(7)
朝、学院長は登校してくる生徒たちを学院長室の窓から眺めていた。先日呼んで話をしたバトスたちはやはりどことなく表情がこわばっている。ニトルなどは周囲を気にしすぎて前の生徒にぶつかっていた。
むだに怖がらせたくはなかったが、タウたち六人がいまだ監禁されていることを考えれば、注意をうながす以外に方法はなかった。学院長はため息をつくと、胸元で揺れる首飾りをにぎった。
学院生のとき、自分たちを――仲間を守ってくれなかった学院長を恨んだが、いざ自分がなってみれば、どうだ。
下等学院の学院長程度の身分では、彼らをあそこから出してやることはできないのだ。
それでも自分は、あの学院長のようにはなりたくない。助けてくれと叫ぶ子供たちに背を向けることだけはしたくない。
そのとき、風の法の気配を感じて学院長は顔を上げた。風の神の使いが自分を目指して飛んできている。半透明に輝く鳥は閉められた窓をすり抜けて室内に入ってくると、天井付近を一度ぐるりと回ってから学院長のそばに降りてきた。
使いにこめられた伝言を学院長は読み取った。目をすがめたところで扉がたたかれ、ロードン教官が入ってくる。
「ロードン先生、私はこれからスクルプトーリス学院に向かいます。留守をお願いします」
「何か緊急事態でも起きたのか?」
「ええ、先日の交流戦で賭けた報酬を受け取りに」
微笑する学院長に、ロードンも「それはけっこうなことじゃ」と笑った。外套を羽織った学院長が扉を開くと同時に、水の法担当のケローネー教官が出勤のあいさつに現れたので、学院長は後をロードンに任せた旨を簡単に伝えて部屋を出ていった。
「ずいぶんー、お急ぎのー、ようですがー、学院長はー、どちらへー?」
「スクルプトーリス学院じゃ。すべては奇跡のパンのおかげじゃな」
首をかしげるケローネー教官の肩をたたき、ロードンもまた学院長室を退室した。
「なあ」
「ねえ」
「あのね」
壁や鉄格子にもたれて座り込んでいた六人は同時に言い、互いを見合った。
「何だ、もしかしてみんな同じことを考えていたのか?」
苦笑するラムダにシータたちも笑う。六人はできるだけ小さな輪を作るように顔を突きあわせた。
「それで、どうやって抜け出すかだが」
「神法院だからやっぱり守りはかたいわよね。うまくここを出られたとしても、外壁の外まで逃げるのは大変よ。追手も優秀な神法士ばかりだろうし」
「まあ、腕はいいだろうな。頭の中と体は、楽な生活でかなりにぶってそうだが」
「侵入者対策として要所要所に罠がしかけられているって、前に叔母さんから聞いたことがある。神官たちや正規の来訪者は、それにかからないための護符を身につけているって言ってた」
「ということは、六人分奪い取らないといけないってわけだな」
「なんかみんな楽しそうだね」
「そういうシータだって」
大声で笑いかけ、シータたちは人指し指を立てたり口を押さえたりした。外には番兵がいるだろうから、あまり騒いで様子を見に来られては困る。
「何としてもここから出ないとな」
「ああ。記憶喪失のローをあのままにしてはおけない。ローは俺たちの仲間だ」
タウがてのひらの赤い玉をにぎりしめる。きっと神官長の言葉に腹を立てているのだろう。
思い出し薬を飲んでもローの記憶は戻らなかったという。それは六人と冒険してきたことをローが忘れたがっているからだと、神官長は笑った。やはり教養学科生が冒険に出るなど無理な話だったのだと。神官長はローを仲間にしたシータたちをも馬鹿にしたのだ。教養学科生など仲間にしても何の役にも立たないとこれでわかっただろう、お前たちは明らかに選択を間違えたのだ。ローだけ玉が手に入らないのはそのせいだと。
