第304話 勇気
「はぁ……はぁ……!」
何も考えず、ただ全霊で屋上へ駆けつけためぐる。その目に飛び込んできたのは、膝をついて深く俯いている具治の後頭部だった。小刻みに震えており、床は彼の涙で黒く染まっている。
「おっ、まさかのご本人登場ってか!」
見慣れぬ制服を過度に着崩した、マンバンヘアの男がしゃしゃり出てくる。否応なしに神経を逆撫でするような、その挑発的な声音と歪んだ笑い方。間違いない。あれは中学時代、自分にたかってきた不良のリーダー格だ。よもや、他校から乗り込んできたとでもいうのだろうか。
「久しぶりだな須藤ちゃん? 相変わらず無性にぶん殴りたくなる面してやがる」
「き、君は…………いったいどうしてここへ……!? か、彼に……具治くんに何を……!?」
「あぁ、てめぇがここに通ってるって、おれの女が教えてくれてよ。三年前に貰い損ねたもん、今度は穏便に取り立ててやろうと思ってな。このコバンザメ経由で」
「っ!? ま、またうちのお金が目的で……!?」
「おいおい、人聞きのわりぃ言い方すんじゃねぇ。おれらはただ、てめぇが"くれる"って約束してたもんを回収しにきただけなんだぜ? なのに『そんなの嘘だ!』っとかほざいて突っかかってくるダボがいたらよぉ、正当防衛もやむなしってなもんだろうが」
おどけた物言いに、周りの連中がゲラゲラと笑う。どうやら具治は、自分と親しい間柄であることを知られてしまったせいで、標的に選ばれたらしい。
「まあでも、来ちまったからには直談判といこうかねぇ。……いいか? 金を用意すんのに口実がいるってんなら、家政夫にこう伝えろ。てめぇは今日、おれらの大事なバイクを不注意でドミノ倒しにしちまった。その落とし前をつけるための示談で、急遽大金が必要になったとな」
「……」
「わかっているとは思うが、前みたいにチクって逃げようとか考えんじゃねぇぞ? 逃げたらこいつが、五体満足じゃいられなくなるかもしれねぇぜ」
具治の髪を鷲掴みにして吊るし上げるリーダー格。恐怖と絶望でぐしゃぐしゃになった痛ましき友の顔を見て、めぐるの心は冷たく、そして熱くなった。
「……離してくれ」
「あん?」
「その子を離してくれ! 頼むから、関係ない人を巻き込むなよ!」
「……てめぇ、誰に向かって口きいてやがる」
「っ……! そもそも、君らに渡せるお金なんて端から持ってないんだ! 自分の意志で扱っていいお金なんて……自分はまだ、持ったことすらなくて……」
「はあ? 何をワケのわからねぇことを――」
「君たちにはビタ一文出すつもりがないって意味だよ! そんなことより……さっき君が投げ捨てたものはこの数ヶ月、彼が必死に頑張ってようやく手に入れたものだったんだ! 弁償云々の話を持ち出すなら、むしろ君がそうすべきなんじゃないのか!」
「――おい、立場を弁えろ。おれはいま命令してんだぜ? ピーピー喚きやがって、てめぇのゴミみてぇな能書きなんざクソくらえだ。そんなに死にてぇならすぐにでも送って……」
「自分はどうなろうと構わない! その代わり、今すぐ彼に謝罪するんだ!」
以前は押し潰されてしまった"勇気"が堰を切ったように溢れ出し、果敢に立ち向かうめぐる。予想に反して胆力を発揮する彼に、苛立った取り巻きが「わからせてやりましょうぜ」と指をバキバキ鳴らした。しかしリーダー格は少し意外そうな表情をしたあと、ニタリと笑ってそれを制する。
「……いや、気が変わった。須藤てめぇ……おれに謝罪して欲しいんだったらよ。そこ歩いて一周してみろや」
「!?」
にわかにリーダー格が指さしたのは、安全柵のついていない屋上の胸壁部分。その幅は狭く、片足を交互に前へ出さねば進めぬような危険極まりない足場である。
「マジで命張れるってんなら、できるはずだよな? だがもしハッタリだったときは……てめぇに土下座してもらうぜ」
「……」
「どうした? はやくやってみせろよ。成功したらこいつに一言謝ってやる。なんなら金の件も手を引いてやっていい」
「え……どうしたんすか急に!? それじゃ話が――」
「るせえ。臆病もんはすっこんでろ」
有無を言わさぬ眼光で捻じ伏せられる取り巻き。どこかこれまでと異なる迫力を纏ったリーダー格は具治をぞんざいに放すと、めぐるに対して激情の眼差しを向けた。まるで彼の原動力となっている何かを拒むかのように。
「……見ていて具治くん」
「え……?」
「君の尊厳は、自分がまもるから」
その言葉を皮切りに、死と隣り合わせの綱渡りが始まった。風が吹いている影響で、グラグラと足取りが覚束ない。懸命に均衡を保つが、少し気を抜けば落下、高さからして相当の衝撃が身体を破壊するだろう。その痛みを想像するほど、恐怖で冷や汗が吹き出て今にも気が狂いそうになる。
それでもめぐるは、歩みを止めるわけにいかなかった。
(……示すんだ! 自分はもう光から逃げないって……ガウラとともに歩いていけるんだってことを!)
◇
――やがて。幾多の危険な局面を潜り抜け、めぐるはこの無理難題を尋常ならざる意志の力で乗り切るに至った。見事に生還した彼の勇姿を、その場の全員が唖然と眺めている。
「……さあ、約束だよ。彼に謝って」
「あ? ああ……」
静かに謝罪を促すめぐるの表情は、何やら得体のしれない清廉さを帯びていた。リーダー格は何故か言われたとおりにするしかなく、頭を垂れようとする。しかしその光景を前に、多数の野次が飛んできた。
「ふ、ふざけんな! 勝手におれらの取り分までなくそうとしてんじゃねぇぞ!」
「んだよ! 結局そんな乳くせぇ野郎に屈しちまうのか!?」
「とんだ茶番だぜ! ウメェ話があるっていうから、これまで仕方なく付き従ってきたってのによ!」
人望がないのか、烏合の衆なのか。リーダー格を執拗に責め立てるブーイングが渦巻く。さなか、涙の乾いた具治が追い打ちをかけるように口を開いた。
「……ねえ、あんたさ」
「……?」
「別にボクには謝らなくてもいい。でも……須藤くんにひどいことしたんだからさ。せめて同じ苦しみを味わってから消えなよ!」
今度は具治が胸壁を指さす。面食らっためぐるは「!? いや、それは」と止めようとするも、意に反して周りの連中が同調し、「そうだ、やれよ!」「まさか自分にはできないことをあいつにやらせたわけじゃねぇよな?」「人を臆病もん呼ばわりすんなら、見せてもらおうじゃねぇかてめぇの度胸!」などと煽り立てた。
こうして後に引けなくなったリーダー格はおもむろに胸壁まで近づくと、無言のままそこへ乗って綱渡りを開始する。ところがフラフラと2メートルほど進んだところでバランスを崩し、皆の視界から消えてしまった。
「――」
再び信じがたい光景を見せられ、目眩がして尻もちをつくめぐる。「やべぇ」と取り巻きがそそくさと撤退を始めるいっぽう。ただ一言「いい気味だ」と呟いた具治の笑顔が、めぐるの脳裏に焼き付いた。
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