第320話 最善
(か、母ちゃん……くるしい……!)
声にならぬ声で叫ぶシムル。苦悶の表情で耐えていると、その痛みが伝わったのか、虚ろだった千歳の瞳に光が灯った。
「……えっ……」
覚えのない指先の感覚に驚いて、咄嗟に手を引っ込める。しかし涙を浮かべて咳き込む息子の様子を見るに、どうやらこれは夢でなく、現実に起こったことのようだ。
(わたし、いったい何を――)
「げほっ、げほっ」
「! 和歩、大丈夫!?」
慌ててベッドから下り、くの字に折れた小さな背中をトントンと叩く。すると徐々に落ち着いたのか、シムルはふうと一息ついて苦笑した。
「……もう。起こし方が乱暴だよ、お母さん」
「ご、ごめん……! 本当に、ごめんね……」
首筋の赤い痕を見て当惑する千歳。
対照的に、シムルの脳内は極めて冷静だった。
(尋常じゃない反応だ。まるで何かに操られていたような……)
まっさきに思い当たったのは、あの“浄化の光”。自分が薬で変えられてしまったのと同じく、母もまた何か得体のしれないものに蝕まれている可能性は大いにある。ただ、それも神社の男に問い質さぬ限り仔細を知る術はない。まずは院長に働きかけ、奴の居場所を突き止めなければ。
(……母ちゃんにはそろそろ、本当のことを話そうかと思っていたけど。下手に刺激したら、またさっきみたいな状態になるかもしれない……ここはいったん外に出てもらって、その隙に看護師さんへ取り次ぎを依頼してみるか)
十中八九、“西沖”の名を餌にすれば院長は釣れるはず。今夜サシで面会するように仕向け、情報を引き出してやろう。そうと決まれば善は急げである。
「お母さん、ボク喉カラカラ。冷たいものが飲みたいな」
「! わ、わかった……すぐ買ってくるから、ちょっと待っててね」
そう言って、わたわたと出ていく千歳。ここから最寄りの自動販売機までそこそこ距離があるのは、先日確認済みだ。母が心の整理をする時間をつくる意味でも、なかなかどうして良策だったかもしれない。
さておき、お次はナースコール。この病院は対応がやけに迅速で、ボタンを押せばすぐに誰かしらが駆けつけてくれる。今となっては、それがモルモットであるがゆえの“特権”だったと察しているが――使えるメリットは活用すべし。シムルは身体を起こしてボタンに手を伸ばした。
ドクン
瞬間、不快な脈動とともに視界がブレる。にわかに血の気が引き、恐るおそる窓際を見ると、案の定 飾られた花の上に既視感のある醜怪がゆっくりと浮かび上がってゆく。
「なっ……!!」
またあの悪夢が始まったのか? いや、落ち着け。仮にそうだとしても、これは霊感が視せている世界に過ぎない。ならば再び制御すればよいだけのこと――そう自分に言い聞かせ、シムルは己の生命エネルギ操作ーに集中した。だが顕在意識が優位の今、ゾーン状態を経由せずに霊感を抑えるのは至難の業であった。
(……ダメだ! 抑えられない!)
覚醒前とは異なる勝手に、焦燥が募る。その間にも、生理的に受け付けない腐敗臭が近づいてきて、彼はたまらずベッドから離脱した。ところが寝たきりだった肉体は弱っているようで、うまく力が入らない。ドアに辿り着く前に転倒し、そのまま意識を失いかける。
(くそ……こうしている今も、霊感は上がり続けてるってことか……? もしそうなら、潜在意識に戻っても次はコントロールできる保証なんて……)
想像するだけで心身が凍てつく。正直、あれ以上の狂気に耐えられる自信などない。もはやこれまでか――観念して目を閉じると、不意にドアが開く音がした。同時に、遠のいていた顕在意識が急激に呼び戻される。
「仕上げだ」
声の主は母だった。頼んだはずの飲み物は持っておらず、例によって優しい笑顔を引っ提げて、倒れているシムルの首を絞め上げる。
「がっ……」
「悪く思うな。これが最善である」
(ッ!?)