「ローが自分で思い出せないなら、私たちがそばで手伝えばいいわ。それでもどうしても記憶が戻らなければ……」
「もう一度、一から一緒に刻んでいけばいい」
ミューとラムダの言葉に全員がうなずいた。それから六人はまず檻から出る方法を考えた。六人の武器や杖は取り上げられ、檻の外の法陣内に封印されている。さらに檻は法術が使えないよう細工されていた。
ここから出ることさえできれば何とかなる。話し合った結果、六人は一日三度用意される食事を利用することにした。イオタはうまくいくわけがないと計画に不満げだったが、使える手は全部使ってみればいいというタウやラムダの意見に、渋々といった様子で従った。
昼、いつものごとく二人の給仕が六人の昼食を持って地下牢へ下りてきた。一人が料理の入った大きな容器を、そして一人が食器を持っている。給仕たちは、牢内でうめいている六人に目をみはった。
「どうした?」
「腹が……さっきからおかしくて」
食器をそばの円卓に置いて牢に近づいた給仕たちに、ラムダが腹をおさえながら訴えた。他の五人も石の床に横たわり、痛い痛いとうめいている。シータなどは寝返りどころか転げまわっていた。
「食あたりか? ちょっと待ってろ」
給仕の一人が牢を離れ、扉の外にいた番兵を連れてきた。番兵も六人の様子に顔をしかめた。
「こいつらの身に何かあれば、俺たちの首が飛んでしまう。早く水の神法士に見せたほうがいい」
そのときシータがことさら大声で悲鳴をあげた。
「いたたたっ! もうだめ、吐きそう」
身もだえしながら口を押さえたシータは、最後にもう一度ごろごろと転がった後、不意に力つきたように動かなくなった。
「おい、大丈夫か!?」
番兵がふところから鍵を出して牢の扉を開けた。駆け寄って何度もシータの頬をたたくが、シータは目を閉じたままぴくりともしない。その隣でラムダも嘔吐しそうなしぐさを見せたため、給仕の一人が中に入ってラムダの背をさすった。
「まずいな。急いで神法士を呼んでこよう」
「できるだけ内密にお願いします」
給仕たちも自分の立場を気にしているらしい。うなずいた番兵が出て行こうとしたそのとき、牢の外にいた給仕があっと叫んだ。番兵たちが反応するより先に牢を飛び出したタウが、外の給仕に一撃を食らわせて気絶させる。さらに牢の中にいた給仕はラムダがなぐり、番兵はシータが後ろから蹴り倒した。
五人が牢から出てきた後で、タウが気を失った給仕を牢内に押し込む。だらしなくのびている給仕と番兵から奪った護符を手に、イオタがあきれ顔で言い捨てた。
「こんな単純な手に引っかかるとは思わなかったわ」
「油断したんだろう。何と言っても、俺たちは抵抗できない子供だからな」
ラムダがにやりとしてシータを見た。
「しかしお前、やりすぎだぞ。笑いをこらえるのが大変だったんだからな」
「あれくらいしないと、中まで入ってきそうになかったじゃない」
反論するシータの横で、ミューがファイをふり返った。
「ファイ、解除できそう?」
「そんなに複雑じゃないから大丈夫」
武器を囲む法陣をじっと見つめていたファイの心強い言葉に、五人はほっとした表情になった。
「それじゃあ、俺たちは外のもう一人を片づけるとするか」
指を鳴らして気合を入れるラムダにタウとシータが同意し、三人が静かに扉の脇へ移動する。イオタは三人の援護をするべく『剣の法』の準備をし、ミューも『誘眠の法』を唱えるべく構えた。
「おーい、ちょっと来てくれ」
ラムダの呼びかけに「どうかしたのか?」と声が返ってくる。扉を開けた番兵をラムダが引っ張り込み、シータが扉を素早く閉め、タウが番兵の頭に渾身の一発をお見舞いした。前のめりにひざをついた番兵がそれでもまだ立ち上がろうとしたため、ミューが水の法術を口にする。無理やり眠気の淵に追いやられた番兵は、ついに床に倒れた。
