第326話 探しもの
(佳果……)
心で彼の名を呼び、足早に院内の階段をのぼる夕鈴。
おばちゃんの話を整理すると、佳果は1時間以上も前にここへ到着している。“キレイな花束を抱えていて”との言から、誰かのお見舞いに来ていたものと思われるが――例によって受付が止まっていたため、勝手に内部へ侵入したらしい。
「……」
本当に、そうなのだろうか。彼は破天荒な一面もあれど、礼節を弁えている少年だ。「侵入を断行してまで会わなければならない人物がいた」と考えられなくもない。だが少なくとも、これまで彼をそばで見てきた夕鈴に、そのような人物の心当たりはなかった。
他にも気がかりはある。此度の失踪がでっち上げ”に起因している場合、見舞い目的というのがそもそも釈然としないのである。
(……もしかして、昨日今日でお世話になった人がいたのかな。その人が偶然、ここに入院していたとか……)
いずれにしろ、詳しい事情は本人に訊いてみなければわからない。目下、憶測による懸念は捨て置くべきだろう。おばちゃんの口ぶりから察するに、彼はまだ院内にいる。モタモタして行き違いにでもなったら、とんだお間抜けさんだ。
いったん思考を打ち切ることにした夕鈴は、無心で歩き続けた。
(あ……)
やがて、とある場所に到着する。
彼女の目には、見慣れた三桁の数字が映っていた。
403号室――ここは生前、和歩が入っていた病室である。
「……っ」
刹那、あの日の光景がよみがえった。ドアを開けた瞬間、肌にまとわりつく淀んだ空気。網戸からの風が揺らす、二つの斃れた髪。ちりちりとした痛みが、心臓から全身に燃え広がる感覚。手から滑り落ち、無機質な音を立てる贈り物。それを皮切りに、声にならぬ声を漏らした彼の横顔。凍りつく四肢を縺れさせながらも、目の前の現実を確かめざるを得ない、理不尽で抗えぬ情動。
「…………はぁ……はぁ……」
先刻、病院の入り口に立った時とは比べものにならないほど鮮烈なフラッシュバックが襲う。相応の覚悟は決めてきたつもりだったが、トラウマとは付け焼き刃で斬り伏せられるものではないらしい。足がすくみ、鼓動が乱れ、血の気が引き、過呼吸になりかける。
(……それ……でも……)
彼女は諦めず、よろよろと病室の扉――シャトルドアのそばまで漕ぎ着けた。壁にそっと手をつき、一度息をすべて吐ききってから軽く吸い、また吐ききって、を繰り返す。こうして徐々に肺活量を戻してゆくと、辛うじて平静を取り戻すことができた。一瞬の出来事であったはずなのに、とても長い時間、悪夢に苛まれていたような気がする。
(わたしでこれなら、佳果はもっと……)
筆舌には尽くしがたい、精神的苦痛を味わう羽目になるだろう。彼がその恐怖に抗ってまで、この部屋を訪れたかは定かでない。ただ、夕鈴にはひとつ、出どころのわからぬ予感があった。それは「たとえ本人が居てもいなくても、ここには何か重要な手掛かりがある」という予感である。だから彼女は、魂を握り潰される覚悟で、こうして真っ先に403号室へ戻ってきたのだ。
「……きっと大丈夫」
そう小さくつぶやき、こめかみを伝う汗を拭いながら、恐る恐るシャトルドアに近づく夕鈴。この扉には縦長の小窓がついており、外から室内の様子を窺うことができる。
(……え?)
