第331話 まだ見ぬ未来で
「――」
ハッと我に返る夕鈴。一瞬、時が止まっていたような気がする。その須臾にどのくらいの幅があり、己の深淵にて何が起こったのかは定かでないが。全身から立ちのぼる金色のオーラを見るに、どうやら“引き出し”は成就したようだ。
(これが、神気……)
生まれて初めて観測した不可思議なそれは、あまりに美しく、清廉で荘厳な輝きを放っていた。火のゆらめきに似た“現象”の類とでも形容すべきだろうか。見つめるほどに深い安らぎと高揚感が押し寄せ、否が応でも心が奮い立つ。
これならば佳果を取り戻せるかもしれない――そう思っていると、電話口から『準備完了だよ』という声が聞こえた。彼女は引き締まった表情で応答する。
「……ありがとうございます。わたし、なんだか勇気りんりんな気分です」
『ふっ、感謝するのはむしろあたしらの方さ。おかげさまで諸々、時間的な余裕が生まれたからね』
(……?)
『さておき、お嬢ちゃん。火急であんたに伝えることが二つある。一度しか言えないから、心して聞くように』
「!」
含みのある言い回しに、差し迫った語り口調。彼女ほどの傑物がこのような前置きをするということは、相応に喫緊の内容であると推し量るべきだろう。
にわかに気後れする夕鈴であったが、神気による鼓舞は、日和見の思考すらも容易く霧散させてゆく。代わりに台頭したのは、「受けて立ちましょう」と勇む心の声だった。
「……承知しました。お願いします」
『よろしい。では、まず一つ目。……あんたはこれから自分が為す所業に対し、一切の疑問を持つ必要はない』
(疑問……)
『そして二つ目。このさき何があったとしても――あんたは、あんたと坊やの未来を信じて、前へ進み続けること。どうだい、できそうかい?』
寸陰の沈黙が訪れる。正直、いずれの忠告に関しても、言外の真意まで汲み取るのは難しそうだ。ここは引き続き、頭ではなく心の声に従うほかにあるまい。
ともすれば、二つ目の問いに対する答えは明白である。なぜなら二人の未来を信じて進み続けるという方針は、今までの彼女の生き方と寸分も違わぬから。
また、一つ目の問いについても特段悩む余地はなかろう。此度、佳果の救済は絶対条件。加えて、いま打てる手はこの“神気”に限られる。つまり後々どんな試練が待ち受けていようとも、そもそも肯定以外の選択肢など存在しないのだ。
ゆえに――。
「はい、できます。やってみせます」
『……いい気概だね。ならば、他に言うべきことは何もない。さあ、躊躇わずにお行き。あんたの想い、ありったけぶつけてやんな!』
こうして岬季の奇妙な激励に焚きつけられた夕鈴は、「いってまいります」と静かに宣言し、大きく深呼吸した。神気に意識を合わせると、自分でも不思議なくらい、これからどう動けばよいのかがわかる。
毅然と立ち上がる彼女を、小鉄は無言で頷いて見送った。
◇
(目を合わせないように……慎重に……)
ぐったりしている佳果の手足を目印に、ひたすら黒雲へと近づいてゆく夕鈴。刺すような視線をひしひしと感じるが、現状、目を逸らしている分には恙ない。
(……よかった。本当に、向こうからは何もしてこないみたい)
実際のところ、この静観が相手の習性によるものなのか、はたまた神気の牽制力に由来するものなのかは不明だ。もしかすると、今はたまたま波風が立っていないだけで、何かしらの不意を突かれてしまう可能性もある。
そうした懸念がよぎるたび、失敗の二文字が頭に浮かんで体が強張る。ただ、夕鈴にとって“彼を救えない”以上の恐怖は存在しなかった。勇み足にならぬよう細心の注意を払い、果敢に、そして着実に歩を進めてゆく。
(――よし、ここまで来れば)
やがて、辛くも佳果のそばへ漕ぎ着けた彼女は、軽く息をついて目を伏せる。ふと、床に落ちているナイフが視界に入った。
「……」
先ほど口論した際、佳果の紡いだ悲痛な言葉の数々がよみがえる。あれらは黒雲によって無理やり吐露させられたと考えられるが――そこに嘘偽りのない本心が混じっていたことは、あのときの表情を見れば一目瞭然だった。
瞳を潤ませ、くの字に曲がった彼の背中を見遣る夕鈴。いつもは大きく見えるそれが、今だけはやけに小さく感じられる。
「佳果」
名をつぶやき、そっと膝立ちになってそばへ寄る。
彼の頭部をやさしく包み込んだ彼女は、語りかけるように言った。
「あなたが生きる理由を見つけられないなら……わたしが一緒に探します。どこへでも行くし、いつだってそばにいるよ。……もしその道中で、世界があなたを否定したとしても。あなたが自分を否定し続けたとしても。あなたが佳果であるかぎり、この想いが消えることはありません。だからお願い……戻ってきて。カズくんや、千歳お母さんや、直幸お父さんが愛するあなたを――わたしが大好きなあなたを、どうかゆるしてあげて」
刹那、夕鈴の魂から湧き出た光が二人の体表を巡り、そのまま黒雲へ向かって流れ始めた。すると、かの“ひとつ目”は徐々にせり上がり、白目を剥いてゆっくりと閉じられてゆく。伸びていた糸は縮み、皺だらけだった本体はつるりとした質感に変化して、元の位置――佳果の脳へと回帰した。
伴って、神気を使い果たした夕鈴は彼とともに昏睡状態に陥ってしまう。
(……介入するなら今だね)