番兵のふところをさぐって護符を取り出したラムダが、番兵を牢内まで引きずっていく。四人を収容したところでラムダが牢に鍵をかけるのと、ファイが法陣を破るのがほぼ同時だった。
六人はそれぞれの武器や杖を取り戻すと、手に入れた四つの護符を誰が持つか相談した。
「まずはファイだな。神法院を出た後にローを捜すには、風の神の使いが必要だ」
「それとシータ。お前は一番身軽だからうまく逃げられるだろう。ファイの護衛も頼む」
「ミューもいるわよ。もし途中で誰かがけがをしたら、脱出の可能性が低くなるもの」
残る一つはタウとイオタとラムダの間で押し付け合いになったが、結局タウが持つことになった。あと二つは逃げる間に奪えばいいだろうと。そして六人が部屋を出ようとした瞬間、扉が開かれた。
「おい、交替の時間だぞ」
入ってきた二人の番兵と六人は互いにかたまった。一呼吸おいて先に動いたのは番兵のほうだった。再び閉められた扉の向こうから鍵をかける音が響く。
「くそっ、これからというときにっ」
ラムダが扉に体当たりする。タウも一緒になって扉を押したが、鍵のかかった重い扉はびくともしない。
「どいて、二人ともっ」
イオタとファイが詠唱を始めたため、ラムダとタウ、シータとミューも扉から離れた。
放たれた炎と風が絡み合って扉を吹き飛ばす。黒こげになりながら外側へ倒れた扉に番兵の一人がはさまれ、もう一人は階段の途中で目を見開いて硬直していた。
「熱いっ、助けてくれっ」
熱をおびた扉の下でもがく番兵をタウが助け出してすぐ、イオタが杖で番兵の頭をなぐる。階段を走っていく番兵にはラムダが槍を投げた。ひざ裏に槍先が刺さり転んだ番兵にシータが飛びつく。見事な連携で手に入れた二つの護符はラムダとイオタに渡り、六人はタウを先頭に細い階段を一気に駆け上がった。
無事に廊下に出たところで、今度はビオス・マルキオー神官長とケノン・オーネー神官にぶつかった。六人の様子を見に行こうとしていたらしい。いきなり目の前に現れた六人に二人は呆然としたさまで口を開けていたが、六人が逃げたために、マルキオー神官長が「脱走者だ、捕まえろっ」と叫んだ。周囲を歩いていた神法士や院兵たちがぎょっとした顔でふり向く。逃げているのが子供だと知ってとまどったのか、彼らはすぐには動かなかったが、神官長が命令を繰り返すといっせいに捕獲に乗り出した。
「何と、罠が効かぬとは!?」
「おそらく護符を奪ったのでしょう」
廊下を駆け抜けていく六人に息をのむマルキオー神官長のそばで、オーネー神官が『枷の法』を唱えた。後ろを走っていたミューとシータに術がかかり足どめされる。そのすきに追手が六人に群がってきたが、イオタが自分たちを守るように炎の波をつくりあげ、その間にファイが『枷の法』を解き、タウたちが道を切り開いて包囲網を突破した。
「おのれっ、追え! 逃がすな!!」
怒鳴り散らすマルキオー神官長の背後から、低く静かな問いかけがあった。
「誰を逃がさぬというのだ?」
マルキオー神官長は肩をはね上げた。先に後ろをかえりみたオーネー神官の顔がみるみる青ざめていく。ゆっくりとふり返ったマルキオー神官長は、自分をにらみつける明るい青色の瞳に悲鳴をのみ込んだ。
「大神官様……」
くるぶしまで届くほどの白髪をゆらめかせ、クローマ・ヴィルギニス大神官はおもむろにマルキオー神官長に近づいた。その後ろをついてくるのは、孫でスクルプトーリス学院長のプレオン・ヴィルギニスと、ゲミノールム学院長のトウルバ・ヘリオトロープだ。
