第334話 アストラル
「ほ、本当ですか!」
念願の零気纏繞を目前にひかえ、シムルの胸が高鳴る。明虎の話では、もし会得が叶えば副次的に念動力などが使えるようになり、いよいよフィラクタリウム普及計画の完遂が視野に入る。
『ただし、その境地に至るためには他の器についても理解しておく必要がある。なぜなら零気を纏うのはエーテル体でもなければ、今の汝でもないからだ』
(今のおれ……)
自らの身体を確認するシムル。アスターソウルの住人である彼にとって、この身体は己を己たらしめている絶対的な器である。しかし、容姿を変化させるアイテム――零子から教わった“おしゃれ着”を装備すれば、年齢や背格好すら有耶無耶にできてしまう点で、些か自己同一性に欠けているともいえる。感覚は肉体に近いものの、おそらく別の何か、ということなのだろう。
(そういえば陽だまりの風として初めて依頼を受けたとき、鳥に変身したウーが“厳密には肉体じゃない”って兄ちゃんたちと話してたっけ。ヒュレーともエーテルとも違うなら、いったい……)
今しがた零気を纏える器でないと言われた以上、あまり深く考えなくて良いのかもしれない。ただ、ここまでクルシェが語った内容に鑑みると、それぞれの器は相互関係にあると思われる。あらかじめ網羅しておいて損はないはずだ。
「みんなはこれを“アバター”と呼んでます。でも実際は違うんですね?」
『そのとおり。正しくは氛体、通称“アストラル体”という。この器は、先ほど話した止揚に使われる物質ではないほうのエネルギー。すなわち太陽光や月光に含まれている霊質エネルギーを吸収したり、例によって最上位から届く“指令”の受け皿を担っている。つまりエーテル体が請け負う実務を、斡旋している器と考えて構わない』
「なるほど……でも黒龍様、ひとつ疑問が。おれは普段、食事をとらないと腹ペコで倒れてしまいます。これはヒュレー体と同じで、食べ物から物質エネルギーを補給しているんじゃないかと思うんですが」
『汝やヴェリスのように、この世界の純然たる存在――NPCの性質を兼ねる者には、そう感じられるかもしれない。しかしその一方で、通常のプレイヤーがいくら食べても満腹にならないことは、彼らと幾度となく食卓を囲んできた汝ならばよく知るところであろう』
(うーん、確かに兄ちゃんたちにとってはほとんど嗜好品だもんな。……純然たる存在か。やっぱりおれたちとプレイヤーは、根っこの部分で違ってるんだ)
ここにきて“特異点”がよぎる。この言葉はノーストの魔境入りを手伝った折、次元のはざまで邂逅した天使の発言で初めて認知した。当時はチャロの辿った悲しき運命、シンギュラリティ化の轍を踏む可能性がある者をそう呼ぶのだと思っていたが、暗黒神が影を潜めた現在、堅実に真のエピストロフを目指している陽だまりの風が、再びそのような事態に見舞われるとは考えづらい。
(だったら、おれもあいつもチャロ姉ちゃんも……実質的にはもう、ただのプレイヤーだ。でも肉体がなくて半分NPCってところは依然、変わらずにいて――)
“みんなと同じ世界で生きたい”という儚き願望を叶える手立ては講じられぬまま、SSⅩに至るべく全力で奔走している。
以前チャロは、真のエピストロフへの到達が夕鈴の救済に加えて、神々による何らかの計画を成就させると予測していたが。
「……アパダムーラとの決戦後、『アスターソウルを導いた先に“幸せ”がある』と禍津神様がおっしゃってました。もし、そこへ漕ぎ着けるためにおれたち特異点が在るんだとしたら、その使命や目的はどういったものなんでしょうか。そもそも、NPCが存在する理由も知りたいです」
『後者についてはすでにあの少女が答えを見つけているゆえ、ここでは割愛する。後ほど本人に尋ねてみなさい』
(! ヴェリスが……)
『前者については……たいへん申し訳ないが、訳あってまだ詳しく話せない。ただ、これだけは明言しておこう。正確にいえば、汝は特異点にあらず。本当の意味での特異点は、あの少女ただひとりだ』
「!?」
青天の霹靂がとどろく。だが動揺する反面、シムルは妙な納得感に包まれていた。奥底ではうっすら気づいていたのかもしれない。同じ境遇にありたいという一心で、見て見ぬふりをしてきた事実――ヴェリスがエリア移動とともに成長しているという、不可思議な現象の意味するところを。
『無論、シンギュラリティを経験した彼女や、こうして零気纏繞に挑んでいる汝もまた、極めて特別な存在といえる。しかし役割を明かすには如何せん機が熟していない。心苦しいが、どうか理解してほしい』
「……わかりました。思うところがないわけじゃないですけど、おれ、神様って“自然”だと捉えているんです。自然はいつだって、必要なものを必要なときに、必要な分だけ与えてくれる。だから今は……信じて待つことにします」
『かたじけない。……では、あらためて先の問いに答えよう。汝らがアストラル体で食事をとる意味。それは星魂における食べ物、ひいてはこの世界が何で構成されているのかを知ることで氷解する』
(構成……)
現実世界で、アスターソウルがゲーム上の仮想空間とされていることは聞き及んでいる。だがチャロ曰く、内実は4.5次元にある地球の星魂領域だ。それを成立させているなんらかの一意的な要素があり、かつこの世界の食べ物に物質エネルギーが含まれていないのだとすれば。
