第217話 トレチェイス
筋肉質で牙の鋭い、象と虎を足して二で割ったような魔獣。初めて見るが、順当に考えれば物理攻撃に秀でた類だろう。獰猛な息遣いと炯眼に凄まれ、あまりの恐怖に粟立つトレチェイス。
(ッ……さっきまで死ぬ気でいたっていうのに……どうして……!)
対峙が続くなか。反射的に庇ってしまった背後の魔物の様子を、彼は魔獣の大きな瞳を介して窺った。どうやら腰が抜けて動けずにいるようだ。か細い異形の身体からは、ごく僅かな魔力しか感じられない。丸腰で防具すら身につけておらず、このまま見捨てれば確実に殺されてしまうだろう。よもや、これほどひ弱な者が実在するとは。
(あ……)
そう思った途端、魔物と己の姿が重なって見えた気がした。彼は唐突に理解する。ここで魔物を救えぬ自分など――さっきまで死を待ち望んでいた自分よりも、もっとずっと愚図で鈍間で、役立たずで無価値だ。なぜならアレは、叶えたかった夢であり、縋りたかった奇跡。守りたかった矜持にして、褒めてほしかった同胞なのだから。
「くそっ! やってやらぁ!!」
毒の吹き矢を取り出し、意を決して攻撃を仕掛ける。こういう時のために用意しておいた、護身用の切り札だ。すると矢は運良く魔獣の目に命中し、急所を突かれた敵はのたうち回っている。
(よ、よし……! あとは時間さえ稼げれば……!)
過度の緊張と高揚にブルブルと身体を震わせながら、彼は魔物のほうへと向き直った。
「さ、この隙に逃げるぞ! いま肩を貸してやるから」
「! 危ない!!」
「え」
ぞわりと本能の警鐘が鳴り響く。彼はこの感覚を知っていた。いつぞやの戦で、余所見していた自分が致命傷を負わされそうになった時の、あの凍りつくような悪寒である。当時は仲間が紙一重で助けてくれたが、今は――。
「ぶぐぅぉっ!」
重い一撃を喰らい、地面へ叩きつけられるトレチェイス。硬い素材を繋ぎ合わせた手製の防具は、衝撃によって粉々に砕け散った。それもそのはず、この装備はあくまで対処できるレベルの相手を想定して作ったもの。こんな規格外の攻撃力、凌げるわけがない。
「グォォォォオオオオ」
朦朧とするなか、暴れまわる魔獣の蛮行が見えた。強靭な尻尾を振り回し、無差別破壊を繰り返している。おそらくあの乱撃に巻き込まれたのだろう。
("残心を忘れるな"……むかし兄上がよく言ってたっけ。はは……結局おれっちは、最後の最後まで木偶の坊か。……ごめん、"人間上がり"の。せっかく呼んでくれたのに、助け……られ……なくて……)
涙とともに、全てを諦めかける。刹那、後ろから震え声でこう聞こえた。
「ありがとう」
「……!」
その言葉を、地に伏しているこんな醜態へかけた真意はよくわからない。しかし生まれて初めて受け取った純粋な謝意は、彼の中にある何かを弾けさせ、強い情動によって立てぬはずの身体を起こし、気づけば魔獣に向かって手の平を向けさせていた。混濁する意識のまま、不敵に笑ったトレチェイスは心で叫ぶ。
(こいつが……こいつだけがおれっちの……トレチェイスの生きた証だ!! 絶対に殺させやしない!!)
みなぎる想いを勇気に変え、感覚だけを頼りに魔の全放出をおこなうトレチェイス。すると彼の魂に宿っていた魔珠が、すべて魔力の塊となって宙に浮かび上がった。それはおよそ自分が行使できるはずのない上位の攻撃魔法へと変化し、魔獣の四肢を切り裂く。
「ウゴゴゴ……」
動けなくなった敵は、毒によって次第に弱り、まもなく絶命した。精根尽き果てた彼は、満足そうに呟く。
「……よっしゃ……おれっちは……"生きた"ぞ……!」
そのまま倒れ込む彼の元へ、九死に一生を得た人間上がりの魔物――夕鈴が、這いずりながら近寄ってゆく。
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