「わしが神法院史の編纂作業にかかりきりだった間に、ずいぶんと好き勝手してくれたようだな」
マルキオー神官長の後方で、彼らを追うなとあらたな命令が響く。大神官とともに編纂作業に取りかかっていた神官長の声だ。
「虹の森への道をひらこうとしている子供たちを害することは、国法で禁じられているはずだが」
マルキオー神官長は苦々しげにヘリオトロープをねめつけた。編纂作業のために神法院の最奥の間にこもっている大神官に会うには、神官長の許可が必要となっている。だが四人の神官長のうち、二人は編纂作業の手伝いで大神官に付き添い、一人は病に臥せっている。自分が取次ぎを認めないかぎり、ヘリオトロープがどれほどわめこうが、大神官に伝わることはないはずだった。
おそらくプレオンが大神官の孫という立場を利用して、緊急の用事だとおしかけたのだろう。もともとプレオンの強引さは神法院でもかなり有名だ。神官長の許可を取ってからという院兵の言葉を無視して乗り込んだに違いない。
学院生時代からヘリオトロープといがみあっていたプレオンが協力することはないと考えていたが、誤算だったようだ。
「確かに私はあの子供たちを『保護』しました。国家安泰と未来のために、虹の森へ行く可能性のある子供たちを守るのは我々の務めでございましょう。そこにいるヘリオトロープは私に不信感をもっているようですが、私は法に触れる行為をした覚えは毛頭ございません」
マルキオー神官長は両膝を折って大神官に深く頭を下げた。
「言いたいことはそれだけか? ならばよい。連れて行け」
大神官の冷ややかな言葉にマルキオー神官長ははっと顔を上げた。ばらばらと駆けてきた院兵に取り囲まれ、隣のオーネー神官は声もなく震えだした。
「お待ちくださいっ、私は国家のため、神法院のためにと……!!」
マルキオー神官長は抵抗したが、院兵はがっちりと両腕をつかんで放さない。
「大神官様は長年お仕えしてきた神官長である私よりも、下等学院の学院長ごときをお信じなさるのですか!?」
「少なくとも、この件に関してヘリオトロープが虚言をはくことはない。それにそなたには、ホラーン神官長の病についても嫌疑がかかっておる」
マルキオー神官長が答えるより先に、オーネー神官が手で顔を覆って助けを請うた。自分の本意ではなかった、マルキオー神官長におどされたのだと。
そのまま二人は引き立てられていき、周囲も徐々に静けさが戻りはじめた。大神官は窓の外に視線を投げ、笑った。
「おお、壁をよじ登るか。元気な子供たちだ」
ヘリオトロープ学院長も窓辺に寄った。見ると、ラムダに肩車をしてもらったシータがまず壁の上に乗り、続けてタウを引っ張り上げた。もう追捕の手はないので堂々と正門から出ていけばよいのに、彼らはまだそのことに気づいていないのか、周囲に警戒の目を向けている。それからシータとタウはイオタとミュー、ファイ、そしてラムダに手を貸し、ついに六人は壁の向こうに姿を消した。
「よもや神法院に逆らうとはな。ゲミノールム学院の教育方針を確認するためにも、一度視察に赴かねばならんな」
大神官は愉快そうに目を細めて、ヘリオトロープ学院長をかえりみた。
「おそらく、ロー・ケーティのもとへ行くのでしょう。彼らと会えば、あの子の記憶もきっと戻ると思います」
「思い出し薬を飲んでも効かなかったと聞いたが?」
「絆とはそういうものです。虹の森への道がひらくほどの結びつきなら」
「それほどのつながりを断たれるのは、胸をえぐられる思いであろうな」
ぼそりとつぶやいた大神官に、ヘリオトロープ学院長は深々と頭を下げた。
「このたびのご助力、心より感謝いたします」
