照れ笑いでごまかして、内心でため息をつく。せっかく意識しないようにしていたのに、イオタのせいで台無しだ。
明日会ったら絶対に文句を言ってやると恨みながら、シータは緊張でのどを通らなくなった昼食を無理やり口に押し込んだ。
飲食店でゆっくり時間を過ごし、体を温めてから、二人はまた外に出た。途中で本を売っている屋台があったので、今度はシータがファイの選んだ本を買って贈った。イオタと会ってからシータの口数が減ったことに気づいたのか、珍しくファイのほうからずっと話題を振ってくれたので、シータはそれに答えるだけでよかった。
出会った頃にローが言っていた。ファイはちょっと人見知りするけれど、本当はすごく優しいんだよ、と。
今なら、とてもよくわかる。問題に突き当たっても涼しい顔で対策を考え、いい結果を運んでくれる。人付き合いは苦手だと言いながら、仲間のために動いてくれる。
タウもイオタもラムダもミューも、そしてローも、みんな好きだけれど、やっぱりファイに対してだけは、『好き』の意味が違った。
いろんなことが初めてで、自分のことなのにわからないこともたくさんあって。
それでも今、自分は幸せだと思う。
もう少し暖かくなったら。『風の神が駆ける月』に入ったら、一度生まれ育った国に行こう。そして母の墓前で報告しよう。
とても大切な仲間に出会えたよ。
私にも、好きな人ができたんだよって――。
ふと冷たいものが顔に触れ、シータは空を見上げて目をみはった。
真っ白い雪がふわふわと降りてくる。同時に、中央広場の鐘が四つ鳴る音が聞こえた。
周囲の人影はまばらだった。出歩いていた人たちは、できるだけ人けのない場所に移動したのだ。
ファイのおかげでやわらいでいた緊張が、一気にぶり返してきた。
(頑張れと言われても……)
事前にイオタとミューから教えてもらった、降臨祭の最後の『あること』。
降臨祭の日は毎年四時になると、雪が降り始める。時間にして、ほんの一刻――その間に口づけを交わした恋人たちは長続きすると言われている。
手をにぎるのさえやっとだった自分に、そんな勇気があるわけがない。
話を聞いたとき、ひっくり返りそうになった自分に、「正面からぶつかっていくのは、あんた得意でしょう!?」とイオタに叱咤激励されたけれど。
そもそもファイが嫌がるかもしれない。女の自分から迫って、はしたないと思われたら困る。
思考がぐるぐる回って定まらない。思い切っていくか、今回は引くか。悩みすぎて手に力が入っていたらしい。「シータ、手が痛いからちょっと離してくれる?」とファイに言われてはっとした。
「ご、ごめんっ」
ファイと手をつないでいたのを忘れていた。同じ剣専攻生のエイドスですらシータの握力に悲鳴をあげたのに、ファイが耐えられるはずがない。
相当痛かったのか、ファイがあきれ顔で手をもみほぐしている。ああ、これは失敗したかもと落ち込んだシータの頬に、ファイの指がそっと触れた。
「途中から様子がおかしかったのは、これが原因?」
ファイの顔をまともに見られない。シータはうつむいてコクコクとうなずいた。
「泣くほど恥ずかしい?」
言われて初めて、目尻に涙がたまっていることに気づいた。
「……したくない?」
勢いよく首を横に振る。それでもやはり目をあわせられない。
「そう……じゃあ」
すり、とファイの指がシータの耳をなぞった。びっくりして思わず顔を上げたシータの、それまでかたく閉じていた唇がゆるんだとき、ファイの唇が重なった。
「たまには、先制しないとね」
至近距離でこぼされた笑みに、視界が揺れる。へなへなと座り込んでしまったシータに引きずられて膝をついたファイが、ぎゅっとシータを抱きしめた。
「……僕も、恥ずかしくて死にそうだよ」
頬に当たるファイの耳は確かに赤くなっていて、熱い。それがおかしくて、嬉しくて、シータは笑って抱きしめ返した。
ビオス・マルキオー神官長が捕らえられ、彼が独自に作っていた虹の捜索隊の制度を大神官が破棄したことで、延期されていた特待生試験の基準は見直された。虹の捜索隊に所属しているかどうかが評価対象から外れたおかげで、タウとイオタ、ラムダ、そしてミューは無事に特待生審査に合格した。