緊張の面持ちで小窓を覗き込むと、予想外の光景が目に入った。幸か不幸か、室内に佳果の姿はない。しかし、代わりに警察や鑑識と思われる大人が多数、そして白衣の男がひとり確認できた。その男は腕組みをしながら右足に体重をかけて立っており、かかとを軸につまさきをトントンと床へ打ちつけ、何やら悪態をついている模様である。
夕鈴は固唾を呑んで、聞き耳を立てた。
「――見ろ、影も形もないじゃないか。第一、ここは病院なんだぞ。万一あったところで、違法性など認められるわけがない」
「お言葉ですが、それは立会人の貴方ではなく、あくまで我々が判断することです。……余計な私語は慎んでいただけますか。捜査が滞りますので」
「余計だと? ……おい、図に乗るなよ。こちとら“無いものは無い”と最初から言っているんだ。それを無視して勝手に押しかけてきた挙げ句、好き放題に病室を掘っ返してるのはお宅らのほうだろう。こんなお粗末な捜査に付き合わされる私の身にもなってみろ。……まあ、無能な諸君にはできぬ相談かもしれんがね」
「……ご説明なら再三させていただきました。この部屋は先日の事件現場でもある。通報があった以上、調べぬわけにはまいりません。捜査に当たっては裁判所から正式に令状も出ています。……あまり騒がれますと、次は公務執行妨害と見なしますよ」
「ちっ……足元見やがって。これだから国家権力ってやつは」
非常に険悪なムードである。
しかしそれ以上に、夕鈴は彼らのやり取りが気になった。
(通報……? ば、爆発物でもあるのかな……)
嫌な想像が働く。彼女は気取られぬよう、そっとその場から離れた。お守りをぎゅっと握りしめ、廊下を小走りで駆け抜ける。何か取り返しのつかないことが起こるかもしれない。その前に、一刻もはやく佳果を見つけ出さなければ。
「きゃっ!」
さなか、別室から出てきた看護師と思われる人物と出会い頭にぶつかってしまった。彼は驚いた様子で、尻もちをついた少女に手を差し伸べる。
「おっとと、ごめんよ。……ってあれ? きみ、患者さんじゃないね」
「! す、すみません……えっと、その。わたしは……」
「……もしかして、勝手に入ってきちゃった?」
「うっ…………はい……ごめんなさい……」
しゅんと俯く夕鈴に、看護師は「ああ、いや」と頭を掻きながら苦笑した。
「別に謝らなくていいさ。むしろ、謝罪するのはこっちのほうだから。……長らくお待たせしてしまっていてごめんね」
「? あの……差し支えなければ教えていただきたいのですが。何か事件でもあったんでしょうか」
「うーん、事件かどうかはまだわからないんだけど……ちょっと立て込んでるのは事実かな。実は今、スタッフ総出で探しものをしている最中なんだ。そうするようにって、院長から指示があったものだから」
「探しもの……?」
「五角形の茶色い薬が入っている、緑色の小瓶なんだけどね。どうやら警察の人たちがそれを探しに来てるみたいで……ボクらはその捜査に、最優先で協力しないといけないんだって」
「お薬、ですか」
「そう。ただ、これがちっとも見つからなくて……うちでは扱ってない医薬品だから、外部から持ち込まれた可能性が高いとか。きみも、もし発見したら近くのスタッフに報告してもらっていいかな」
「わ、わかりました」
「ありがとう。……あ、でもアレだよ? ひょっとしたら危ないものかもしれないし、見つけても手に取ったりはしないでね。あと、ボクがきみにこの話をしたことはどうかご内密に。誰かに知られたら、たぶん怒られちゃうから」
「はい、気をつけます」
「よろしい。……さて、じゃあボクは失礼しようかな。もう限界だって院長に伝えなくちゃ……ええっと、確か今は403号室に……」
ぶつくさ言いながら去ってゆく看護師。どうやら、無断で入った件については見逃してくれるらしい。優しいお兄さんで助かった。
(――じゃなくて。403号室ってことは、さっきの白衣の人が院長さん? なら……)
あの横柄な言動からして、院長が警察に協力的でなかったことは明らかである。ともすれば、指示された“探しもの”とは彼の独断によるもので、スタッフたちは細かい事情を知らされておらず、何らかの思惑に加担させられている可能性も考えられる。
(いったい、何がどうなって……)
不明瞭な情況、不透明な先行き。まるでこちらの行く手を阻むかのごとく、直面する情報には押しなべて濃霧がかかっている。それが意味するところを想像するたび、夕鈴の胸に大きな不安が渦巻いてやまない。
(……佳果)
再び心でその名を呼んだ彼女は、いつしか新たな“予感”に支配されていた。
この院長は果たして……。
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