第316話 空っぽ
(こんなことが……)
母と兄のやり取りを聞き、愕然とするシムル。彼は今、意識体となって佳果の横に佇んでいる。あの日、神社で謎の光を受けて気絶したあと――唐突にこの場面へ飛ばされたのだ。先ほどの会話内容から察するに、当時の自分は今朝に至るまで元気に過ごしていたものの、件の病を発症した結果、現在はこの病院のどこかで昏睡状態にあるらしい。
(もともと前世の記憶は曖昧だったけど……この時期に何があったのか、なぜか全く思い出せない。兄ちゃんの説明が覚束なかったのも含めて、やっぱりあの黒い光が元凶なのかな? ……いずれにせよ、確かめておかなくちゃ。幸いこの身体なら、自由に動けるはずだ)
これも追体験を続行すべくクルシェが与えてくれた配慮なのだろうか。シムルは意識体が時間と空間に縛られていないことを感覚的に理解できた。ふと、初めて明虎と邂逅したラムスの一幕を想起する。あのとき彼は時を止め、宙に浮いていたが。
(……なんとなくわかってきた気がするよ、明虎さん)
おもむろに地面を蹴って跳躍してみる。刹那、周囲のすべてが停止し、自分だけが時の流れから孤立した。さらに身体は天井をすり抜け、思ったとおり空を自在に飛び回ることもできる。
どこか確信めいたものを抱きながら、思案顔で縦横無尽に空中散歩するシムル。これからどう動くべきだろう――そう考えていると、ふと視線のようなものを感じた。
(?)
反射的に振り返ったところ、遠方の地表で一箇所、不自然に明滅している場所がある。それがどこなのかを直感した瞬間、彼はまた“嫌な予感”に襲われた。
◇
(! 来た、母ちゃんだ)
一旦地上に舞い降りて時を戻したシムルは、母が押垂夫妻に「気になることがあるのでこちらでも色々調べてみます」と電話口で話していたのを聞き逃さなかった。そして案の定、彼女はまもなく精密検査を受けさせるために佳果を病院へ預けたのち、待ち時間を縫ってタクシーを呼び、現場まで足を運んだのである。
先回りして待っていたシムルに、緊張が走る。
(周囲を調べた限り、特に変わった様子はなかった。でもさっき感じた視線は間違いなくこの近辺からのものだったし、あの妙な光にしてもただの気のせいではなかったはず。つまり、おそらく何かがいるんだ。おれはその正体を突き止めるために、意識体としてここに居合わせている……そういうことですよね? 黒龍様)
――熟考する彼をよそに、千歳は公園の奥に見える森林、その中にある神社と磐座に向かってずんずん進んでいった。慌てて後を追いかけ、隣に並んで歩くシムル。その際ちらと母の様子を窺ってみたが、すでに辺りは暗く、街灯もないため、どんな表情をしているのかはよく見えなかった。
やがて、三人が寝ていたという場所まで辿り着く。木々に覆われているこの一帯はとりわけ闇が深く、昼間とは打って変わって不気味な雰囲気を醸し出していた。
千歳はしばらくの磐座の付近を調査していたが、これといった収穫がなかったのか、その場で肩を落として俯いた。しかしそろりと拝殿へ立ち寄ると、吊られている大きな鈴をガラガラと鳴らし、何かを呟きはじめる。
「神様、わたしの声が聞こえるでしょうか」
(!)
急な独白に面食らうシムル。
彼は注意深く、母の言葉に耳を傾けた。
「……以前のわたしであれば、このようにお伺いを立てずとも、皆様方と意思疎通ができたそうですね」
(え?)
「しかしご存知のとおり、今のわたしにそういった能力はございません。きっと、記憶とともにすべて失われてしまったのでしょう。……あの人と一緒になる前にもっていたものは、すべて」
(か、母ちゃん、もしかして記憶喪失だったのか……?)