「礼には及ばぬ。欲深い愚か者に神法院を任せていたせいで、あやうく同じ過ちを繰り返すところであった。本当はこやつを神官長の座に就けて監視させるつもりであったが、こやつはいまだにそなたとの勝負に燃えておるようだ」
大神官が孫をちらりと見て苦笑する。
「どうだ、この際、神官長への道を進むことを考えてみぬか? 虹の森がある以上、今後もビオスのような輩が出ぬとはかぎらぬ。そなたならば全力で阻止するであろう」
「ありがたいお言葉ですが、お断り申し上げます。私は大神官様へは恩義も尊敬の念もいだいておりますが、神法院に対する恨みだけは、生涯消えることはありません」
きっぱりと言い切るヘリオトロープ学院長に、大神官はわずかに眉根を寄せた。
「わしとていつもいつも力を貸せるわけではない。下等学院長の身分では神法院にあらがうにも限度があると、今回のことでわかったであろう。子供たちを守りたければ、より高い地位に就く必要があると思うが」
「わかっています。それでも私はゲミノールム学院にいたい。友人たちとの思い出の場所で、虹の森を目指す子供たちを見守っていきたいのです」
ヘリオトロープ学院長は胸の首飾りをにぎった。
「確信……が欲しいのかもしれません。私たちが虹の森を探そうとしたのは、悪いことではなかったのだと。虹の森に向かうことが、不幸につながるわけではないのだと」
亡き友の杖から抜き取った銀色の紋章石は、何度も触れているせいで薄汚れてしまっている。それでも決して手放そうとせず、今もまた大事に手の内に包むヘリオトロープ学院長を、プレオンは横目に見やるだけで何も言わなかった。
「そなたたちの旅も、まだ終わってはおらぬのだな」
六人が越えていった壁をもう一度瞳に映す大神官に、ヘリオトロープ学院長はかすかに微笑み、うなずいた。
もう走れない。全身で呼吸をしながら、ローは崩れかけた廃屋の庭へともぐり込んだ。
ヘオースに餌を買って帰ることに気をとられていたせいで、授業が終了するなり教室を飛び出そうとしたローはうっかりプラムにぶつかってしまったのだ。床に尻をついたプラムに慌てて手を差し出して起こしたが、気づいたときには遅かった。
ヘイズルがぎらついたまなざしで猛然と突っ込んできたので、ローは身の危険を感じて逃げたが、手下を総動員してヘイズルはローを追いかけた。何とか学院からは脱出できたものの、家の前はすでに見張られていて入れない。どうしようかとうろついては見つかって走るという繰り返しに、ローはすっかり疲れはてていた。
ふらふらとたどり着いた井戸に手をついて、大きく息を吐き出す。下をのぞくとそれほど深くはなく、水もなかった。滑車の縄は途中で切れたらしく、やけに短くなっている。
「こんなところにいたのか」
いやらしい笑い声が耳に触れ、ローはびくりと後ろをふり返った。廃屋へ向かって駆けようとしたが、先に行く手をふさがれる。仲間を率いてじわじわと迫ってくるヘイズルに、ローは井戸を背に唇をかんだ。
「そんなにこの井戸が好きなら、もう一度入れよ。とめたりはしないから」
「何のことだよ?」
まるで自分が前にも井戸に飛び込んだような言いかただ。むっとしたローの心を、ふと何かが刺激した。一瞬ぼうっとしたローのすきをヘイズルは見逃さなかった。あっと思ったときには、ローはヘイズルに押されていた。
とっさに滑車の縄をつかんだものの、急に重さのかかった滑車がぎしぎし鳴っている。縄は今にも切れそうだ。というより絶対に切れる。そして予想どおり縄はどんどん細くなり、ついにぶつりと切れて、ローは井戸の底へと転落した。
幸いけがらしいけがはしなかったが、ここから出るには助けがいる。ローが頭上をあおぐと、ヘイズルがにやついていた。