「消去法で、霊質エネルギーでしょうか?」
『いかにも。星魂世界の万物は押しなべて、“アストラル”という霊質によって賄われている。……察しのとおり、器の名称は纏ったエネルギーをそのまま冠している次第だ』
つまり、肉体ならヒュレー。空体ならエーテル。氛体ならアストラル。
ここだけ見れば単純明快である。だが――。
『アストラルは、物質世界で希ガスとされるキセノン、ヘリウム、クリプトン、アルゴンの混合物質が太陽光によって励起し、特殊なプラズマ状態に移行した4次元の霊質エネルギーを指す』
(うぬぬ……)
このように専門用語が出てくると途端に難しい。シムルは唸りながら未知の情報を咀嚼した。一応、クルシェが口頭の解説と並行して、概念を直接あたまに流し込むという文字どおりの“神業”をおこなってくれているおかげで、ギリギリ理解は追いついている。
『そしてエーテルと異なるのは、ヒュレー体が体内で合成する物質エネルギーに依存していない点。加えて、一度プラズマ状態に入ればあとは太陽光の供給のみで存続できる点だ。逆にいえば、アスターソウルは太陽ありきで成り立っている世界とも解釈できる』
(! だからいつもお昼みたいに晴れて……)
『またアストラルはそれ単独の場合、輝く半透明のガスが はためいているように視える。ところがエーテルと結びつくと、上位からの指令に応じて7つの層と色に分かれ、それぞれが固有の周波数で振動しながら相応の姿を象ってゆく。これこそがアストラル体であり、一般的に“オーラ”として認識される流動体に当たる』
クルシェによると、アスターソウルではアストラル体の表層にある視覚情報を書き換えることで、容姿をカスタマイズできる仕様になっているそうだ。
なお、石や水などの無生物はエーテルを纏っていないものの、“集合意識”を有している関係で指令自体は働いているらしく、アスターソウル内で物質に見えているものはすべて、彼らが“そう在りたい”と願う姿を、この世界の管理者が汲んでアストラルに投影しているのだという。
「つまり普段おれたちが触れている物はあくまで霊質に過ぎないと……。でもさっき、アストラルはエネルギーの性質上、太陽光だけで存続できると聞きました。ならどうして、“純然たる存在”は食べないと飢えてしまうのでしょう」
『太陽光で事足りるのは、アストラル単独に限られるからだ。ひとたびエーテルと結びついてアストラル体が形成されると、別途月光エネルギーも必要とするようになる。冒頭で双方のエネルギーを吸収する役割を持つと述べた背景にはこうした事情があった。なお、通常のプレイヤーはヒュレー体のほうで月光エネルギーを摂取しているため問題ないが……』
「それを持っていないおれたちの場合、食事で補う必要があるわけですね。しかしそうなりますと、アスターソウルの食べ物には……」
『うむ。実のところ、管理者のひとりに月の神がいてな。アストラルに“集合意識”を投影する際、彼の神気が宿っているといえば、もろもろ腑に落ちるであろう』
(やっぱり!)
月の神とはおそらく、初めて神気纏繞したときに会話した、あの穏やかな口調の存在を指すのだろう。どうやらこの世界は想像以上に多くの神々が関与しているらしい。
今まで不透明だったところが鮮明になり、シムルは一気に視野がひらけるような心地がした。
「……アスターソウルや器のこと、だんだんわかってきました。一番の目的は零気纏繞ですけど、こういう知識は他にもいろいろ活かせると思います。目からウロコです!」
『ふふ、存分に活用するとよい。ちなみに、後回しにしていたヒュレー体の遺伝についてこのタイミングで補足しておこう。遺伝は親からの物質的な継承が約90%を占めるわけだが……残りの約10%は本人のアストラル体を因子とした霊的な継承となる』
「本人のアストラル体? じゃあ、物質以外の特徴って父ちゃんや母ちゃんには似ないんですか?」
『誕生後、教育などの采配によって似通うところはある。だが他者の霊性が直接、寄与されることはあり得ない。なぜならアストラル体は徹頭徹尾、自己決定によって形成と成長を繰り返す器だからだ』
ここでいう“形成”とは、先ほど説明されたエーテルとアストラルの結合を指しているものと思われる。また“成長”の意味するところは、ずっとアストラル体で生きてきたシムルにとって容易に想像できた。
(SSの上昇――エリア移動のことだよな。けど、それらを自分の選択で繰り返すってなると)
にわかに、関連する二つのワードが脳裏に浮かぶ。
それらをよく確かめるように、彼は小さく呟いた。
「自由意志……転生……」
『……無事、至ったようだな。命の法則に』
瞬間、足元の魄がボフンと隆起し、はずみで小さく宙に投げ出されるシムル。彼はそのまま重力から解放され、周囲に漂っていた粒子がすべて、微動だにしなくなる様を観測した。これは追体験にて、在りし日の兄や母を俯瞰していた“意識体”と同じ状態。時間と空間に縛られない、極めて自由な己である。
『――汝が意識体と認識していたそれは、精神体。“メンタル体”と呼ばれる四つ目の器だ』
更新が遅れてしまってすみません。
直近は仕事などプライベートが忙しい状況でしたが
ぼちぼち落ち着いてきています。