「わたしは空っぽでした。だから、新しいもので埋めるしかなかった。でもそれを一生懸命に手伝ってくれたあの人は、5年前に消息を絶ったまま。そして今度は……彼が残してくれたあの子たちすらも、わたしから遠ざかろうとしています」
(…………)
「――過去のわたしが何か過ちを犯したのなら、わたし自身が責任を負います。だから、お願いします。今のわたしが愛する人たちだけは……どうか、どうか塗炭の苦しみからお救いいただけないでしょうか……」
頭を深々と下げ、嘆願する母の声は震えていた。顔が見えなくとも、泣いているのはわかる。病院では気丈に振る舞っているように見えたが、それほど追い詰められていたのだろう。だが彼女の祈りも虚しく、ここに鎮座しているはずのホウゲンから反応はない。
シムルは何もできない自分に腹が立った。この意識体は自由な反面、他の存在に対して一切の干渉ができない。またアスターソウルとは違い、神気纏繞を行使して霊的に働きかけることも叶わぬのだ。
(どうすれば、母ちゃんに伝えられる? 今がどんなに苦しくたって、おれはここにいるんだって。おれたち家族はみんな、未来で笑えるようになったんだって……!)
ナノ、ゼイア、佳果と団欒している情景を浮かべて、シムルもまた涙を流した。そうして暫し親子で肩を震わせていると、不意に背後から声をかけられる。
「ほう、これは驚きました」
「「!?」」
突如として聞こえた男性の声に、心臓が飛び跳ねる二人。恐るおそる振り返ると、そこには一人分の黒い影が立っていた。
「とうとう貴女も辿り着いたわけですか。心地よい、この漆黒の御力に」
「? あ、あの――」
「おっと……『どちらさまですか』なんてセリフ、二度と口にしないでくださいね。そんな空言、本当の貴女には甚だ似つかわしくない」
「え……」
瞬間、周囲一帯が謎の光によって青白く照らされる。浮かび上がったのは、眼鏡をかけた七三分けの男。白衣を着ている。
(あれ? この人、どこかで……)
(だ、誰だこのおっさん!? というか、この光はさっきの……!)
「さて。此度の賢明なる選択を寿ぎ、まずはこちらを差し上げるとしましょう。受け取ってください」
男は微笑みながら、纏っている超常的な光を千歳に向けて放った。
「きゃっ! なんですかこれ……!」
「言わずもがな、“浄化の光”です。ほうら、鬱々としていた気持ちがどんどん晴れてゆくでしょう」
(! ……ど、どうしてかしら。確かに、なんだか悲しみが薄れてゆくような……)
不可思議な現象に当惑する千歳。
いっぽうシムルは目を剥いていた。
(“浄化の光”だって……? いや、これはそんな清らかなものじゃない。むしろ――)
「僕もね、この光にはいつも助けられてきたんです。フフ、それを大切な貴女にお裾分けできて、今とても幸せな気分です。ああでも、勿論これだけじゃありませんよ? わかっておりますとも。貴女に必要なのは、どちらかといえばこっちだ」
懐から小瓶を取り出す男。中には薬と思われる錠剤が詰め込まれている。それが何のためのものなのか、千歳には直感でわかった。
「も、もしかして……!」
「ええ。たまたま、先ほど息子さんの容態を診させてもらったんですがね。彼を苦しめている奇病……実は以前、僕も同じものに罹っていた時期がありまして。これはその症状を抑えるための、唯一無二の薬なのです」
「!? でも院長さんは、過去に前例がないから当面は治療法もわからないし、精密検査の結果が出るまでは何も言えないと……」
「やれやれ、あんな三流のヤブ医者が吐いた戯言に耳を貸してはいけません。――もっとも、彼が一流の名医だったとしても到底測りきれないでしょうけどね。なにしろこの国でこの病気を扱えるのは、僕だけなのですから」
「…………あなたは…………」
「さあ、大学病院に戻ってください。そしてすぐに転院手続きを済ませるのです。僕のところへ来れば、貴女をあらゆる苦しみから解放するとお約束しましょう。そう、かつて僕がそうしてもらったのと同じようにね……フフ……」
この男はいったい?(とぼけ顔)
なお、ラムスの一幕=第42話~第43話です。
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