「残念だが、今度は助けはこないぞ。そうだな、今すぐ泣いてあやまれば、この僕が助けてやってもいい」
「誰がお前なんかの手を借りるものかっ」
ローが突っぱねると、ヘイズルの顔がゆがんだ。
「馬鹿が。だったらそこで一生過ごすんだな」
ヘイズルの姿と入れ違いに石がいくつか落ちてきた。腕で顔をかばったローが次に見上げたときには、もう誰ものぞいていなかった。
本当にヘイズルたちは行ってしまったらしい。ローが文句を吐き捨てたところで、鳥の鳴き声が聞こえた。
「ヘオース!? ここだっ、僕はここにいるっ、助けてくれっ」
翼を広げた鳥の影がさっと井戸の上をよぎった。影は何度か行ったり来たりしていたが、やがてどこかへ去っていってしまった。
取り残されたローは一気に不安に襲われた。よりによって、どうして人けのない廃屋などに逃げ込んだりしたのだろう。こんな井戸の中に誰かがいるなんて思うわけがない。せめて町の人が、自分がヘイズルたちに追われて庭へ入っていくのを目にしてくれていれば、助かる可能性はあるが。
「くそっ、どうすればいいんだ」
せまい場所に長くいると気が狂いそうになる。ローは怒りとあせりに周囲の壁を蹴りまくったが、石を積み上げた壁面はゆらぎもしない。と、土に埋もれていた一か所に足がずぼっとはまった。急いで土をかきわけると、そこだけ石がなく、横穴が開いていた。
水音がする。どこかにつながっているのか。身をかがめてのぞいてみると、通路らしきものが見えた。暗くてよくわからないが、どうやら地下水路のようだ。
うまくいけば地上に出られるかもしれない。少なくともここでじっとしているよりはましだ。四つんばいになって穴を抜けたローは立ち上がって服の汚れを払うと、壁づたいにゆっくりと歩きはじめた。
明かりがないので周りの状況が全然わからない。足元に注意しながら慎重に進むせいで疲れも倍増した。だがローは歩くのをやめなかった。
自分は一度来たことがある。なぜかそう思えた。もしかしたらなくした思い出のかけらがここにあるのではないかという期待が、胸の内に広がった。
それからどれくらい歩いただろう。気がつくと、ローは広い場所に出ていた。だいぶ目が慣れたおかげで、暗がりの中に石碑のようなものを見つけ、のろのろと近づく。
「我、ここに眠る……」
記されていた文字を指でなぞった瞬間、半透明の鳥と大蛇の姿が脳裏で二度三度点滅し、頭痛が走った。
「ヴェルベナ? どうしてこんなときにあいつのことが……」
錆色の髪をかきあげる。冷たいものがのどを通り過ぎた。
違う。自分はあの人なつっこい大蛇とここにいたのだ。そして誰かを待っていた。でも、誰を――?
ローは闇に包まれた部屋の奥を見やった。行かなければと、強い思いにせかされる。この先に何かがある。速まる鼓動をそのままにローは石碑から離れると、奥へ向かった。
つと、かたいものを踏んだ。腰を落として床をまさぐったローの指に、冷たい鉄の感触が伝わる。手に取って形を確認してみると、どうやら鍵のようだ。だがなぜか溶けたようにでこぼこしている。
“何かいる”
ローははっとしてふり返り、それが自分の記憶の中の声であることにほっとした。
警告の声には聞き覚えがあった。ヘオースのことを自分に頼んだ『ファイ』だ。ということは、やはり自分は彼らと一緒にここへ来たのだ。ローはさらに手さぐりで周囲を確かめ、すぐ目の前に扉があることに気づいた。
「風は我、炎は水面の己にして、大地と水は傍観者なり」
扉に刻まれた古代文字を指で読む。
“扉に彫られているということは、この奥に関係しているのだろうか”
ちりちりとこめかみがうずく。思い切って扉を引っ張ると開いた。舞い上がる砂ぼこりに咳き込みながら、ローは鍵をふところへしまって中へと踏み入った。
