第176話 現れたのは
アビヒの森は、密林地帯と疎林地帯が両極端の樹海である。窮屈な迷路を抜け、俄然ひらけた空間に出たガウラとノーストは、その場で同じ方角を向いて座り込み雑談を始めた。こうすれば、視線の主が"背後への注意を怠っている"と誤認して、不用意に接近してくるかもしれないという作戦だ。彼らは自然体を装って待ち伏せる。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
「……どちらであろうとも、魔獣か魔物という点では変わりあるまい」
「わからぬぞ? 案外わしや夕鈴殿のように、人間が出てくる可能性も……」
「いや、この作為的な忍び足――やはり魔物のようだ。もう近くまで来ている」
「! ……あ~、そ、それで今日の晩飯なんじゃが……」
露骨に他愛のない話題に切り替え、場の雰囲気をカモフラージュするガウラ。彼は演技しながら耳を澄ませてみると、足音は後方数メートルの地点まで這い寄り、そこでぴたりと止まった。察するに、聞き耳を立てているのだろう。
「……食い物の話をしていたら腹が減ってきたわい。そろそろ引き返して、夕餉にでもありつくとするかのう」
「ああ。しかし毎日同じ献立というのも流石に飽きた。せっかく僻地まで遠征してきたのだ、ここは珍味のひとつでも見つけて新天地の開拓と洒落込もうではないか。……丁度いい獲物がそこにいるようだしな」
(!!)
木陰に隠れていた何者かが、慌てて離脱を試みる。だが一瞬でノーストに回り込まれ、すぐにガウラも追いついて挟撃のかたちとなった。あらわとなったのは、人間大の虫のような姿。
「……!」
「うぬ、人間上がりと見受けるが……吾らに何用だ。食材となりたくなければ、速やかに素性を明かせ」
思ってもない言葉で威圧するノースト。意外と乗り気である彼に小さく笑ったガウラは、狼狽える魔物の横まで行って優しく問いかけた。
「驚かせてしまってすまぬな。わしはガウラ、あちらはノースト殿じゃ。彼はああ言っているが、本当は取って食うつもりなど無いから安心せい。して、貴殿の名は?」
「っ……えっと……そのまえに……ひとつ教えて欲しいんですけど……」
まったく敵愾心を示さず、ぽつりぽつりと敬語で応対してくる魔物。二人は彼が少なくとも争いを望んでいるわけではないと確信し、顔を見合せて頷いた。
「よかろう。申してみよ」
「あなたは……魔人、ですよね? そしてそっちのお爺さんは人間……普通に考えたら、あり得ない組み合わせ……だと思うんですけど……どうしてこんな場所を探索していたのですか? しかも、二人とも親しげに……」
「ぬ? んんー、それを一言で語るのはなかなか難しいのう」
「……吾は魔人、此奴は人間。その見立ては間違っておらぬし、連れ立っている事情を話すのも吝かではない。しかしどこの馬の骨ともわからぬ不審者にこれ以上の譲歩は難しいな。諸々知りたくば、次はそちらが名乗るのが筋ではないか?」
「……はい、仰るとおりですね。跡をつけたことも含めて、たいへん失礼しました」
魔物はそう謝罪し、さらに続けた。
「オレは……この姿になってからの名前はないんです。そんなものは要らないって……最初に拒絶したから」
(ふむ?)
「だから生前の……人間だった時の名前を名乗らせてもらいます。オレは於東――於東昌弥といいます」
お読みいただき、ありがとうございます!
もし続きを読んでみようかなと思いましたら
ブックマーク、または下の★マークを1つでも
押していただけますとたいへん励みになります!