第317話 秒読み段階
「ん……」
目を覚ましたシムルは上体を起こすと、まぶたを擦ってぼやける視界をクリアにした。すると見慣れぬ光景が広がっており、しばし呆然としてしまう。だが消毒液のような匂いが鼻をかすめたところで、徐々に現状を把握し始める。
(ここは……そうだ、新しい病院だ。ってことはあの薬、まさか本物だったのか……?)
――神社で謎の男と接触したあと。なぜか千歳は彼の指示に従い、淀みなく息子の転院手続きを済ませた。それはいかんせん性急な決断に見えたが、意識体のシムルが止める術はなく、和歩の肉体は翌日この病院へ運ばれることとなった。
そしてチューブを用いた方法により、例の薬を直接胃のなかに送り込まれたのが数時間前。まだ覚醒して間もないが、今のところ体調不良は感じない。細胞死とやらは止まってくれたのだろうか。
(妙な気分だ。身体は普通に動かせるし、病気特有の倦怠感もない。でも漠然とした不安感だけが残っている……これは薬の副作用なのか、それともあのおっさんの――)
「和歩!!」
不意にシャトルドアがひらき、顔をくしゃくしゃにした佳果がすっ飛んでくる。あとから入ってきた母と夕鈴も口元を手で覆い、安堵の涙を浮かべた。
「お、お兄ちゃん? お姉ちゃんに、お母さんも……」
「おまえ、昨日からずっと寝たきりだったんだぞ……! 俺、もう二度と会えないんじゃないかって……すんげえ心配して……」
「ぐすん……わたしも、倒れたって聞いた時からずっと生きた心地がしなかったの。よかった……目を覚ましてくれて……!」
「ええ、本当に……! ありがとう和歩、戻ってきてくれて」
「う、うん……?」
こうして兄たちが見舞いに来ているということは、精密検査の結果に異常はなかったとみえる。そこだけ汲めば万々歳なのだが――結局此度の病気やあの黒い光、謎の男と“浄化の光”の正体については不透明のままで、何も解決していない。浮かぬ表情をしているシムルに、三人ははっと顔を見合わせた。
「わ、わりぃ、起きたばかりなのにうるさくしちまって」
「ごめんねカズくん……」
「……お母さんたち、ちょっと先生とお話してくるから。和歩はそのまま安静にしていて」
「あ……わ、わかった」
正直、言うべきことはたくさんあったと思う。しかしあんなに晴れやかな笑顔で手を振られたら、その気も失せてしまうというものだ。まもなくドアが閉まり、病室にしんとした静寂がおとずれる。窓際に飾られている花を見つめながら、シムルは次に打つべき手を考えた。
(とにかく、今は謎の解明を優先しよう。そのためにも、まずはあのおっさんと会わないとな……たぶんあいつが、すべての鍵を握っているはずだ)
◇
転院してから数日が経った。ところが、依然として例の男には会えていない。なぜなら彼は外部の人間だったからだ。担当医から引き出した情報によれば、この病院の院長と懇意にしているそうだが、それ以外のことよくわからないとのことだった。また神出鬼没な御仁らしく、少なくともこの数日は現れていない。
(困ったな……これじゃコンタクトが取れないぞ)
なお、母に「ここならボクの病気が治してもらえるって、どうしてわかったの?」と遠回しに探りをいれたところ、「親切な人が紹介してくれたの」との返答があった。そこで「その人に恩返しがしたい」と提案してみたが、どうやら彼女も詳しい素性や連絡先を知らないようで、お礼を言いそびれたと憂いていた。
ベッドの上で腕を組み、この“追体験”の行く末を案じるシムル。
もう深夜だが、考え事をしているとなかなか寝付けないものだ。
(このまま退院したら手がかりも無くなって…………ん? ちょっと待てよ。そもそも退院なんてできるのか? 確か、おれが現実世界で死んだのって――)
そこまで思い至った瞬間だった。ドクンという衝撃が全身を駆けめぐり、彼はにわかに、視界の端でうごめく物体をとらえる。
「!?」
それはどう見ても魔獣であった。ただし、アスターソウルで見たどの魔獣よりも醜悪でおぞましい容姿をしており、鼻をつくような異臭を放っている。無防備をさらしていた彼は、悲鳴とともに跳ね起きた。
「う、うわぁ!!!」
「ボク、どうしたの!?」
部屋の入口から声が聞こえる。ナイスタイミング、おそらく定期的に巡回してくれているいつもの看護師さんであろう。「助かった!」と縋るように視線を向けると、そこには腐乱死体のような、人のかたちをした何かがこちらを睨みつけて立っていた。
「ッ……!」
絶句したシムルは、辛抱たまらずに駆け出す。なぜ魔獣が現実に? この世界での体験は、自分の魂の記憶をベースにつくられた“夢”のようなものであることはわかっている。だが常軌を逸した存在と遭遇したのは、これが初めてだ。
(なんなんだあいつら! くそっ……この身体はただの“肉体”だ……渡り合うなんて無謀すぎる!)