扉の奥はかなり湿っていた。周りの岩壁が水滴をはらみ、あちこちで水の落ちる音が響いている。
やがて岩壁は少しずつ幅をせばめていき、最後には体を横にして通らなければ進めなくなった。
もしここで岩が崩れでもしたら生き埋めになる。しかし増していく不安を追いやるほどの激しい興奮が、ローを突き動かした。
急に眼前がひらけた。まるで地底湖があったような大きなくぼみが広がっている。そして三方には発光する三つの紋章石が台座に乗せられていた。一番手前にあるのは炎の紋章石で、右手には風の紋章石、対岸には水の紋章石がゆらゆらと輝いている。さらにその先には大地の紋章石がはめ込まれた扉があった。
“大地の紋章石だけをまず取って、扉にはめてくれないか”
炎の紋章石に触れようとしたローは指を引っ込めた。今のは自分の言葉だ。もう一度あたりを見回し、左手の何も置かれていない台座を目にとめる。
“かまうもんか、俺が行く”
“やめて――! あんなにたくさん鰐がいるのよっ”
鰐……そうだ、そこらじゅうに獰猛な生き物がうごめいていたのだ。そんな危険な水の中を誰かが泳いで渡ろうとしていた。
少女がとめようとした相手の名前が出てこない。
“――に俺の命を預けるから”
知っているのに。自分は彼らを知っているのに。
水のひいた地底湖に下りたローは、地面の感触を確かめるようにしっかりと踏んで歩いた。そして対岸に上がり、鍵のかかっていない扉を慎重に開ける。
そこには巨大な広間が存在していた。自発性の光苔のおかげで視界は明るい。周囲を見回したローの瞳に、岩山を登る少女の幻が映った。
“私が行く。私なら二人より軽いし”
そう言って自ら役を担ったのは……。
“ロー、本当に忘れたの!?”
濃紺色の髪の少女の叫びが瞬間、ローの脳裏ではじけた。
「……シータ……?」
つぶやいたローは、大蜘蛛が岩を下ってくるのを見た。
“だめだ、イオタ!”
炎の法術を唱えはじめたイオタを自分はとめた。なぜなら、ここでは炎の法術は――。
“要害を司りし大地の女神サルム。女王の眷属たる我と我に与する者たちに、磐石の大盾を!!”
風ではなく大地の法術で全員を守ったのは、ファイ。
そして襲いくる大蜘蛛から逃れようと、横穴に逃げて……ローは広間の端のほうに残る大穴へとふらふら近づいた。のぞいてみると、縄のような白いものが垂れている。広間の下には、横長の空洞があったのだ。
いや、縄ではない。これは。
“蜘蛛の糸だな”
ため息まじりに答えたのは、ラムダだ。
そしてローは息をのんだ。大穴の奥に何かがうずくまっている。
眠るように死んでいたそれが巨大な蜘蛛だとわかったとたん、最後の衝撃がきた。
冠――そう、風王の冠だ。冒険者の集いの課題をこなす目的で、自分たちはここへ来た。
「……シータ、イオタ……ファイ、ラムダ、タウ、ミュー」
一つ名前を口にするたび、散っていた記憶という記憶が再び結びつき、押し寄せてくる。
ああ、とローは胸元をつかんだ。
「僕は……」
みんなを助けたくて。最後の玉をこの手につかみたくて、一人でレオニス火山へ登ったのだ。その後のことは父から聞いた。火の馬にはね飛ばされて『忘却の燻し岩』に落ち、仲間のことをすっかり忘れてしまった。
ローはその場にへたり込んだ。
こんなにも……こんなにも大事なことを、なぜ記憶から消してしまったのだろう。自分の中で一番大きな割合を占める思いだったのに。
「ごめん……みんな、ごめん……」
こぼれた涙が口に入り、塩辛い味に嗚咽を漏らしたそのとき、半透明の鳥が広間にすうっと滑り込んできた。
「ロー!!」
続けて六人が駆け入ってくる。涙のあふれる目を見開いたローの肩をタウがつかんだ。
