七日目:終わり行く私から、終わらない世界へ
実のところ、七日間という言葉に特に連続した意味はなかった。
常日頃から自分のことは蔑んでいるし、愛している。同じことばかりぐるぐると考えているので、思考に進展も何もなく、同じ日々の繰り返しだ。
その中から別々の七つの日々を切り取って貼り付けた。それぞれ別のことを考えていたはずなのに、結局同じようなことばかり言っている。思考が浅いとは、まさにこのことだと少し落ち込んだ。
つまり、七日目を目指す話だったのだと思う。六日目の中盤くらいまで特に何も考えていなかったけれど、自分にそんな計画性などあるわけがなく、むしろ予想通りだった。
どちらかと言えば、六日間を綴りきったことにこそ意味はある。
七日くらいでいいかと決めたあの日から、その日数で心を縛ったあの日から、かなり時間が経ってしまったけど。本当に、ごみのように歩みは遅くて。
杜撰な六日間だった。でも、どのようなかたちであれ、あとはその日を待つだけ。そこに辿り着かなければ、何の価値もそこにはなかった。
この日にしよう、と日程を決めるようなことはしなかった。どうせ、変に意識して自分を守ろうとすることは分かりきっていたからだ。
焦りは、正直に言えばあった。でも、なるべく考えないようにした。下手に自分を追い詰めると、浅ましく何かに縋ろうとしてしまうからだ。
ただ、祈ることだけは忘れずに。
このごみのような自己愛を、騙して身体を動かすことができますように。一日でいい。自分を優しく裏切ることのできる心が育ちますように。
ここまできて祈ることしかできないなんて、本当にどうしようもなくて笑ってしまうけれど。
そして、その日は案外すぐに来た。
よく考えずとも、それは予感できるもので。六日間の意味はただそこにあった。
長距離走のいちばん苦しい時期を乗り越えた後のように、膨大な量に苦しんでいた宿題がようやくまとめに差し掛かったときのように。
終わりが見えてきたときの心というものはだいぶ軽くなるもので。
その一歩は、歩き出す前よりもずっと、踏み出しやすいのだ。
ふと、今まで歩いてきた道を振り返る。それは今物理的に歩いている道路でもあり、これまでの日々のことでもある。
別に特別な場所に来ているわけではない。前にも言ったように、これからしようとしていることは特別でもなんでもない。いつもの日々の延長線上だ。そこはいつもの往路で、帰路でもある。見慣れた景色だ。
私は割と正直に、この街のことが気に入っていた。伝統や旧体制と名のつくものが総じて怖い私にとって、新しめの街並みというのはとても心が落ち着く。三十年後にはここも古い町並みの仲間入りをしてしまうのかもしれない。でも、少なくとも今、私が名残惜しんでいることは確かだった。
道を歩くとき、振り返ることは何度もあった。
夜中に歩くときには、やはり少し怖いという気持ちもあったのだろう。けれど実際は、そのときの自分が過去の記憶を振り返っていて、それが行為にまで連動してしまっていたのだ。
過去に起こったことは変えようがないのに、何度も何度も振り返っている。立ち止まることもできずに、惰性で、俯いて前へ進む。
振り返って、振り返って、その過程に数えきれないほど転がる失態や後悔を見ても、何も振る舞いを変えられずに歩いてきて、いつの間にか、もう戻れないところまできてしまった。
いや、もう戻れないという甘い囁きに、蕩けてしまったと言った方がいいのかもしれない。
本当に私は、何もかもに甘えてしまっているのだろうなと思う。
自分の気持ちばかりを表現して、押し付けて、それを受け取る側の境遇や気持ちというものを何も考えていない。考えようとしない。そこまでの想像が追い付かなくて、後から気付いて、そのときにはもう手遅れになっている。
それは、被害者というよりは加害者のそれだ。被害者ぶっている、想像力に欠けただけの性質の悪い人。自分が他の人に抱かせた不快感や不利益、恐らく多くを察することすらできていない苛立ちを思うだけで、胸が痛む。
きっと、変わりゆくものの全てが怖いからそうなった。
