第116話 くらがりの風
「「!」」
零子の言葉にやや意表を突かれるアーリアとナノ。だが彼女の翳に薄々気づいていた二人は、さほど動揺することもなかった。十中八九、時折みせる高揚に関わっているのだろうが――零子にとって、進退きわまる話なのは想像に難くない。
勇気を振り絞って打ち明けてくれた彼女の信頼に感謝しつつ、二人は静かな心で次の言葉を待った。
「……あたしたち、旅行とかアウトドアが好きで。よく色んな場所へ遠出してたんですけど、その日は……頂上に花畑があることで有名な、ある山を登っていたんです」
◇
「昌弥、あれ見て!」
快晴の青空、絶好のハイキング日和。さわやかな気候のなか登山デートを楽しんでいるのは、零子とその恋人である於東昌弥だ。彼らは現在、ルートの途中にある長い吊り橋を渡っている。
太陽のような笑顔で後ろを振り返った彼女は、被った帽子を手に取り、パタパタと火照った顔を扇ぎながら前方を指さしてはしゃいでいる。ツヤのある明るい栗色のショートヘアは、汗で少し顔に張り付いていた。
「おー、とうとう来たって感じだね」
頂上の花畑を遠目に確認し、目的地が近づいているのを実感する昌弥。しかしその足は、平静を装う声音に反してすくみっぱなしだった。
「うん! さあ、もう少しで橋も終わりだよ。早く行こう♪」
「零子は元気だな……オレ、これ以上歩くペース速めたら死ぬ。絶対無理」
「もー、いつもカッコいいのに締まらないなぁ。来る前は高所恐怖症だなんて一言も言ってなかったのに~」
「いやそれは本当なんだけども。でもまさかこんなやばい吊り橋があるとは思わないじゃん? 足場はところどころ抜け落ちてるし、ワイヤーはなんか老朽化してるっぽいし、手すりもすかすかだし……その上この高さだよ。そのへんの絶叫マシンよりよっぽど怖いって!」
谷底を見下ろすと、深い森が広がっている。おそらく高低差は200メートル以上あると思われるが、危険なロケーションのわりに設備は心もとない。弱気な彼を見て、零子はあっけらかんと言った。
「でもここへ来た人はみーんな、この吊り橋を渡ってあの花畑に辿り着いてるわけだし! 通過儀礼だと思って、あたしたちもがんばろう!」
「まあ、そうなぁ」
励まされて恐怖がなくなるわけではないが、苦難を乗り越えて登頂したときの感動はきっと一入だろう。今から彼女の喜ぶ姿が目に浮かぶようだ――そのビジョンを糧に、彼はため息混じりに笑って「今いくよー」と零子に声をかけた。そのときだった。
「え?」
どこからともなく、ビル風のような強風が吹きすさぶ。これまで無風だったのが嘘のように吊り橋は揺れ動き、前後にいた他の登山客たちも悲鳴をあげ始めた。
「零子、手すりに掴まれ!!」
「! うん!!」
辛うじて聞き取れた彼の声に従い、手すりを握りながらしゃがみ込んでバランスをとろうとする零子。しかし不意の出来事に動転した彼女の手元から、帽子が舞い上がって飛んでゆく。
「あっ……!!」
その帽子は以前、昌弥から貰った大切なものであった。とはいえ命と天秤にかければどちらを選ぶべきかなど自明の理であるはずなのだが――彼女は反射的に、少し手を伸ばしてしまう。刹那、追い打ちをかけるように風が襲い、均衡が崩れた。倒れ込んだ先の手すりを貫通し、落下寸前の零子。
「ッ零子ぉぉぉ!!!」
帽子が舞った時点でこうなることを直感し、身体が勝手に動いていた昌弥は、彼女の落ちる方向へと飛び込んで逆側へ押し返した。その決死の行動の結果、零子は無事バランスを取り戻すが――反作用により、彼はそのまま底の見えぬ森のなかへと消えていった。
「――――」
風も、悲鳴も、自分の鼓動でさえも。すべての音が消え失せ、急激に身体が冷え切ってゆく。零子の目に焼き付いていたのは、満足そうな笑みと死への恐怖がごちゃ混ぜになった、彼の最期の表情だった。
書いている途中、想像しすぎてしまい
フワっとくるあれに冷や汗が出ました。
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