第264話 対消滅
(あったかい)
矢一少年は感じた。閉じた瞼の向こう側で、絶対的な安心感を齎す何かが揺らめいているのを。それは確か、赤子の頃に抱いたことのある柔らかな心地――とうに忘れ去ったはずの、無償のぬくもりに似ている気がした。
(……ぼくも、むかしは……)
失われた日々と感触。もう二度と取り戻せぬと諦めていた愛情という名の熱に、矢一は揺蕩いながら再会を果たそうとしていた。
(!)
しかし光に手を伸ばすほど、境界線のごとく冷たい風が吹きつけ、自分という存在が払いのけられてしまう。触れたいのに、触れられない。その行き場のないもどかしさが制御不能の焦燥感を煽り、破壊衝動を膨張させてゆく。
「ぁ……ぁぁ……ぁぁあああ!!」
気がつくと、瞼の手前は真っ赤に染まっていた。矢一は目を見開き、憤怒の形相で佳果の顔面を思い切り殴りつける。刹那「どうして」という懺悔と、「もっとだ」という加虐心が交錯し、かき乱された思考が意識を狂気へと誘い込む。
――いま自分は、どのような顔をしているのだろう。矛盾する心と身体に逡巡し、再び振り上げた拳を震わせながら硬直する矢一。"絶対におろすまい"と必死に抗う少年のつよき涙を見据え、佳果はただ一言だけ放った。
「今までよくがんばったな」
腫れた頬で口元を緩めた佳果は、そのまま少年の頭を引き寄せて胸を貸す。すると無遠慮に輝く彼の魂が、矢一を覆っている闇――世界と己を隔てている薄ら寒い黒を暴き立て、瞬間、視界の赤は急激に色褪せていった。
「視えるか矢一。あの黒いモヤは、お前が背負わされてきた負の感情の集合体だ」
「……負の……」
我にかえった彼は、実体のない悍ましき醜怪が天井に浮かんでいるのをとらえて戦慄した。すかさず明虎が補足する。
「あれの中には、他者があなたに擦りつけた黒――そして今回、あなた自身が生んだ黒も含まれています。どちらも"背負わされてきた負の感情"という点において違いはないかもしれませんが……今回我々が取り除くのはあくまでも前者のみ。後者のほうは、あなたが自分のちからで立ち向かわなくてはなりません」
「そうなの……? でも、一体どうやって……」
「難しく考える必要はねえ。お前が不本意にぶっ飛ばしちまった奴に対して、ちゃんと訳を話した上で謝りゃいいのさ。んでその時、お前の本当の気持ちも伝える。さっきも言ったが、寄り添うようにな」
ニカっと笑ってそうアドバイスする佳果の身体から、きらきらとした白の粒子が立ちのぼる。それは黒のモヤを包み込んだあと、やがて対消滅するかのように消えていった。
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