のうのうと、かろうじて生きている今に縋りつきたい一心で、それ以外のほとんどを拒んだ。
そうでなければ、この脆すぎる心はすぐに折れてしまう。もしそうならなかったとしても、慣れることなど決してなく、疲労と恐怖だけが蓄積されて、ますます次の一歩の足を引っ張る。抜け出そうという気すら、起きなかった。
ひ弱すぎて何の役にも立たない心が、代わりに与えてくれたもの。
それが、このきれいな景色だ。
それは物質的なものではなくて、感覚的、感性的な。美しさを感じるものを、見出すことのできる感性と言えるのかもしれない。
その感覚が、ふつうの人とずれていたらそれはそれで罪なのだけれど。そのふつうというものは、そこまで壮大なものでもなく、身の回りにいる数人から数十人で構成される些細なもので。
そんな社会の欠片ですら、怖くて仕方がなくて、解決させることができなかった。
さらに、その美しさを、なにか意味のあるかたちで表現することができなかったのなら。
あるいは自己完結し、自分で自分の感性に価値を見出し、現実を強く生きれるのなら。そう在れたらどんなによかっただろうと思う。それはもう、焦がれるほどに。
今の私に、そのような価値はない。社会を自ら外れに行くことを許されるだけの表現ができない。この気持ちは誰の役にも立てなくて、ただひたすらに無価値だ。
でも、最後の最後まで自分に自信を持てなかった、これからもそうであろう自分の感性に、何かかける言葉があるとすれば。
ここまで私を生かし続けてきた、奇跡にも近い日々を支えていたのもまた、その心だったのだ。
この心があったせいで終わり行く日々が始まって。
この心は間違いなく、これまでの日々を、私を、生かしてきた。ここに私が立っていて、息をしていること。それが証明になる。
どちらが先か、後か、と考えるとどこか詭弁のようだけれど。
もしかしたら、強かったのかもしれない。いや、それこそ詭弁か。でも、よくここまで持ちこたえたものだと思う。何度も言うように、いつ零れ落ちてもおかしくはなかったのだ。
他人の小言ひとつで思考が彼方まで飛躍し数日間寝込むような、そんな極端な心の手綱をよく壊さずに握れていたな、と。そう思わずにはいられない。
そして、私が今まで生きてこれていた幸運の、その源泉は自分の心だけではない。むしろ、その割合は小さいかもしれない。
かつて、私が自らをしあわせだと言い切ったときのように。
心から苦しいことが何度もあって、その度に命に疑問を抱いて。きっとそれと同じ数だけ、恩恵が外の世界から与えられていた。そうでなければ、この命の持続は説明がつかない。
故に私は、しあわせもので、この上ない恩知らずだ。
ごみにごみを上塗りしていく。これから長い年月をかけて返していかなくてはならないものを、返すことができない。それは、借金にも近しい感覚だった。
そんなものは望んでいなかったなんて、何も開き直れていない。自分は望まないと思ったその瞬間に命を手放していなければ、その言葉は何の重みも持たない。
今、生きていること。主観で自分はしあわせであると認めること。それなのに生きづらさを感じていること。身の程知らずというこの状況こそが、何よりもわがままで、軽蔑されるべきことであると、信じている。
苦しい。本当に苦しかった。
苦しいなんて思うことが甘えだった。苦しいなんて思ってはいけなかった。どこで生き方を間違えたのだろうと思うけど、ただ単に、社会に生きる人である限り耐えなければならない最低限のハードルすら、逃げ続けた結果なのだろう。
苦しくて、苦しくて。
自分を否定することしかできないから。
せめて、何かを返すために、笑おう。
ぎりぎりごみ屋敷手前、ふつうを取り繕っている、特に代わり映えしない部屋。その窓から、いつもの夕日が差し込んだ。
やっぱり、きれいな夕日だった。
これを、生きてきた報酬と思えてしまえるような人が、生きていていい世界ではなかったのだ。
最初から少し焦っていたこと。自分が、自己否定に酔って粋がるような人になる前に。
少しでも感謝する心が残っている間に、この命を終わらせる。
