第315話 動揺
「そん……な……」
堪えきれず、顔を両手で覆う千歳。医師の宣告を前に愕然とする母の様子を見て、そばにいた佳果も頭が真っ白になった。
(……和歩が……和歩が、助からない……?)
――今朝方、前触れもなしに弟が倒れた。そして搬送先の大学病院で待たされること6時間。無慈悲にも突きつけられたのは、もはや弟が長く生きられないかもしれぬという、悪夢のような現実であった。
失意のなか院長室を後にした親子は、おぼつかぬ足取りで廊下の壁際にあった椅子へ凭れかかり、深い絶望に苛まれる。
「母さん……こんな馬鹿な話……あるわけないよな……」
「…………」
「だって……つい昨日まで、元気にしてたじゃんか……」
「…………」
「なんだよ……なんだよ原因不明の奇病って……!」
医師によると、和歩は全身の細胞が徐々に機能不全へ陥り、壊死してしまう病気にかかっているらしい。症状からして放射線症の疑いが強く、その場で可能な検査や処置を全ておこなったが、予想に反して被ばくの痕跡は認められず、まだ具体的な治療の目処が立っていないそうだ。
現在は原因特定のため精密検査に入っているものの、このような症状の機微は前例がなく、このまま細胞死の進行を抑える手立てが見つからなかった場合、助かる見込みは薄いとのことだった。
「お気の毒ですが、最悪のケースも……」とやるせなさそうに説明していた医師の言葉を思い返すと、大粒の涙が溢れてくる。そんな息子をただただ抱きしめる千歳であったが、彼女もまた精神的ショックで視界と頭がぐらつき、途方に暮れていた。しかし腕のなかで頻りに聞こえる嗚咽を受け止めるほど、ここで折れてはいけないのだと痛感させられる。父親のいない我が家で、この子が頼れる存在は自分だけなのだから。
彼女は絶望を押し殺し、思い当たった直近の“違和感”について調べる決意をした。
「佳果、教えて」
「……?」
「少し前、夕鈴ちゃんちと買い物に出かけた日があったでしょ」
「ひっく……えっと……公園で降ろしてもらって……三人で遊んだ……?」
「そう。あの日、お母さんたちが迎えに行ったとき、三人とも森のほうの道端で寝ていたよね? ……どうしてああなったのか、もう一回聞いてもいいかな」
「……あの時はたぶん、遊び疲れてて……気づいたらそのまま寝ちゃって……」
(起きた直後も同じことを言っていたわね。でも……)
当時、子どもたちが気を失って倒れているように見えた千歳と押垂夫妻は、真っ青になりながら三人の元へ駆け寄った。ところが本人たちは、揺すられるとすぐに上体を起こし、寝ぼけ眼で“いつの間にか寝ていた”と弁明したのである。
やがて自分たちの行動がどれほどの心労をかけたのかを悟った三人は、「もう二度とこんなことはしない」と帰り道の車内でしおらしく約束した。これに対し、双方の親は「無事だったのならば良い」とそれ以上の追及を取りやめたのだが――今になって、あの出来事が妙に引っかかるのだ。
(本当に寝ていただけ? それとも)
そもそもの話、まだ幼い和歩や破天荒なところのある佳果はまだしも、品行方正な夕鈴が二人と一緒になって地べたに寝転び、オシャレしてきた服を汚すものだろうか。考えるほどに、あの日が境界線のような気がしてならない。
「……眠ってしまう前に、何をしていたのか覚えてる?」
「え? そりゃ、かくれんぼとか鬼ごっことか……色々やったけど」
「途中で誰か知らない人に会ったり、変な場所に行ったりしなかった?」
「いや、特には……」
「そっか……和歩の様子はどうだった? 体調が悪そうにしていたりとか」
「別に普通だったと思…………あ」
「?」
「そういえば、ちょっと走りすぎて一瞬あたまが熱くなってた場面があった」
「……その時、佳果と夕鈴ちゃんはどうしたの?」
「あいつが日陰で休もうって言って……休憩することにした。で、涼んでるうちにだんだん眠くなっきて……そっから先は、寝てたからよく覚えてない」
「ちなみに、どこで休憩してた?」
「なんか縄のかかってる、でっかい岩んところ」
ここまでの話を聞き、ひとつの疑念が浮上する。件の磐座は、三人が寝ていた場所とは少し離れた位置にあったはずだ。よもや寝返りで全員そこまで転がっていったとは考えにくい。ならば眠りに落ちたタイミングは、休憩を終えるなどして磐座から移動した後、とするのが自然であろう。ところが佳果の記憶は、そこに関する情報が欠落しているように感じられる。
「――ありがとう、教えてくれて」
「? 母さん、もしかして何かわかったの?」
「どうだろうね……ただ、万が一ということも考えられるから。あなたと夕鈴ちゃんも、すぐに検査を受けたほうがいいかもしれない」
「!」
それは暗に、此度の病原があの日のどこかに潜んでいる可能性を示していた。多くの感情が混ざり合い、ギュッと目を閉じて打ち震える佳果。すると千歳は、シワのよった彼の眉間にそっと自分のおでこをくっつけ、優しく笑った。
「大丈夫……きっとみんな、大丈夫だから」
「……………………うん」
小さく頷いた息子の頭を撫でると、千歳は「お母さん、ちょっと電話してくるから。下のロビーで待ってて」と言って飲み物代を手渡し、静かにその場を離れていった。佳果は無言のまま、その背中を哀愁漂う表情で見送った。
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