第209話 化霞
「ヴェリス!!」
「――」
堪らず佳果が駆け出すいっぽう。シムルは精神的な衝撃に後頭部を殴られ、呆然と立ち尽くした。急激に体温が下がる感覚に吐き気を催しながら、目まぐるしく思考が回転する。
マイオレムを使った彼女でさえ反応しきれない物理攻撃。そして、過剰なほどに重ねていたはずの防御バフや装備の数々を、いとも簡単に突破したその威力。相手との能力差には、そこまで絶望的な開きがあったということか。
ともすれば現在、さらに追い撃ちを掛けようと彼女に剣山を向けているアパダムーラを、どう食い止めたら良いというのだろう。距離からして、おそらく兄は間に合わない。可能性があるのは、瞬間移動を使える自分だけだ。――ならば一刻も速く動かなければ。硬直する身体など、無理やり捻じ伏せて動け! 今すぐに! このままではヴェリスが死ぬぞ!
「ぁぁぁあああ!!」
数多の感情を帯びた叫び声とともに、強制的に金縛りを解いたシムル。彼は鬼気迫る表情でヴェリスの魂を捕捉すると、ワープを試みた。その瞬間である。
『来ちゃダメ!』
「……!」
不意にヴェリスの心が捕捉を拒絶し、致命的な須臾が発生する。その隙をついて、アパダムーラの剣山が容赦なく彼女へ向かって伸びていった。
「あ――」
目を背けたいのに、背けられない。まるでスローモーションのように繰り広げられる無慈悲な光景に、シムルは呼吸を忘れて目を見開いた。だが攻撃を受けたのはヴェリスでなく――人知れず彼女のあとを追いかけていたアーリアであった。
「!!! なん、で……」
「うふふ。わたくしがこうしたかったからですわ」
全身に刃が突き刺さるなか、アーリアは痛みに屈することなくヴェリスに笑いかけた。しかしいくらプレイヤーといえども、これほどの重傷を負えば脳への負担は計り知れない。ヴェリスは洞窟のなかで白目を剥いていた佳果の姿がフラッシュバックし、今にも壊れそうな悲痛の表情を浮かべた。
この顛末を遠目に、ノーストから受けた防御魔法のお陰で辛うじて意識を保っていた零子は、地面に這いつくばった身体を震わせながら虚ろな瞳でつぶやく。
「昌弥……あたしに……勇気を……」
縋るように発した言葉は宙を舞い、返事する者はいない。ただ、吊り橋で身を挺して守ってくれた昌弥の勇姿が、何故か鮮明によみがえってくる。あのとき彼はどんな気持ちで自分を助けたのか、零子は唐突にわかったような気がした。
――今は未来のため、家族のためにできることを。たとえその先で地獄が待っていようとも、彼と同じ道が歩めるのならば、それもまた悪くなかろう。
「クァ……エレア……!」
振り絞るように彼女が固有スキルを唱えると、7回目の解析が完了した。6回目までは"データ無し"が続いていたものの、今ならばアパダムーラの魂とその状態、心の動きまでもが深く理解できる。果たしてそこには、すべての鍵があった。
(これは……! ……うぅ……)
核心に迫ると同時に、裏で糸を引いている魔神のエネルギーが彼女の精神を蝕んでゆく。せっかく得られた情報も、皆を救えぬまま終わるなら価値はない。もう一度だけ、もう一度だけやり直すチャンスがあれば――零子が強い無念に苛まれていると、不意に声が聞こえてくる。
「……ありがとうレイちゃん。見つけてくれたんだね」
(ウー……ちゃん……?)
「この因果の帰結は、誰かが鍵を手にするために避けては通れない道だった。……こんなに甚大な被害が出てしまったのは想定外だけど、もう大丈夫」
(……?)
「いま"巻き戻す"から」
そう言って、ウーが自分の粒子をフィールド全体に行き渡らせる。彼の霞を吸った者はみな、たちまち痛みが消え失せて正気にもどった。心身ともに深刻なダメージを受けていた楓也、ガウラ、チャロの三名も意識が回復する。
「黒龍様に仕えし『化霞』の本懐、ここで示すとしよう。至った正しき時に化け、この歪な時を過去の未来へと押しのける。吾輩の全霊をもって、あるべき時空をここに!」
彼の宣言に伴い、白い濃霧が辺り一帯を覆い尽くした。
(主様、みんな……たくさんの思い出をありがとう。吾輩、ずーっと楽しかったよ!)
◇
やがて視界が晴れた頃。
佳果たちは先ほどの記憶を保ったまま、開戦直後の陣形に戻っていることに気づいた。怪我はなくなっており、ヴェリスやアーリアはもちろん、息絶えたはずの魔物たちも蘇生している。だがそこに、ウーの姿はなかった。
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