よし、よし、と思う。きっとこれだ。この感じだ。
これは、とてもずるいことだけど。
誰のためにも、何の足しにもならないけれど。
ここから先は、感謝の言葉だけで、埋めよう。
私の見ている世界は、とても狭い。自分がたくさんのものを捨てて、見なかったふりをして、逃げてきたから。それこそ、小さな部屋ひとつで収まってしまうかもしれないほどの。
それでも、私という存在を今ここに至るまで生かしてきた。何もかもが不適合な私を、それでも命を繋いだ。
それは実際、とてもすごいことだと思うのだ。なんだか、とても傲慢なことを言っているようだけど。
さっきはそれをしあわせだと言って、自己否定の材料として使ってしまった。でもまずはしっかりお礼を言うべきであることをすっかり忘れていた。
私がこうなったのは全て私自身のせいなのだから。何度も与えられた機会を全て私が取り零した、その機会を提供してくれたのは間違いなく外の世界で、それは感謝すべきことだし、純粋にお礼を言いたいと思った。
そうして事細かに考えていくと、それはもういくつも浮かんでくるのだ。
いろんなひとと繋がれる世界であること。
それが本当にいいことなのかは、分からない。でも、そうでなければ、同じ趣味や興味を持つひとの存在すら信じることができなかった。
私は恐らく、本当に孤独でいられるほど強くはなかった。誰とも繋がらずに生きていけると言い切れるほど、強くはなかった。
だからこそ、感謝をすべきなのだと思う。手元に端末があることが当たり前の世代だから、前の時代が想像もつかないというのはある。でも、きっと、その時代では、生きていくことはもっと難しかったのだろうと思うのだ。
いろんなひとと話せる世界であること。
きっと、その機会すら与えられない人もいる。私はそうではなく、ただ手を振り払い続けた。
それが何度も続いたということは、翻せば、見捨てられなかったのだ。私からは何も返すことができていなかったのに、何度も何度も手を差し伸べてくれる人が、世界がそこにあったのだ。
それは幸せという言葉では語り尽くせないだろう。そういう意味での運の良さというものを、私は持ち合わせていたのだろうと思う。それはきっと、僻みなしに。
空が青く澄んでいること。
私の世界は小さかったけれど、それでも十分すぎるほどに、美しいものを見た。
それだけ恵まれた時代と場所に生まれたということもあるのだろうけれど。
空や木々、海の色は私には贅沢すぎるほどの価値があって、それを語ったり、見せてもらったりしていたからこそ、私は延命されていたと言えるのだろう。
だって、今でもなお、少しもったいないかもしれないと思うのだ。本当に、こういう何気ない景色が一番、深く引き留めてくるものだから、困ったものだと笑ってしまう。
最低限、衣食住を維持していけたこと。
どうして私なんかが食べていくことができたのだろうと、思うことはよくあった。
でも、もしそれに困るような状況に置かれたとき、自分はまず生き延びることができなかっただろう。実は生き汚いのかもしれないけど、それでもいろいろなことが不器用すぎるから。
ある意味で言えば、とても贅沢なことで悩んでいたのだ。もっと生死に直結するような事柄で悩んでいる人も多いような中で、その類だと真っ先に淘汰されるだろう自分が、贅沢な生き方をしてきた。
生きて、悩み続けることができたのだ。
その他にも、たくさん、たくさん。本当に数多くの、感謝というか、美しいと思ったものがある。確かな価値を感じるものが、無数に転がっている。
そして、こうやって言葉にまとめていくと、気付くことがひとつあった。
私は。生きることがしんどいと思い続けていた私は、それでも生きることを悪く思ってはいないのだ。それは、「生きることができた」という言葉によく表せるように。
不思議なものだと思う。さんざん生きることを否定しておいて、結局辿り着くのはそこなのだから。今日、ただ気分が良いだけという可能性はなくはないけど。そう思える日があるということまでは否定できない。