「いま楽にしてやろう」
シムルの瞳は、母の上に揺らめく何かを捉えていた。その悪しき波動を、制御不能となった霊感は水を得た魚のごとく吸い上げる。
「う……ぁ……(“おれ”が……消えて……)」
狂気が、己という存在を根底から塗り変えてゆく。自我崩壊を起こしたシムルは、顕在意識と潜在意識、その双方に致命的な損傷を負った。伴って、生命エネルギーの暴走に歯止めがきかなくなる。彼の精気は秩序を失い、怒涛の勢いで周囲の虚空に放散し始めた。
「……」
白目をむいて刻一刻と痩せ細り、髪が白く変化するシムル。壮絶な光景を前に無言で佇む千歳は、笑顔のまま涙を流していた。その不可解な現象を、背後の“何か”が察知する。
《……空の器から神気が湧出している。よもや、子の気に当てられエーテルごと修復されたとでも?》
彼女の魂はみるみるうちに輝きを増していった。
“何か”の居場所が圧迫されてゆく。
《この光――おのれ太陽神か。こちらの厚意を無碍に、なんたる小癪……ここで足掻けば、沐雨は長引くのみぞ。取り下げるなら今のうちだ》
しかしその警告は宙を舞い、“何か”はとうとう光に払拭されてしまう。代わりに台頭したのは千歳の自由意志であった。彼女はゆっくりと衰弱した息子をベッドに寝かせると、両手を組む。
(……思い出した。なにもかも。……だけど)
全ては遅すぎたようだ。
尽き果てようとする息子に対して、祈りの所作をおこなう千歳。
(稔之くん……わたしはきみを救えなかったのね。でも、今度だけは……!)
彼女の祈りは、自身の生命エネルギーを大きな光の珠へと変えた。
「スーリャ様、最期に格別の御慈悲を賜り、感謝いたします。ですが……これより愛の全放出をもって、わたしは天命に背きます。多大なる御恩を仇でかえす不徳……どうかお許しを」
意志の言霊が、光の珠と結合する。はずみで飛沫をあげた粒子は、遠く離れた佳果のもとへと飛んでいった。そしてシムルには珠そのものが授けられ、彼はたちまち元の姿を取り戻してゆく。
「……母……ちゃ……」
「大丈夫、お母さんが一緒だよ。“怖いもの”なんて、もう何もないの」
「……うん……」
不思議なことに、母の言葉は狂気にまつわる全ての記憶に蓋をし、痛みを溶かして、ぽかぽかと全霊を満たしていった。やがて、役目を終えた彼女の生命エネルギーは緩やかに天へと昇り、一筋の光の糸を形成する。
(……あとはあなたの心次第。こんなお母さんでごめんね……でも、きっと上手くいくって信じてる。なんたって、わたしとあの人の息子だもの。……世界のこと、頼んだからね。佳果)
目を閉じ、やわらかく微笑む千歳。
シムルも同じ、安らかな表情をしている。
(――でも、次はもうちょっとだけ普通に生きてみたいかなぁ……なんて。ダメでしょうか? ね……スーリャ様)
◇
「あいつ、どんなのなら喜ぶかな?」
その頃、下校した佳果と夕鈴は病院近くの雑貨屋に寄り道していた。
「カズくんは好奇心旺盛だからねえ。退院したあと、冒険ごっこの時に使えそうなものとかがいいかも?」
「それだとあいつへのプレゼントってよか、俺らで楽しむためのもんって意味が強くならないか」
「ふふ。あの子は優しいから、それが一番喜びそうだと思うけどなー」
「ん……まあ、一理あるか。しっかしマジで悔しいぜ。本当なら家で盛大に祝ってやるはずだったのによ」
「……そうだね」
絆創膏だらけになっている指を見つめて、残念そうに目を細める夕鈴。佳果はこの日のため、ひそかに彼女から料理を学んでいた。だが和歩は食事制限を受けているらしく、「退院するまではダメだよ」と先日担当医に釘を刺されてしまったのだ。
「……でも、今は回復に向かってくれているだけで十分じゃない。料理はカズくんが元気になったら、一緒に豪華なのを作ってあげよう? あ、そうそう。ちなみにわたしは特性のケーキを焼くつもりだから、佳果も楽しみにしててね♪」
「……ああ、サンキュ」
夕鈴の笑顔ほど励まされるものはない。確かにあの“奇跡”が起きなかったら、そもそも弟は病気の進行を食い止めることすらできなかったはずだ。母に転院を促したという謎の男――誰かは知らぬが、そいつにも目いっぱい感謝しなくては。
「え」
そう思った刹那のことであった。視界の端から、光の粒子がそよそよと流れてくる。それは彼の目の前でくるりと円を描くと、そのまま胸のなかへと消えていった。
(今のは……)
「佳果? どうしたの」
「え? いや、その……ちょっと立ちくらみがしたっつーか」
「ふーん……?」
少し違和感があったが、夕鈴はそれ以上詮索しなかった。佳果自身も、妙な予感こそあったものの、その場で深く気に留めることはなかった。
こうして誕生日プレゼントを選び終わった二人は、いつものごとくお見舞いに向かった。その先で待ち受けている運命が、世界の宿命を大きく動かすことになるのも知らずに。
たくさんの存在と思惑が入り乱れた回になりました。
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