第344話 黄金の
あきらかに異質で不気味なビジュアル。圧倒的な存在感と影の薄さを併せ持つ謎の黒雲を前に、かつてないプレッシャーが一同を襲った。しかしこのような事態に見舞われながらも、佳果本人はなまじ冷静さを保っているように見える。
――アレが善悪無記であるとは到底おもえないが。差し当たり、メンバーのなかでも抜きん出た知識や経験をもつノーストとチャロ、人よりも進んでいる魂をもつ精霊のウーが一言も喋らずに対峙しているところから、おそらく今は“様子見”が正解なのだろう。その機微を感じ取った他の面々は、迂闊な手出しを避けて静観に徹した。
(……あの目が開かぬうちは安全圏。そうであったな、セレーネよ)
ふと、臨戦態勢で構えているノーストが心中でひとりごつ。その声を拾ったチャロとウーは、現状のどこに“一線”があるのかを認識した。
(なるほど、神々はすでにアレのデータを持っていると。わたしは今この瞬間まで、阿岸佳果があんなものを抱えていたことなど知らなかったというのに……いえ、正しくは伏せられていたというべきでしょうか。――天界にも、夕鈴にも)
かつて共に旅をしていた際、彼女はたびたび佳果の話を聞かせてくれた。彼のことを話しているときの夕鈴はとても穏やかで、朗らかで。まだ未熟だった当時の自分は、その幸せそうな表情を見て少しヤキモチを焼いてしまったのを覚えている。
それでも、親友の語る思い出の数々はどれもきらきらと輝いていて。独りよがりな嫉妬のせいで、それらの言葉を取りこぼしてしまうのは愚かだと思った。だから結局、毎回あまさず心に刻むようにしていた。――ゆえに、確信できることがある。
夕鈴は、あの黒雲に関する情報を一度たりとも仄めかしたことがない。さらに佳果の記憶が改ざんされていた事実、ご家族が全員亡くなっていた経緯についても、いっさい触れたことはなかった。
(小さい頃から彼のそばにいたあなたに限って、単に“知らなかったから”という理由はあり得ない。何よりも)
夕鈴はエピストロフで叶えたい「自身の願い」について、最期まで誰にも打ち明けなかった。自分はおろかフルーカにさえ、うまく躱して教えてくれなかったのを知っている。――もし、すべてが同じ理由によって故意に秘匿されていたのだとしたら? かの黒雲は、極めて複雑な立場に君臨していることになる。
(……不思議だなぁ。アレには魂がないのに、どうしてこんなに不安な気持ちが込み上げてくるんだろう。主様が事前に情報をくださらなかったということは、これがこの“正しい時”においても避けて通れない試練なのは間違いない。でも……)
いま起きている事態は、これまで誠神や魔神が振ってきた投機的な采配とはどこか違っているような気がしてならない。なぜなら上位存在とは常に那由多の因果を見越し、良くも悪くも実りある試練を世界に与えるものだからだ。ところがあの黒雲には、そうした「可能性」への配慮そのものが、まるで感じられない。
チャロと少し違う角度から違和感を咀嚼したウーは、最悪のケースを想像せざるを得なかった。
(あの目が開いて、もし吾輩たちが下手を打ってしまったらどうなるんだろう? そもそも、アレがいま顕現することで誰が得をして、誰が損をする? ……ううん、あるいはそれすらも門違いってところなのかな)
「佳果」
おのおのが思考の渦に飲み込まれているなか。一触即発の状況にあえて風穴を開けるかのごとく、ノーストが彼の名を呼んだ。佳果は額を覆っている右の掌の隙間から、返事の代わりに鋭い視線を送る。その瞳にはいつもの光が宿っておらず、代わりに激情の蒼き炎が揺らいでいた。
「……うぬは阿岸佳果。相違ないか」
「ああ……今のところはな」
「い、今のところって……!」
「――この手の覚醒イベントは、己の死生すら秤にかけると相場が決まっておる。もし御しきれぬようなら……友として容赦なく介入させてもらうからのう、佳果」
深刻な顔で“無茶するな”と訴えかける楓也とガウラ。佳果は二人のほうを眼球だけ動かして一瞥すると、抑揚のない低い声で返答した。
「大丈夫だ。……とは、さすがに言え切れねえか。どうやらこいつは、俺んなかで行き場を失っちまった厭世感を動力源にしてやがる。おそらくさっき記憶の改ざんを認識したからなんだろうが……俺の思考を乗っ取れねえか、今も虎視眈々と狙ってるぜ」
