第262話 ふつう
「お待たせいたしました」
その後、二人は矢一という名の少年が暮らしている部屋まで案内された。こんこんとドアをノックし、わずかに開けた状態にして声を掛ける職員。
「矢一くん、さっきお話したボランティアの方々が来てくださったよ」
「…………」
応答がないため、三名は疑問符を浮かべてその場で待機した。すると二十秒くらいが経過した頃だろうか。部屋の中からマッシュヘアの小柄な子が顔だけを覗かせ、じっとこちらを見つめてくる。
「おぉ、よかったよかった。さ、ご挨拶を」
「…………」
そう促されるも、彼は無言のままである。すみませんと謝る職員に、佳果は手のひらを胸の前に掲げて「いえ」と謙遜し、おもむろに床へ片膝をついた。
「……いきなり押しかけてすまねえな。俺は阿岸佳果ってんだ。でこっちの怖いおっさんは明虎」
少年の心を気遣い、自己紹介を始める佳果。しかし矢一はなおも、暗い瞳をして押し黙っている。
(この目……和歩に似てやがんな)
生前、弟がよく見せていた顔が脳裏によみがえる。それまで元気が取り柄だった快活な子どもが、ある日を堺に不治の病にかかり――いつ家に帰れるともわからぬ入院生活に打ちのめされ、その過酷な事実を受け止めきれず、深い絶望に支配されてしまった、あの忘れがたき痛切な表情。
(……こういう傷ってのは、乗り越えたあとだろうがお構いなしに疼きやがる)
彼は心臓のあたりをクシャッと掴み、俄然少年を救う決意を以って続けた。
「なあ矢一。ちょっとでいいからさ、そっちで話を聞かせてくんねーか?」
「…………」
佳果が部屋のなかを指さしてそう尋ねたところ、彼は初めて反応を示した。首を小さく横に振ったのだ。それを見た職員は、あわあわと場を取り繕う。
「や、矢一くん……このお兄ちゃんたちはね、君のことが心配だって、遠くからわざわざ駆けつけてくれたんだよ? いま君が抱えているものを、取り払っていただけるかもしれない。だから少しだけ……」
「…………」
しかし、今度は大きく首を振る矢一。
がっくしと項垂れる職員の横で、唐突に明虎が言った。
「優しい子だ」
「えっ……?」
「彼は恐れているのです――誰かを傷つけてしまうことを」
「…………!」
矢一が驚いたように目を見開く。職員もその言葉の意味するところを理解して息をのんだ。これを好機と捉えた佳果はニカっと笑うと、腹筋に力を入れて強く叩いてみせた。
「かか、俺なら大丈夫だ。このとおり鍛えてっから、いくら殴られてもビクともしねぇぜ? ……何も心配すんな。安心して、話せるだけ話してみな」
「……うぅ」
涙を流しながら、矢一は彼らを招き入れた。
◇
部屋に入った二人は、床にあぐらをかいて少年と向き合う。ちなみに職員は「私が居てはお邪魔のようです。あとはあなたがたにお任いたします」となぜか全幅の信頼を寄せて、立ち去ってしまった。
「……で、矢一。お前の衝動は、自分の意志に関係なく起きちまうのか?」
「……うん。でもそうなってるときは……"みんな死んじゃえ"って……心のなかでは自分からそういう風に思ってて……目の前が真っ赤になって……」
(殺意すら、か。本来は穏やかな性格みてぇだし、かなり辛いだろうな)
不憫に思った佳果は、反射的に彼の頭を撫でた。すると苦しそうに事情を吐露していた少年の表情が、ふっと和らぐ。
「ふむ。酷なことを聞くようで申し訳ないのですが、あなたはその衝動に襲われた際、なぜ"みな死ねばよい"という思考に陥ってしまうのか――何か心当たりはありますか?」
「……わかんない。でも」
「……」
「初めてそうなった時のことは覚えてる。あの日は、ここに住んでる子のひとりが誕生日で……離れの多目的棟で、パーティーをやってて」
矢一によると、彼は当時体調が優れず、後半からそのパーティーへ参加することになったらしい。そして定刻をむかえ、会場へ向かったところ――。
「窓から見えたんだ」
「……何がですか?」
「……みんなが楽しそうに、笑っているところ」
そこまで言って、目を伏せる矢一。
彼はしばらく沈黙してから、意を決したように告白した。
「……ぼく、気づいちゃって。ああいうのがたぶん、"ふつう"なんだろうなって……」
「ふつう……?」
「……ぼくね、家で虐待があって……ここへ来たんだ」
「!!」
施設側からは守秘義務により説明がなかった模様だが――薄々真実に気づいていた佳果は、拳をつよく握りしめ、やるせなく目を閉じた。
「だから、なのかな……あの時、みんなと自分との間に……一生越えられない壁があるように見えて……それをぼくは、なんだか無性に壊したくなって……」
「気づけば他の子に手を上げてしまっていた。そういうわけですね」
こくりと頷いた矢一は、再び大粒の涙を流した。
ここまでの話を聞いて、やっと全体像がみえてきた気がする。
「明虎」
「なんですか」
「矢一の想いを弄んでるのは黒か?」
「……ええ。そしてそれが拠り所としている感情が発覚した今、すでに状況は整ったといえるでしょう。――出番です。佳果くん、粒子精霊と接続してください」
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