だから、たとえその発想が今日だけのことだったとしても、思い切ってこう考えてやるのだ。
私という個体に、たくさんの美しいものを見せてくれた。生きることで美しいものを見つける機会を増やした。その代償の、息苦しさにずっと耐え続けてきた自分の心の部分。
ひねくれているかもしれなくても、大部分の暗さに目を逸らしてでも、笑ってありがとうと言うべきだと思う。
与えられたものに感謝を。その対象がたとえ、自分の内からくるものであっても。
生きて活動していくための燃料を焚き続けた、この心を労ってやらないと、理不尽というものだろうから。
そう考えたとき。そうだねと想い、泣きそうな気持ちになった。
その応えこそが、きっと正直な気持ち、あるいは、うまく自分に酔えた、騙せた証拠というものなのだろう。
仮初でも、この心を認めてあげること。心の警戒を解き、泣き疲れたような状態にすること。これからやろうとしていることは、そうでなければ達成が難しい。
がんばってがんばって、心の底から疲れてしまうという方法もある。ある意味手堅い方法だ。
でも、私は怠け者だし、この通り自分のことが大好きだから、本当に疲れてしまう前に、つらいからと言って自分を守ろうとするだろう。使い潰せたらどれだけよかっただろうと思うけれど、仕方のないことだから。アプローチを変えていくしかなかった。
そうしていろいろと考えて、思考の中で模索して、導き出した理想論がひとつ。それを試す。というよりも、賭ける。
私は、些細なことで簡単に寝込むほどに繊細な人間だった。ふつうの人が息を吸うのと同じくらい何気なくできていることが、命を投げ出したくなるくらいに苦しくなる人だった。
それは、あるいは、このように翻せば。
その繊細さを活かして、感謝や悲しみの方に感度を高めれば、割と抵抗なく、命を捧げるようなことができるのではないだろうか、と。
命を嫌うのではなく。殴ったり、刺したりするのではなく。
そっと、砂場に置くように。静かに、大切にそのかたちを保とうとしたまま、ありがとうと言って手放すことはできないかな、と思ったのだ。
些細なことがこれだけ苦しいなら、きっと、些細な感謝で命だって捧げられる。きっとそれが私で、私たちだ。
そういう理想だ。お願いと言うか、お祈りに近いものかもしれない。
さっき思い浮かべたように、がんばった先に疲れ果ててしまうことの方が、微かにでも社会の役に立つのかもしれないけれど。正直に言えば、こっちの方がたぶん楽だ。私にとっては受け入れやすい。
思わず笑ってしまった。やっぱり怠け者だ。こうやって適度に怠けてきたから、ここまで生き延びるようなことができてしまったのかもしれない。いろんな要因のひとつにはなるだろう。
そんなことを考えながら、歩いた。
毎日、歩いた。いや、ちょっと嘘をついた。たまに歩けない日もあった。
ふつうの人々とは違う日々を歩いた。それは何か意識の高いことではなく、何度も軌道を修正しようとして、無理に重ねたりしてみて、結局歩き方が違うから離れていく道のりだった。誰かから見れば、ひどく蛇行しているように見えたかもしれない。
でも、休み休みでも、そんな日常を歩き続けていた。
その先の道は。明日の歩き方は。その先の道は。この足の踏み出し方は。その先の道は。この心の行く先は。
その先の道は。その先に見える景色は────。
今、目の前に、棄権者用の簡素なゴールテープが引かれている。
その存在に今気づいた。いや、今作ったとも、錯覚させているとも言えるのかもしれない。
周りの人々は当たり前のように歩み続けている。私には到底付けられない程に重い責任を背負って、それでも歩いている。
息切れしているのは、私くらいしか見当たらない。他にそういう人がいても、認知することが難しい。ひとりになってしまうのはとても怖くて、苦しくて、がんばって追いつこうとしていたのだと思う。
もう彼らの背中はずっと遠くまで離れてしまった。彼らが遥か前に通っただろう標のそばで、私は歩くのを止めて笑う。そして、空を見る。
ここが、私の到達点だ。
途中棄権になってしまうけど、本当によくがんばった。
