第280話 忽然
「よーし福丸、散歩に行こうぜ」
着古したボロボロの服をまとった天然パーマの壮年が、愛犬をリードに繋いで出かけようとしている。イエローラブラドールの福丸は、とても嬉しそうにワンと鳴いて尻尾をおおきく振った。
数年前、事故で片足が不自由になってからというもの。散歩のときは、こうして車椅子で移動するのが常である。独り身で仕事も失ってしまった壮年――桐彦にとって、福丸の世話を続けるのは決して容易なことではなかった。しかし固い絆で結ばれた両者は、たとえ生活を切り詰めようとも、共に生きる道を選んだのだった。
「お前と過ごすこの時間が、俺の心をどれだけ支えてくれていることか。本当にありがとうな、福丸」
「あぅ?」
「はは、なんでもない。……さ、今日はお互い体調も良いし、ちょっとだけ遠回りしていこう」
いつものコースから外れ、ペットが水遊びできる噴水施設が設置された公園を経由する二人。ここは以前、たまに訪れては長居した思い出の場所だ。今は人気がなく、貸し切り状態にある。
「お、運がいいな。福丸、遠慮せず遊んできていいぞ!」
「ワンッ!!」
興奮気味に燥ぐ愛犬の無邪気な姿に微笑みながら、彼はベンチの横に車椅子をつけ、持参していた松葉杖を使ってそこへ座り直す。プシュっと開けた缶コーヒーを飲んで空を見上げると、また明日もがんばろうという気が湧いてくる。
(次こそは、採ってもらえるといいな)
後日、予定している面接に思いを馳せる桐彦。そうして暫くぼんやりと再就職について考えていた彼だったが、途中で催したため、おもむろに立ち上がる。
「ごめん福丸、俺ちょっとトイレ行ってくるわ」
「!」
聞き慣れた単語に反応し、福丸が近寄ってくる。この犬種の特性ともいえるが、彼は主人の行動をサポートするのに頗る長けていた。普段どおり介助を行おうとする優しい素振りに、桐彦はよしよしと頭を撫で、"待て"の指示を出してリードをベンチに繋いだ。
「大丈夫、すぐに戻るから」
今回は自分だけで問題ないと判断し、その場を離れる彼の背中を、福丸はハッハッと舌を出して見つめていた。
◇
「あちゃ、ハンカチ忘れてきたか」
ポケットをまさぐるが、何も入っていない。仕方なくズボンで手を拭いた桐彦は、気を取り直して愛犬のもとへ戻った。
(さて、そろそろ帰るかな…………ん?)
想定と異なる光景が目に飛び込み、急激に体温が下がってゆく。なぜならさっき繋いだはずのリードが外れており、福丸がいないのだ。
「!? ふ、福丸! どこだ、福丸!」
慌てて松葉杖をつき、周辺を確認する。だが見える範囲に彼の姿はなく、歩道に戻ってみるも、やはり気配すら感じられなかった。
(落ち着け……落ち着け……)
そう言い聞かせ、いったんベンチまで戻る桐彦。だが動揺しているせいか、途中でバランスを崩して地面に倒れてしまった。
「いっつつ……」
服越しに膝を擦りむき、じんじんと痛みが広がってゆくのがわかる。誰もいない公園で独り這いつくばる自分――その哀れな体たらくを俯瞰し、彼はかえって冷静になれた。
(俺はあいつに見捨てられたのか? ……いや、そんなわけない。福丸は賢い犬だ。今まで勝手に消えるようなことは一度もなかったじゃないか。リードだって確実に結んでおいた……記憶違いなんてあり得ない)
つまるところ、彼は人為的に放たれた可能性がある。それは現在、桐彦の瞳に映っている福丸の足跡もまた示していた。
(これ……どう見ても片道分しか無いよな? なら、リードを外して誘拐した奴がいる? だがあいつの体重は30kgを超えているし、吠える声もまったく聞こえなかった……いったい誰が、どうやって、何のために……!)
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