状況を霊視していた岬季が、遠隔で最後の仕上げをおこなう。彼女は佳果の魂に意識を溶け込ませ、先の神霊の指示を遵守し、堆積している記憶のうち“共犯者”に関する項目、ならびに家族が他殺された経緯、黒雲の仔細についての情報を呼び出せないようにした。
(これで坊やは、本来の在りかたを取り戻せるだろう。だが……)
次に目を覚ましたとき、ひどく歪められた現実を生きることになる。その隣に、夕鈴のような用心棒がいてくれるのはとても心強いが。
(……)
彼らの行く末を案じるほど、やる瀬ない宿命のビジョンが視えてくるようで胸が締めつけられる。岬季は憂いを帯びた複雑な声色で、珍しく弱音を吐いた。
『……小鉄、これは来たる終末の予兆なのかもしれない。老いさき短いとはいえ、あたしらも腹を括っておかないとね』
「ああ……しかし、岬季よ。俺はこの子らを見て少し安心している部分もある」
『安心?』
小鉄は「そうだ」と相槌を打つと、佳果と夕鈴の寝顔を交互に見て目を細めた。
「この星の未来はきっと、しかるべき者たちが守ってくれる。ゆえに我々は、彼らの歩く道を照らす手伝いに集中するとしよう。さすれば、いつか必ず辿り着ける。皆が笑う、あるべき世界に」
『……ふっ、なんだいそりゃ。年甲斐もない、ただの皮算用じゃないか』
「まあそう悲観するな。人は時として、絶望を語る叡智ではなく、希望を騙る凡知に救われる生き物。……愚直に研いだ爪はいずれ、不条理の喉元にすら届くかもしれんぞ?」
『やれやれ。あんたってやつは、どうしていつもこうお気楽体質なのかねぇ。昔からちーっとも変わりゃしない』
「ふふ、褒め言葉として受け取っておこう。……率直に言って、朽ちた老木の身に余る仕事なのは間違いない。だが同時に、人生の集大成としてこれにまさる還元の機会もあるまい? 俺はつくづく幸せ者だよ。晩節を迎えてなお、このような大役に抜擢していただける誉れ――お天道様の御心には、全霊で感謝を捧げねばな」
『ほう? ならついでに、あたしにもたっぷり捧げておくといい』
「……その心は?」
『あんたが幸せ者なんてのは、あたしを伴侶に選んだ時点でとっくに決まっていたことだからさ』
◇
――斯くて、事件はひとまずの終息を迎える。
あの後、気絶している院長らを縄で拘束した小鉄は、佳果と夕鈴を両脇に抱えて院長室をひそかに脱出。門下生らの協力も得つつ二人を移送、雨知道場にて保護した。そして佳果が持っていた違法薬物の証拠を携えて再び現場に戻り、残留していた警察らと接触。結果、ほどなくして南藤病院は告発されるに至った。
司法では、阿岸親子の死と特殊な違法薬物の因果関係が争点となり、どのような審判がなされるべきか議論は難航したものの、最終的に担当医が幇助犯、院長が正犯者として逮捕されるという、異例の刑事事件へと発展した。
このうち前者は薬の入れ替えを知らされていなかったが、後者は知った上で投与の指示を飛ばしており、此度の医療ミスが故意に引き起こされていたことがわかっている。ただし、動機については院長自身が黙秘し続けたため、真相はいまだ闇の中だ。
また、本事件の概要はメディアを通じて世間に公表されるも、“医療ミスで人が亡くなった事故を病院側が隠蔽した”という大筋に書き換えられ、違法薬物に関する情報は徹底的に伏せられた。なぜなら下手に流布した場合、さらなる凶悪犯罪を助長する可能性の高い、危険きわまりない特性を持っていたからである。
加えて、薬物の出どころと思われる背後の組織、黒幕と思われる人物の存在にも情報規制が敷かれ、真実は一部の関係者のみに共有された。それは今回捕まった院長が、かつて史上最悪と謳われた暴力団“西沖会”の筆頭――西沖会長の影武者である疑いが掛かっており、深追いするにはリスクが高すぎたこと。また事件による精神的ショックのせいか、記憶の欠如が見られる遺族の少年、阿岸佳果にこれ以上の負担を強いないようにするための、大人達からの配慮でもあった。
事件後、痛烈な非難の声が殺到した南藤病院は急速に衰退の一途を辿り、やがて閉鎖に追い込まれる運びとなった。現在廃墟と化しているかの病院は立入禁止の管理物件となり、一般人が寄りつくことはなくなっている。
なお、この手の現場は後日、無法者たちの手で踏み躙られるのが世の常であるが――不思議なことに、当該物件に限っては、破壊の痕跡やグラフィティアートといった悪てんごうが今日び、確認されていないという。
◇
「クク……」
とある町の片隅にて。事件の顛末が書かれたニュース記事を片手に、老獪な笑みを浮かべた男がひとり佇んでいる。
(やはり予防線は張っておくに限りますねぇ。それにしても、本当に残念ですよ依帖先生。まさか完成間近で、貴重な研究を投げ出してしまわれるとは……まあ、幸いデータは手元に残っていますし、あなたがそう出るならば、こちらも今後のために動くまでですが)
――千歳の死後、事件の黒幕である依帖稔之は唐突に姿を晦ました。彼の行方はこの男、西沖会長の情報網を以てしてもわからずじまいだった。すでに捜索は打ち切られ、一時的に築いていた利害関係も破棄している。
(……しかし執念深いあなたのことだ。いずれまた、心躍るような喜劇を見せてくれると私は信じていますよ。今からその日が待ち遠しいです……ククク……)
エゴせんの末路はすでにご存知のとおりです。
西沖会長との因縁は今後のエピソードで決着予定です。
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