なかばあきらめていただけに、タウたちの喜びようはすごかった。その後イオタとミューは卒業までの間、学院の図書館で禁退出の書物に触れることを許され、またタウは武闘館の入学式で新入生代表としてあいさつすることが決まり、読み上げる文をウォルナット教官と一緒に考えた。シータやファイ、ローも年度末の試験に向けて勉強の追い込みがあり、冒険に出ることはできなかったが、それでも七人は息抜きがてら町の闘技場に集まって茶会を開いた。
その年の最後の合同演習の日、シータはタウに手合わせを申し込んだ。どれほど慌ただしい日を過ごしていても、タウの腕はまったく衰えていなかった。それどころか、技の鋭さが増している。シータ自身もこの一年でぐっと成長したという自負があったが、タウにはまだまだかなわなかった。
休憩時間に入ったときにはすでに全身汗まみれになっていた。シータはタウと一緒に窓際に移動して腰を下ろすと、布で汗をぬぐった。
「お前が武闘館に入学してきたとき、どれだけ強くなっているか楽しみだ」
初めての合同演習で剣をぶつけあった日、シータの剣技に驚いたとタウが笑う。シータもタウに申し込まれた最初の日のことを思い出した。
二年という年の差は小さいようで大きい。いつも自分はタウを――自分よりも強い人間を追いかけていかなければならないのだ。自分がタウたちを越えるには、彼ら以上に努力しなければならない。足踏みして待っていてくれるほど、タウは怠慢ではないから。そんなタウを自分も望んではいないから。
「特待生、絶対になってみせるから」
タウと同じように、武闘館の入学式で代表としてあいさつができるよう、技を磨き、苦手な勉強も頑張ろう。入学したとき、タウやラムダをがっかりさせないように。堂々と胸をはって会えるように。
「俺ももっと上を狙う。まだまだ学ぶことはたくさんある」
終わらない道のり。自分からとまらないかぎり、永遠に続いていく道――タウはタウが見ている道を、そして自分は自分の道を、この先も駆けていくのだ。
窓から吹き入ってくる冷えた風が心地よい。もう一戦するかというタウの誘いに、シータも腰を上げた。今はただひたすら、思う存分剣を振るいたかった。
『水の女神がまどろむ月』の末、ゲミノールム学院は卒業式を迎えた。
法塔の鐘が鳴り、卒業生入場の声が響くと、演奏者たちの奏でる音色にあわせて扉が開き、正装をまとった三回生たちが颯爽と大会堂に入ってきた。各専攻の先頭にいるのはそれぞれの代表であり、剣専攻はタウ、槍専攻はアレクトール、炎の法専攻はイオタ、水の法専攻はカルフィーだった。祝辞の後、彼らは壇上で学院長から卒業証書と記念品を受け取り、タウがあいさつをしてたくさんの拍手を浴びた。それから下級生代表としてローが祝いの言葉を贈り、生徒会長から学院旗を引き継いだ。
生徒たちが楽しみにしているのは最後の催しだった。入学式同様、武闘学科の両専攻生が代表戦をおこなうことになっているのだ。いよいよそのときがきて、生徒たちは大騒ぎしながら大会堂の中央をあけた。
「剣専攻代表、タウ・カエリー!」
ウォルナット教官に呼ばれたタウが返事をして正装のマントを脱ぐと、大きな歓声がわいた。
「槍専攻代表、ラムダ・アーラエ!」
フォルリー教官が告げた名はラムダだった。約束どおり、ラムダは代表の座を勝ち取っていたのだ。
代表戦の時間は決められている。勝敗がつくこともあれば引き分けることもある。遠慮しないことは、向き合った二人の目を見ればあきらかだ。それまでざわめいていた大会堂内が静まり、高まる緊張と興奮に、シータも二人から視線をそらせなくなった。
号令はない。武器を構えた瞬間から勝負は始まっているのだ。互いににらみあい、じりじりと間合いをはかっていた二人がついに動いた。
