第321話 見知らぬ少年
『…………』
シムルによる前世の追体験。その過酷な顛末を見届けた黒龍クルシェは、やるせない表情で目を閉じた。
(……彼の意識はもうじきここへ戻ってくる。しかしその前に、改めてこの続きを確認しておくべきだろう。我々が現在どのような状況に置かれているのか――それを肝に銘じるためにも)
クルシェによる“神の視点”が、再び過去の因果律を捉えてゆく。
◇
小ぢんまりとした斎場のなか。大小ふたつの柩を前に、虚ろな瞳をした少年が佇んでいる。その痛ましい背中にかけるべき言葉が見つからず、幼馴染の少女は数メートル後ろで立ち尽くし、静かに泣いていた。
(佳果……)
――不治の奇病に侵され、意識不明となった息子の首を絞めて殺害。その後みずからも何らかの手段をもって窒息死し、心中を遂げた哀しき母親。現場に残されていた痕跡から、大人たちは阿岸家に起きた惨劇をそう結論づけたようだ。しかしたとえ天地がひっくり返ろうとも、斯様な馬鹿げた話、起こるはずがないのだ。
(病気が再発したから手にかけた? ……そんなわけない。千歳お母さんは、最初にカズくんが助からないって言われたときも諦めずに可能性を模索していた。強くて、優しくて……本当に家族思いの人だった。それなのに、佳果を独りぼっちにして居なくなっちゃうなんて……絶対に、絶対にあり得ないんだから……!)
ぎゅっと握りしめた拳が小刻みに震える。阿岸家の絆を間近で見てきた夕鈴にとって、今回の件はあまりにも荒唐無稽だった。にわかには信じがたいが、何者かが故意に仕組んだとしか考えられない。
だが両親にそう主張したところ、父は「お前の言うとおり、不自然なのはみんなわかっている。でも……現状それを裏付ける証拠がないそうなんだ」と目を伏せてしまった。つまり、大人たちでさえ太刀打ちできない巨大な闇が背後にあると考えて然るべきである。
(……いったい誰が、どうしてこんな…………ううん……わたしは今まで、なにを見て生きてきたの……)
虚偽と真実をすり替え、人を破滅させんとする悪意の存在。それが自分にとって最も大切な人たちを虐げたという現実。
「子どもだから」は言い訳にならない。佳果のそばにいながらこの運命の帰結を許してしまったのは、黒にまみれた大海を知らず、井の中にあり続けた己の卑小さが招いたことなのだから。
無力の感情に支配され、夕鈴は止めどなく涙を流した。
「――これだけですか」
不意に、白い口ひげを蓄えた喪服の老人がやってきて、奥にいる両親に小声で話しかけた。“これだけ”とはおそらく、この場の人数を差しているのだろう。無理からぬことだ。押垂夫妻と夕鈴、佳果を除けば、あとは葬儀屋のスタッフしか見当たらないのだから。
そのまま控え室に入ってゆく三者を見て、夕鈴はそっと後を追いかけた。ドアは開けっぱなしになっており、耳をそばだてれば会話が聞こえそうだ。
「あなたは、雨知道場の……」
「ええ、雨知小鉄と申します。……実は我が家と千歳さんには、ちょっとした縁がありましてね。家内はいま遠方にいる関係で来ることができなかったのですが、ならばせめて私だけでもということで、こうして馳せ参じた次第です」
「そうだったんですか……私どもは、阿岸さんの家の近所に住んでいる押垂と申します」
「千歳ちゃんや直幸くんとは、二人がまだ越してきたばかりの時からの付き合いでした。……二人ともすごく素敵な人で……歳の近い子どもがいたのもあって、日頃から懇意にしてくれていたんです。それが……直幸くんに続いて、まさかこんなことになるなんて……」
両手で顔を覆う夕鈴の母。小鉄は「……お気の毒さまです」と、悲しくもどこか安堵したような表情で返した。
(死因が死因なだけに、純粋に弔ってくれる参列者はいないやもしれぬと思っていたが……この夫妻や娘さんも、心から故人を悼んでいるのが伝わってくる。そこだけは不幸中の幸いか)
ちらりとドアのほうへ視線を向ける小鉄。
壁際から半分覗いていた夕鈴は、慌てて顔を引っ込めた。
「それで雨知さん。さっき受付で、施主を申し出たと伺ったのですが……一体どのような経緯で?」
「はい。今回の葬儀は本来、直幸殿が喪主を務めるのが通例です。しかしご存知のとおり、彼はいま行方不明の身。……そしてどうやら、阿岸家の親族方はこぞってご遺体の引き取りを拒否されているようで」
「! そ、そんな……なぜ……」
「……聞けば、直幸殿はまだ失踪宣告を受けられる時期に達していません。その関係で遺産相続などの手続きが宙ぶらりんになっており、各種引き継ぎが難しい状況になっているとか。加えて千歳さんは、過去に原因不明の全生活史健忘――重度の記憶喪失になった病歴があると発覚しています。……そんな二人の息子である和歩くんは、直近で生命を脅かすほどの奇病を患っていた」
「……」
「こうした尋常ならざる背景を聞いて、皆一様に尻込みしてしまったようですな。何より、此度のことは世間的に“事件”という括りにされています。触らぬ神に祟りなし……差し詰め、そういうことなのでしょう」
「……なんという……」
「学校などの公共機関についても、同様の理由から参列を見送ったものと思われます。……ともあれ、今回はやむを得ず佳果くんが喪主と相成りました。ですが、いかんせんあの子はまだ年端も行かぬ少年です。精神的にもこの苦境をひとりで乗り越えるのは困難でしょう。そこで私は家内と話し合い、施主を申し出ることにしました。前後にかかる諸費用についてはもちろん、今後は全面的に阿岸家の後ろ盾となる所存です」
右手の拳を胸に当て、凛と宣言する小鉄。
押垂夫妻は彼の澄んだ瞳に、一縷の希望を垣間見た。
「ありがとうございます……きっと千歳ちゃんも、雨知さんのようなお方が名乗り出てくださって、喜んでいると思います」
「微力ながら、私どももできる限りの協力はさせていただきます。必要なことがあれば、何でもお申し付けください」
「御心、痛み入ります。では以降の段取りについて、改めて確認を――」
打ち合わせが始まり、夕鈴はそっとその場を離れた。
改めて、この世が不条理で満たされていることを思い知らされた気がする。それでもなお、信用できる大人がいてくれる事実には救われるが。
(……でも……)
佳果の胸中は計り知れない。まだ中学にも上がらぬ身空で、家族全員を失うという悲劇。挙げ句、絶望の淵に差し伸べられるのは身内でなく、他人の手ばかりなのだ。
彼は今、どれほど明日を呪っているだろうか。
どれほど孤独に苛まれているのだろうか。
俯いたまま、とぼとぼとホールに戻る夕鈴。刹那、彼女は不注意にも、誰かの身体にドンとぶつかってしまった。
「っ! ご、ごめんなさ……」
「おいおい、ちゃんとマエ見ないと危ねえだろ?」
鼻を押さえながら、恐る恐る声の主を確認する。
すると、そこには見知らぬ少年が立っていた。
(え)
――否、彼は阿岸佳果その人だった。
ただ一瞬、誰だかわからなかったのである。
だって、彼はいつもと変わらぬ調子でニカッと笑っていたから。
「俺なら大丈夫だ、夕鈴」
「……」
「だからさ。そんなに泣くなよ」
ハンカチで涙を拭いてくる佳果。その笑顔があまりに歪で、儚くて。夕鈴はいよいよ、大声で泣いてしまった。
佳果の過去編です。
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