それは暗に、“気を抜いたらおしまいの極限状態である”という表明だった。語彙が変わり始めているところも含め、ヴェリスはこのままでは彼がどこか遠くに行ってしまう気がして、居ても立ってもいられなくなった。
「ダメ……ダメだよ佳果。そっちは違う!」
辛抱たまらず、黒雲へ手を伸ばすヴェリス。――不用意な刺激によって、アレがどんな反応を引き起こすかはわからない。正体不明の危険な相手である以上、その勇み足は悪手でしかなかった。しかし彼女の叫びに含まれている感情は形容しがたいほどに熾烈で、皆が一瞬、制止をためらうのに十分な痛嘆を帯びていた。
「!」
しかるに伸ばした手が届くことはなかったのは、彼女の行動をいち早く読み、より強い感情を持っていた者が割り入って、蛮勇を未遂に終わらせたからだ。それはこの事態を誰よりも疎んでいるはずの人物――シムルであった。
「シムル、なんで……」
「……おれも、兄ちゃんが苦しそうにしてるのは嫌だ。そんな宿命を大切な家族に強いてくる世界にも、ひとこと言ってやりたい気持ちはある。だけど……たぶん、こうならなきゃいけなかった。こうしないと、どうにもできなかったんだよ」
「……どういう、意味……?」
「――この瞬間、この時間軸、この因果律、この方法でしか払拭できない“黒”がある。兄ちゃんはそれをわかった上で今、本当の意味で前へ進むために、決死の覚悟で闘ってるんだ。だからここは……たとえお前の望みであっても、通してやるわけにはいかない」
「っ……」
「……もしものときは、一緒に問答無用で助けに入ろう。だからここは堪えてくれ……頼むヴェリス」
そう嘆願する彼の背中は、小刻みに揺れていた。その心中を察して瞳を潤ませるヴェリスの両隣に、アーリアと零子が寄り添う。彼らのやり取りを聞いていた佳果は依然、変わらぬ調子で言った。
「恩に着る。……二人とも、そこで見ていてくれ。こいつを使うのはあくまで“俺”だって、証明してみせるからよ。……都合のいいように利用なんざされてたまるか。わかったら、とっととよこしやがれ!」
瞬間、彼の頭と黒雲を繋いでいる糸のようなものに、光が走った。
(あれは佳果の神気――太陽神のエネルギーか)
(いえ、それだけではありません。あのあたたかい光は……)
見覚えのある黄金の粒子が舞っている。あれは佳果の固有スキル、サプレッションが発動した際に伴う金色のオーラだ。しかし彼に、スキル名を唱えた素振りはない。不審に思ったチャロは、すぐさま彼のパラメーターを参照する。案の定、攻撃力の上昇は見られなかった。代わりに――。
(!? 知力の表示が……)
奇天烈に文字化けしている。この手のバグは通常、システム側が採用しているコードと、要求された信号が噛み合わないことで発生する。だが以前、一部アスターソウルの運営に携わっていたチャロは知っていた。この世界はプレイヤーの魂に応じて、会話から文章に至るまで、最適な言語情報を“世界の光”における集合意識から自動で選択、ダウンロードして翻訳される仕組みになっていることを。
つまり原則として文字化けは起こり得ず、仮に起きたとしても、個々の単語は、必ず人類が認識できる羅列になっていて然るべきなのだ。ところが現在表示されているのは、彼女の叡智をもってしても解析不能、演算能力で割り出すこともかなわぬ未知の言語体系だった。そこから導き出される結論は――。
「……いつから、なのだろうな」
不意にそう呟いたノーストの顔を見て、さあと血の気が引いてゆくのを感じる。彼はすでに元神霊であることを自覚し、月の神と連携している節がある。だのに予想がつかぬのだとすれば――この状況を見越していたのは彼らよりも上の存在ということになる。しかしウーの思考にたがわず、この件に関しては誠神や魔神がおこなっている壮大な神策の一環とは考えづらい。ならば答えはひとつだ。
にわかに潜在的な敵対勢力の特定に至り、チャロは絞り出すように言った。
「阿岸佳果」
「……」
「絶対に負けてはなりません。あなたは今……人類の代表として、そこに立っているのです」
一気に色んなことがわかってきました。
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