目下、できるのは逃げることだけ。夢中で廊下を走ってゆくと、その道中でも度々先ほどのような存在と出くわす。
「ヒッ……に、兄ちゃん、たすけ……」
そこまで言いかけて、「いや、ダメだダメだ!」と首を横に振る。まだ幼き兄を窮地に巻き込むなど言語道断。それ以前に、この時間帯に佳果たちがいるはずもなかろう。不甲斐ない思考回路が自己嫌悪を誘う。
「はぁ……はぁ……」
シムルは息を切らしながら魔獣のいない方向へと走り続けた。やがて、先が見えないほど長い廊下に出る。まばらにしか電気が点灯しておらず、奥がどうなっているのか視認できないが、それでも他に退路はなかった。
なんとか逃げおおせようと、小さな歩幅で果敢に進む。途中、この廊下が永遠に続いているかのような錯覚をおぼえた。薄暗い同じ景色がどこまでも続き、その無変化が、恐怖心をより強いものへと押し上げてゆく。
(幼児の身体だからか……? 怖いって気持ちがどんどん大きくなって……うう、気持ち悪くなってきた……身体の震えも止まらない……)
不調を自覚した途端、足がうまく動かせなくなり、もつれるように転倒してしまう。そして急激に視界はチカチカ光り、血の気が引いて失神するような感覚が襲ってくる。このままでは奴らに追いつかれてしまう――危機感とは裏腹に薄れゆく意識のなか、彼はコツコツと近づいてくる何者かの足音を聞いた。しばらくすると、虚ろな瞳をした彼のそばに二人分の靴が並んだ。
「素晴らしいペースだ。これなら悲願の成就も秒読み段階といえる」
「クク……まったく、あなたの探究心には頭が下がります」
「……よく言う。君もまた、愛する者のためならこれくらいやってのけるクチだろう? 西沖院長」
「おっと、病院ではその名を呼ばない約束ですよ。誰が聞いているかもわかりませんから」
「安心したまえ。薬さえ完成すれば、いかなる立場の人間であろうと正気に戻すことが可能だ。国家権力など取るに足らない……もっとも、そのあたりは君のほうが専門だろうけどね」
「恐縮です」
「さて、では今後も“最後まで”頼むよ。進捗は確認できたし、僕はこれで失礼する」
「お任せください」
辛うじて彼らの会話を聞き届けたシムルは、無理やり保っていた意識をついに手放した。直後、その場に残った男が、横たわる和歩の身体を抱え上げてニヤりと笑う。
「人心掌握の霊薬……私も完成の日を心待ちにしていますよ――依帖先生」
西沖の名は第282話が初出です。
それにしても、シムルはもともと怖いの苦手なので(第64話では零子の館にビビってました)今回の出来事は相当キツかったと思われます。
※お読みいただき、ありがとうございます!
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