第343話 フジョウ
「こ、こいつは……!」
「……やっぱり、この時代から関わっていたんだね……」
「!? 兄ちゃんたち、このおっさんが誰か知ってるの!?」
暗闇のなか、千歳と対峙している白衣の人物。先の追体験において、シムルはこの男の正体と足取りを掴みきれぬままだった。非常に危険な相手なのは間違いないため、実は後ほど独自に再調査を進めようと考えていたのだが――どうやら兄たちは素性を知っているようだ。佳果は険しい表情で男を射すくめながら言った。
「そうか。俺たち以外は、顔を知らねえもんな……」
「……この御仁こそ。わしらの元担任教師にして、佳果を骨の髄まで苦しめた張本人――依帖先生じゃよ」
刹那、彼が“浄化の光”と呼んでいた青白いものが千歳を包み込んだ。その凄まじい狂気に、チャロとノーストは思わず顔をしかめる。
「この歪なエネルギー……」
「ああ、魔神のちからで間違いあるまい。それも……山の荒振神だ」
「! それって、あたしと昌弥を襲ってきたのと同じ……!?」
熊本にて遭遇した魔神――あれも元は山の神だった。山の神は神格が高く、強大なちからを持っている。あのときはムンディが介入してくれなければ、おそらく全滅していたことだろう。そのような存在と同等の脅威から“浄化の光”を授かり、自身を媒介として他者へ受け渡すなど、どう考えてもまともな人間ができる芸当ではない。
『さあ、大学病院に戻ってください』
それを証明するかのごとく、彼は千歳に怪しい薬をチラつかせると、和歩の転院手続きを誘導したのち、まもなく行方をくらましてしまった。結果、和歩は幼くして望まぬ霊感を開花させられ、やがて生命エネルギーに異常をきたして再起不能の昏睡状態に陥る。その看病へやってきたはずの千歳は、あろうことか息子を手にかける凶行に及んだ。
『悪く思うな。これが最善である』
「なっ……おい、やめろよ母さん……!!」
過去の映像だとはわかっていても、身体が反射的に動いてしまう。和歩の首を絞め上げる母を止めようと飛び入る佳果であったが、お互いの身体が透けて触れることはできない。弟は見る見るうちに痩せ細り、白髪と化してゆく。斯様な非道を泣きながら笑顔で働く母の姿は、あまりに凄惨で直視できなかった。
「クッ……ソがぁ……!」
激しい怒りと悲しみでガタガタと打ち震える佳果。それでも歯を食いしばって母の背後を確認すると、先ほどの“浄化の光”と同じ色をしたエネルギー体――魔神が出現している。
《ここで足掻けば、沐雨は長引くのみぞ》
魔神は意味不明な発言で抵抗を示したが、太陽神の神気を解放した千歳が己の“器”を修復したことで干渉は遮断、どこかへと強制送還されてゆく。いっぽう愛の全放出をおこなった千歳は生命エネルギーが尽き果て、容姿の回復した和歩とともにまもなく霊界へ旅立つ。――最期に母が心でささやいた言霊は、佳果の魂をかき乱すのに十分な慈愛を帯びていた。
『……あとはあなたの心次第。こんなお母さんでごめんね……でも、きっと上手くいくって信じてる。なんたって、わたしとあの人の息子だもの。……世界のこと、頼んだからね。佳果』
◇
壮絶な“真実”を前に、力なく膝から崩れ落ちる佳果。
京都のときと同じ、大きな喪失感が彼の全身を蝕んでゆく。
(……あいつが言ってたことは……本当だったっていうのか……)
あの折、依帖は弟の死因が医療ミスでなく、“新薬の実験”であると言っていた。当時は頭が真っ白で何も考えられなかったが――事件後、たびたびその言葉を思い返しては、「与太話だ」と思いつつも「何か裏があったのかもしれない」と眠れぬ夜を過ごすことがあった。その憂慮に、よもやこのようなかたちで終止符が打たれようとは。
(……だが、あいつは嘘もついていた。母さんは和歩のあとを追ったわけじゃねえ。……俺を、置いてけぼりにしたわけでもなかった)
むしろ、母は何らかの使命を果たすべく未来へ希望を託して帰らぬ人となった。――その事実が、佳果に一縷の光と一抹の闇をいっぺんにもたらす。
「俺は今まで……こんな大事なことを……何もかも忘れて……“考える”こともせずに……」
「阿岸君、大丈夫……!?」
「ひどい顔色です……楓也さん!」
零子の目配せにうなずく楓也。魔道士二人が片端から回復魔法をかけてゆくさなか、ヴェリスは佳果の前でかがみ、彼の頬を両手で包みこんだ。
「――佳果、わたしがいるよ。シムルがいるよ。ナノとゼイアもいるよ。みんながいるよ。だから落ち着いて。ゆっくり息を吸って」
「……」
震えていた佳果はおもむろに顔を上げた。
――彼女の瞳に、夕鈴と同じ晴天が垣間見える。
刹那、彼の心は軽く、そして重くなった。
「……すまねえ、ありがとう。だがヴェリス……どうやら今の俺に、“逃げる”って選択肢はねえみたいだ」
「え……?」
「佳果、それはどういう意味じゃ」
「……俺さ、苦手なんだよ。苦手だと思ってたんだよ。苦手だと思わなけりゃ……何かが壊れるって、心のどっかでずっと感じてた」
(佳果さん……?)