何年も前からつらくて、この命に疑問を持ち続けて、次の年に生きているかどうかも怪しいような状態のまま、長らく生きてきたものだと思う。
正直に言えば、一年さえ持たないと思っていた。本当に、ひどい有様だったものだから。
でも、そうして生きてきたからこそ、色々なことを考えることができた。衝動的になることなく、この七日間まで辿り着くことができた。
苦しかったけど。本当に、ずっとずっと苦しかったけど。自分ではまず辿り着けないと思っていた年齢まで、私は生きて。子どもから若者になり。生きることを考えることができたのだ。
えへへ、と困ったように笑った。なんだか泣きたいような、吐く息は少し震えていた。
客観的に見れば、異常なまでに低いハードルなのだろう。それをひとつひとつ乗り越えていくので精いっぱいで、その度に、褒めてあげるくらいがよかったのかもしれない。
届くはずのない「ふつう」という高い壁を見上げては、これではだめだと自分を責めていたものだから、自分自身を認めてあげることがぜんぜんできていなかった。それが心残りだ。
でも、これから先に生きていこうとすると、この先もずっと「ふつう」を目の当たりにして、比較することを止められずに自分勝手に傷ついてしまうのだろう。それは少し、自分にはしんどすぎる。
だからこその棄権。もともといつ壊れるか分からなかった欠陥品の爆弾を、自分の手で処理する。そんな感覚だ。
今まで変な爆発を起こさずにじっとしてくれていたことに感謝しながら、その役目を終わらせるのだ。
さて、と呟いた。
長くなってしまったけれど、終わりはこれくらいのあっけなさで。たぶん、それでいいのだ。
淡々と、穏やかに。感謝の麻薬で心をぼやかして、それを拒絶しないように。
今日もまた、夕陽を見ている。今日もきれいな空だった。見上げれば、いくつか星も瞬いていて。きれいな景色が見れなくなることには、少しだけ名残惜しさがある。
それと、もうひとつ。私がいなくなることで、残念に思う人が少しはいるかもしれない。それは、今までの投資に全く見合っていないということもあるけど、単純に出会えたことを喜んでくれる人もいたから。
いろいろと心苦しさはあるけれど、そうしたらいつまでも最後の一歩を踏み出せなくなる。責任感と、逃げてはいけないという気持ちが頭をもたげてきてしまうから。
だから、これもごまかす。とびきり明るい、手紙を書こうと思うのだ。
誰かを責めるような発想がなくてよかった。全部自分のせいにするのはとても傲慢なことだけど、だからこそ、この手紙を申し訳なさと感謝だけで染められる。
他人を拒絶したのも自分だし、ここまで拗らせてしまったのも自分だ。だからどうか、重く受け止めないでほしい。ようやく行くべき場所へと行った、そんな認識で十分だ。
仕方がなかったのだと、そうやって諦めたり、軽蔑してもらえる文章でいい。少しのごめんなさいと、たくさんのありがとうで埋めよう。
よし、とまた呟く。そうしたら後は、いつものことのように。
できるだけ、できる限り迷惑がかかる人が少なくなる方法で。
そっと踏み出す。途中退場のゴールテープを切りに行く。
今まで生きていてごめんなさい。でも、今まで生かしてくれてありがとう。
その言葉を何度も頭の中で繰り返しながら、静かに。
静かに、幕を閉ざす。
星が瞬き始めた空は、いくつか雲が浮かぶ空は、とてもきれいだった。
今日も明日も、私がいなくなっても世界は何も変わらずに続く。それでいい。だからこそ、こんなに無責任なことができるのだから。
今、終わり行く私から、終わらない世界へ向けて。
ありがとう。ずっと考えさせてくれてありがとう。色彩を与えてくれてありがとう。言葉という媒体があってくれてありがとう。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
同じことを言い続けるばかりだった、退屈だろう日々に、価値を与えてくれてありがとう。
あなたの日々に、何かしらの彩りがありますように。ほんの少しでも、しあわせになれますように。
本当に、ありがとう────。