「無事か? けがはしていないか?」
「どうしてここに……」
「脱走した。なかな面白かったぞ」
ラムダがにやりと笑う横でシータが手を挙げた。
「私が突破口を開いたんだよ」
「ああ、シータの名演技、ローにも見せてやりたかったな」
「町に戻ってきたのはいいが、お前はまだ家に帰っていないというし。そしたらヘオースが飛んできて、北の廃屋まで俺たちを導いたんだ」
「まさかまた井戸に落ちるなんてな」
「私は二度とここへは入らないって言ったでしょ?」
口をとがらせるイオタの隣でミューが微笑んだ。
「でも今回は、ネズミは襲ってこなかったわね」
「全然気配が感じられなかった」
ファイが風の神の使いを元の世界へ帰しながら答える。
急ににぎやかになった広間で、ローは何と言っていいかわからなかった。黙り込んだままのローに、タウが首をかしげた。
「ロー、やはりどこか痛むんじゃないのか?」
「違うよ。けがはしていない」
ローはうつむいて唇をかんだ。
「どうして平気なの? 僕はみんなのことを覚えていなかったんだよ? みんなが捕まっている間、心配なんてこれっぽっちもしていなかったのに」
「だが今はもう思い出した。そうだろう?」
ローはうなずいた。何度ぬぐっても涙がとまらない。
「僕、玉が欲しかったんだ。玉さえあれば、みんなの仲間だって堂々と言えるから。市長の息子だから仲間になれたんだなんて言われなくてすむから……教養学科生だって冒険できるんだと証明したくて。だからどうしても、少しでも早く玉が欲しかった。でも失敗した」
玉を手に入れるどころか、あやうく仲間と永遠に離れ離れになるところだったのだ。
本当に大事なのは玉ではないのに。みんながいなければ、玉なんて意味がないのに。
「俺たちにも責任がある。お前の気持ちも考えないで、はしゃぎすぎていた。だがロー、俺たちも一人では何もできない。武器を振るえても、法術を使えても、一人だけでは戦えないんだ」
タウの言葉にローは顔を上げた。
「玉が現れたのだって、みんなの力を借りた結果だ。一人で行動して玉を得た者は誰もいない。みんながいたから、俺たちは玉を手にすることができたんだ」
「お前が市長の息子かどうかなんて関係ない。教養学科生だからなんてどうでもいいだろうが。お前がいたからファイとシータを仲間にできたんだぞ」
「ラムダの言うとおりだ。ローがいなければ、この七人はそろわなかった。そんな大切な役をはたしたローが俺たちの仲間でないはずがない」
タウはローの手を取って立たせると広間を見回した。
「シータが正式に仲間入りして、俺たち七人の冒険はここから始まった。そしてまだ冒険は終わっていない」
ローを正面から見据え、タウははっきりと口にした。
「俺たちみんなで虹の森へ行くんだ」
ローは目をみはり、六人を順番に見た。
行きたい。みんなと一緒に夢をかなえたい。玉のことばかり考えていたせいで見失いかけていた願いを、ローは今あらためて強く望んだ。
乾きかけていた目元がまた潤み、こらえようとにぎったこぶしに違和感を覚える。ローはそろそろとこぶしを胸の前で開いた。
暗青色の玉が、てのひらの上で淡い光を放っていた。
「やった! 玉だよ、ローの玉っ」
シータがローの腕をつかんで揺さぶる。おめでとう、やったなと口々に祝福され、ローは泣き笑いながらうなずいた。
そして七人はそれぞれの玉を見せた。とたん、谷にかかる縄の橋が頭の中に浮かんできた。
「カーフの谷だ」
ファイがつぶやく。そこに虹の森への入り口があるのか。七人は視線を交え、表情を引きしめた。
ついに道はひらいた。緊張、不安、期待がひしめきあう中、七人は虹の森へ向かうべく覚悟を決めた。