第134話 禅問答
『我が苦痛に塗れ、息絶えるがいい』
闇のなかで、重たい声が反響した。
佳果と楓也は心を鎮め、その言葉を汲み取る。
――
世界悪意は強欲の感情を謳った。
『欲しい。あれもそれもこれも。よこせ。我の物に触るな』
佳果は答えた。
「……確かに、望むもんを手に入れると嬉しくなるよな。けどそうやって奪い続けたら、最後はどうなっちまう?」
――
世界悪意は貪欲の感情を謳った。
『足りない。満たされない。もっとよこせ。全部よこせ。すべて我の物だ』
楓也は答えた。
「でも、それらは誰かがつくってくれたものだよ。あなたが根こそぎ持っていけば、もう新しい物は生まれなくなってしまう」
――
世界悪意は淫乱の感情を謳った。
『物は飽きた。他者が、肉体が、快楽が欲しい。そのための美しさが欲しい』
佳果は答えた。
「まあそれで満たされる連中となら、うまくやれるかもしれねぇな。……ジジババになった時、どうなってるかは知らねーが」
――
世界悪意は憎悪の感情を謳った。
『我に刃向かう者は、押し並べて疎ましい。なぜ思い通りにならない? 意のままに動け。黙って従え。そうでなければ、ただひたすらに邪魔なだけだ』
楓也は答えた。
「あなたが嫌っているその人たちが、他の誰かに好かれていることだってある。差別の烙印を押し続ける限り、あなただけに献身する人は現れない」
――
世界悪意は攻撃の感情を謳った。
『仇なすものは殺す。排除する。我が生きるために。我を証明するために』
佳果は答えた。
「ぶっ壊した先には、なーんも残らねぇぜ? あるのはせいぜい、最初から持ってた孤独だけだ」
――
世界悪意は羨望の感情を謳った。
『醜いやつほど、我にないものを持っている。なぜだ。我と他者とで何が違う? もどかしい。他者に成り代わってやりたい。……しあわせが欲しい』
楓也は答えた。
「目障りだと思う場所を避けてるうちは、永遠に見つけられない。愛情って、明るいところに隠れてるから」
『愛情……? ……そうだ……我を満たすは……満たし得るは、愛のみ……』
◇
瘴気が少し中和され、大元の黒いモヤが見え始めた。変化を観測したムンディとノーストは小さく反応したが、そのまま静観する。離れた場所で祈っていた四名も、空間に伝わる波動の揺らぎを感知し、おそるおそる振り返った。
依然として影のなかにあるものの、立ち続ける二人の勇姿がある。
彼らの顔が晴れてゆく。
「! 兄ちゃんたち、なんとか踏ん張ってるみたいだ!」
「ええ。まだ予断を許さない状況ではありますが……佳果さん、楓也ちゃん。どうか無事に帰ってきて……!」
「きっと大丈夫ですよ! あの二人は色々と規格外な高校生ですから!」
(……わたし、一生懸命に祈る。だからがんばって。死なないで)
◇
世界悪意は執着の感情を謳った。
『愛が欲しい。我が得た物をやろう。代わりに愛をよこせ』
佳果は答えた。
「……そいつはたぶん無理だと思うぜ。お前が本当に欲しいもんは、対価を渡して貰えるもんじゃねぇ。なかには、手を差し伸べるやつもいるかもしれないが……そんときお前は、気づくこともできねぇだろうしな」
――
世界悪意は独占の感情を謳った。
『みだりに愛を振りまくな。我だけに注げ。この渇きを潤すことだけに尽くせ』
楓也は答えた。
「……義務って、オアシスになり得るのかな? それはきっと、蜃気楼を追ってるだけな気がするよ」
――
世界悪意は嫉妬の感情を謳った。
『愛が広まってはならない。我の享受する量を減らすな。持つ者同士で愛を循環させるな。それは愛の浪費に過ぎない』
佳果は答えた。
「そうか? 減った分だけ、たくさんの人がくれるようになるんじゃないのか」
――
世界悪意は憤怒の感情を謳った。
『我に愛がないのは他者のせいだ。持たそうとしなかった世界に責任がある』
楓也は答えた。
「そうやって恨みの炎で自分を納得させたら……もし持てたとしても、脊髄反射で振り払っちゃうよ。爛れた心を治さないことには」
――
世界悪意は無力の感情を謳った。
『愛なき世界には失望した。諸行無常。もはや足掻くことすらも馬鹿馬鹿しい』
佳果は答えた。
「……逆に言えばよ。愛がありゃ、天地がひっくり返るわけだろ? なら、休みながらでも、探し続けるしか無いんじゃねーか」
――
世界悪意は色欲の感情を謳った。
『この色褪せた虚ろの心……彩るには、甘美な熱が必要だ』
楓也は答えた。
「逃げるための慰めは、すぐに冷たくなって余計に虚しいよ。それに、そうして透明になっちゃったら……もう誰も、見つけてくれなくなる」
――
世界悪意は懺悔の感情を謳った。
『愛のないものに価値はない。ならばいっそ、我は生まれるべきでなかった」
佳果は答えた。
「そりゃ、捏ねくり回した思考の主張だろうが。端からお前が求めてた愛っつーのは、生まれなきゃ知ることも触れることもできなかったはずだ。……心のほうはなんて言ってんのか、もう少しちゃんと聞いてやれよ」
――
世界悪意は恐怖の感情を謳った。
『おそろしい。否定されることが。認められないことが。未知の感情を抱くことが。……己を知ることが、ただおそろしい』
佳果と楓也は答えた。
「んだよ、じゃあもうわかってんじゃねぇか……望むもんの在り処が」
「自分がどれだけ変わっても、魂は変わらない。あなたの苦痛は、あなたがあなたを理解した時にどこかへ飛んでゆくはず。……ぼくがそうだったように」
『…………その光は…………まさか我にも……』
◇
次の瞬間、瘴気は輝きながらゆっくりと霧散していった。視界の戻った二人は、はっとして周囲を見渡す。そこには「お疲れさん」と座り込むムンディに、口元を緩めるノーストがいた。泣きながら抱きついてくるアーリアとヴェリスがいた。鼻の下をこするシムルと、その両肩に手を置き、微笑む零子がいた。
お読みいただきありがとうございます。
念のため表明しておきますと、筆者は無宗教です。
神関連の描写もそうですが、表現上の都合で
そうした要素を持ち出しているだけですので、
深読みせずに受け取っていただけますと幸いです。