槍の長さを利用してタウの攻撃をたくみにかわすラムダに、シータは見入った。交流戦前の合同演習でラムダとは少し交わったが、あのときとは本気の度合いが違うのか、ラムダは多彩な技を惜しげもなく繰り出していく。息つくひまもない激しい攻防戦ににぎったこぶしが汗ばみ、てのひらに爪が食い込んだが、シータは痛みも感じないほど夢中になった。
どちらかが危うくなるたびに悲鳴があがるが、野次やよけいな応援はいっさいなかった。あるいは自分も試合に集中しているために、周りの雑音が聞こえなくなっていたのかもしれない。
剣の軌跡がきらめき、槍がうなる。速まる鼓動が天井さえも突き抜けようとした刹那、「やめ!」と両専攻の教官が手を挙げた。最後のぶつかりあいから二人は武器を引き、一礼した。
大歓声と拍手の嵐が場内を震わせる中、二人が歩み寄って握手をかわす。肩をたたきあい、タウとラムダは笑顔で学院長の前へ進んだ。すばらしい代表戦だったと賞賛する学院長に頭を下げ、二人は演武を務めた証のマントをたまわった。同時にマントを羽織って出口のほうへと向く二人の後ろに、両専攻生と神法学科生、教養学科生が並ぶ。再び荘厳な音楽が鳴り始め、タウとラムダを先頭に卒業生は退場していった。
その後の学院内は、目当ての卒業生に群がる下級生たちで混雑と混乱を極めた。卒業生が胸につけている花をもらおうとみんな必死になっているのだ。タウやラムダを大声で捜し回る女生徒や、バトスたちがもみくちゃにされている光景を、七人は法塔の最上階から見ていた。
さすがに武闘学科生のタウたちが法塔にいるとは、誰も思いつかないらしい。それでもあまり窓際に寄っていては、目につく恐れがある。イオタに注意され、シータも窓辺を離れた。
「長かったような短かったような、一年だったな」
すみの机に腰かけながらラムダが言う。胸の花はすでにミューと交換していた。
「シータ、そんな顔をするな」
「まるで永遠の別れって感じね」
あきれ顔のイオタの横で、タウがシータの頭をなでる。せっかくこらえていた涙があふれだし、シータはしゃくりあげた。
「だってもう学院内では会えないし、ファイとローだって来年は卒業してしまうし」
頭ではわかっていたのに。心の準備もしていたはずなのに。置いていかれる現実をいざ突きつけられるとだめだった。何度も手の甲で目元をぬぐうシータに、タウは言った。
「二年たてば、また武闘館で会える。それに冒険をやめるわけじゃない」
唇に流れてきた涙を舌でなめて飲み込み、シータはタウを見た。
「イオタとミューは寮に入るから、集会は休みの日になるが」
「やる気さえあれば集まれるってことだ」
ラムダも黄赤色の瞳を弓なりにする。
まだ続けられる。一緒に冒険できるのだ。ようやく泣きやんだシータに「単純ね」とイオタがため息をついたが、目は笑っていた。
「どうする?」
顔をのぞき込んできたタウに、もちろん冒険に参加するとシータは答えた。タウは微笑むと、自分の胸の花をはずしてシータに渡した。イオタの視線が追いかけてきたが、文句は言われなかった。
「新しい生活に慣れたら、すぐ会いにくる」
「俺たちだって、お前たちの顔を見られないのは寂しいからな」
机から降りてラムダが寄ってきたところで、法塔の鐘が鳴った。近いとさすがに頭に響く。耳を押さえてやり過ごした七人は笑いあった。
「さて、そろそろ行くか」
ラムダの声かけにうなずき、七人は階段を下りはじめた。タウやラムダの背中を見ても、もう悲しくはない。
この先も町の闘技場に行けば冒険の話し合いはできる。みんなで円卓を囲む日は続くのだ。
玉は消えてしまったが、感触はまだしっかりと残っている。虹の森の池で見た『幸福』を忘れないよう、シータはこぶしをにぎりしめ、みんなの後を追った。
閲覧ありがとうございました。これで第1部は完結です。
次巻は第1部と第2部をつなぐ話になります。恋愛が主軸なので、ジャンルをハイファンタジーにするか恋愛ファンタジーにするか迷い中ですが、今のところ恋愛ファンタジーにする可能性が高いです。
1月末から2月初旬の間に投稿予定なので、見かけたらちょっとのぞいてみていただけると嬉しいです。