「だからクイスの……あのダクシスとかいう奴が、見透かしたように言ってきたのは正直気味が悪かったな。……俺が聡い? んなことあるわけがねえ。俺は子どもの頃から腫れ物で、素行不良で――勉強なんざ碌にしてこなかった、ただの落伍者なんだからよ」
「……ノースト」
「ああ」
小声で合図するチャロに、静かに「心得ている」と返すノースト。しかし、彼のこめかみには冷や汗が伝っていた。そんな尋常でない二人のやり取りを聞き、シムルは心拍数を上げながら思考を巡らせる。
(……おれも兄ちゃんも、あの日神社で起きたことを忘れていた。それはたぶん“黒い光”が原因で間違いない。でも……そこから先に起こったこと。おれと母ちゃんが死んだ本当の理由や、背後にあの依帖や西沖っておっさんたちがいたことについては、別の――)
そこまで思い至り、ふと気づく。兄の顔に近い空間が、得体の知れない不気味さを醸しているのだ。このまま静観していれば、何かとても不吉なことが起きるような予感がする。ただ、もしそれが膿の類なのだとしたら。ここは怖気づかず、出し尽くしてしまったほうがよいのかもしれない。なぜならそれを成し遂げる上で、このメンバーは考えうる限り最強の布陣なのだから。
(兄ちゃん……どうやら、正念場みたいだよ。おれは、おれが死んだあとの兄ちゃんをあまり知らない。でも……教えてくれないだけで、きっと想像を絶するような辛いことがたくさんあったんだと思う。そんなとき、近くで支えてあげられなかったことが本当に悔しい。けど……今は違う。こうしてちゃんと傍にいられてる。みんなと一緒に、何があっても全霊で受け止める覚悟ができてる。だから――兄ちゃん!)
シムルの心の叫びに呼応するかのように、佳果は鬼気迫る表情でつぶやいた。
「だが、いっそ認めちまうってのも一つの手だったんだろう。そうすりゃ、見えてくるもんがある。……そうしなけりゃ、見えてこないもんがある。さっきの記憶みてえにな」
ゆらりと立ち上がった佳果は、闇の空間を数歩すすんでから皆のほうへ振り返る。
「センコー、西沖会、魔神、黒い光。母さんが記憶を失った理由。父さんが帰って来なかった理由。和歩とこっちで再会した理由。――今、俺がここにいる理由。夕鈴がいない理由」
ひとつひとつの理不尽を、噛み締めるように言葉にする。その様子を皆が固唾をのんで見守るなか、彼はやや上を向き、額を右の掌で覆った。
「ぜんぶ解き明かすにはまだピースが足らねえ。――だから、よこせよ。そうでなけりゃ……俺がみんなと一緒に居ていい道理なんざ、どこにもねえんだ」
佳果が啖呵を切ると、呼応して透明な“何か”が出現する。彼の頭部と重なっていたそれは糸を引きながら次第に上昇し、やがて頭上で輪郭を帯びた。皺くちゃの脳に酷似した黒い雲。中心部には、瞼のようなものが確認できる。
佳果に施されていた封印が解けつつあります。
夕鈴や雨知夫妻の心奥やいかに。
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