四日目:差し伸ばされた救いの手を、取れない
その日、私は夢を見た。
非現実的な夢だ。みすぼらしい銃を抱え、空恐ろしいほどに空虚な瞳をした少年に、延々と追いかけられる夢。
見つかれば命を奪われる、という確信だけがあって、これが殺意を持つ人に追いかけられる気持ちかと、息が詰まるほどの恐怖に駆られながら走り、隠れ続けていた。
いよいよ見つかる、というところで目が覚めた。どうして夢の中の私は、あの非現実な設定を信じてしまうのだろうと苦笑いを浮かべた。
ああ、まだまだだ。
殺意を以て私を殺しに来るあの銃弾を前に、逃げてしまうなんて。
堂々と自分の姿を晒してみればよかった。自分に向けて放たれる銃弾を愛おしく思いたかった。
辿り着きたい精神性はまだ遠い。あの夢は一つの指標で、私は自らの理想を抱く。
避けようもない空間で、自らを撃ち抜く銃弾。痛みや、死への本能的な恐怖。そんなものはどうでもよくて、それら全て雑音として。笑って。
優しく、笑っていたいのだ。
そんな美しさを、抱きしめていたいのだ。
今日は、人から薦められた本を読むことにした。
自己啓発本と呼ばれる類のものだ。これから終わろうとしている身としては、なんで読んでいるのか謎すぎるところではあるけど。
これは好きで読む人もいれば、嫌って読まない人もいるらしい。私としてはどちらの気持ちも分かると言ったところ。
こんな本に価値はないと誰かが言うならその通りだろうし、この本は信用できると誰かが言うなら、それもまたきっと正しい。
生きていくうえで必要なことは、自分の意見というものをしっかり持つことだ。たったそれだけのことができていないと、些細なことでも簡単に迷子になってしまう。この私のように。
読み進めていくと、気になる記述を見つけた。
それは、世間からすれば十分に甘やかされて生きている私が、終わりへの目標を持つに至った理由のひとつを説明できているような気がした。
読み取り方を間違っていなければいいけど。いや、きっと間違っているだろう。
題材が何であろうと、こうやって本を出すまでの大変さと、そこに至るまでにかけた時間のことを考えれば、これからの私の意見が浅はかであることは間違いない。
そこに書かれていたのは、人の感情や思考といったものは、全てその人が望んだ結果に過ぎないということだった。
何かでかっとなって怒ってしまうようなとき、それは不可抗力ではなくて、しっかりと自分の感情の手綱は握られていて、その上で怒ることを選択しているのだ、と。
不幸せだ、環境が悪い、と思うことすら、自分がその状態を望んでいるからなのだと。
流石にそれは、と思ったけど、読み進めていくと確かにその通りだと思えてきた。
本当に。本当に不幸な巡り合わせというのはあると思う。けれど、それを除けば確かに。私は確かに、自分の感情を取捨選択している。自分に都合のいいように、物事を捉え続けている。
全ては、変わることを恐れているからだ、とその記述は続く。
何かへの依存を自覚して、受け入れて。不幸せだと思う理由を分析して、避けて。逃れられるわけがないという心の縛りこそが、心の拠り所になっているという事実に、向き合うことが怖いから。
そうやって新しい世界に踏み込んでいくことが怖いから、現状を嘆きながらも無意識にその維持を望むのだ、と。
天井を仰ぐ。少しだけ途方に暮れた。そして、その後に思わず笑ってしまった。
もしそうなら、私は何を望んだのだろう。あの日の願いは、それによって生じる迷惑のことも考えないで、ただ楽をしたいだけなんじゃないか、と。
現実で関わる人や、SNS、いろいろなことに雁字搦めにされているように見えて、実際は世界を見る目を少し変えるだけで解決することなのかもしれない。
もっと大変な人や状況はたくさんあるだろう中で、私はきっと、とても簡単に解決できる悩みしか抱えていない。やっぱり、甘えているだけだ、という事実が重く圧し掛かる。
でも、その上で、本当に浅はかで甘やかした考えだけれど、思うことがあるとすれば。
もう、それでいい。行きつくところまで行ってしまおう。
自分の心の弱さを嘆いて、それを盾にして、楽をしようとする愚かさを知った。けれど、それでもいい。
自分の命を自分で終わらせるという願いすら、体よく飾り立てた甘えで、それに向かってがんばるなんて表現は何もがんばったことにならないことに気付いた。けれど、それでもいい。
本当に、本当にごみのような人間だ。こんなことを考えている暇があったら、もっとふつうの人らしい行いをしないといけないのに。
このまま生きることも許されない。自分勝手に終わることもきっと許されない。許されるのは、ただただふつうの人として、心を変えて、これ以上の迷惑をかけないように。
それが分かっていながら、私は変わる怖さと痛みを乗り越えないままに、許されない一つの選択へ踏み出そうとしている。
なぜなら、そうだ。本当に、吐き捨てたいほどに弱いから。
自分が望んで心を苦しめていることを分かっていても、そちらに縋りつくことを止めようとは思わなかったから。
ある種の、救いようのない人間というものに。私は、惹かれてしまっているから。
ひとつ、言えることがあるとするならば。
不幸せを例えにしてきたけれど、じゃあ今の私は、不幸せなのだろうか。
その問いにだけは、自信をもって答えられる。それが、願いをかなえるための大きな支えになってくれている。
しあわせだ。今の私は。間違いない。
人間関係も、経済的な事情も、これまでの境遇も全て。何の問題もなく、不自由もなく。
ふつうの人であれば、何の気兼ねもなく謳歌できたであろう日々を。
私は、私の甘えた性根のせいで、いじめられ、自立できず、このような願いまで抱くような結果にしてしまった。
環境は良かった。諸悪の根源は私が私として生きてきたことにあった。確実に私はしあわせ者だった。私がこんな心だったから、そのしあわせをうまく使えなかった。
十分なほどに与えられた機会と、環境を。ふつうの人らしく生きていくことができただろうこれまでの人生を。
その自覚もありながら、それでもなお社会に適応できない人が、これから先に生きていけるはずもない。生きていけるとは思えない。そんなことを言って、現実から目を逸らして甘えている。
偉そうなことを言って、全くの見当違いかもしれないけれど。
以前にも言ったように、今は社会の役に立たない人が生きていけるような余裕はどこにもないから。そうなってしまった人を、責めるから。私自身が、そうだから。
それを逆手に取れば、社会の役に立つ自信がないことを免罪符に、生きていくことを諦めることが許されるかもしれない、なんて。
さっきとは言っていることが違うし、詭弁だろうけど、そんな裏技のようなものを私は楽しく思う。
しあわせなままに終わるのだ。もう何を言われても仕方がない。
後はその瞬間をできるだけ朗らかに迎えられるように、どこまでも付きまとう、逃げることは迷惑という恐怖を乗り越えられるように、一人でがんばっていこう。
以前、他人との接し方で見ている心象世界について語った。
それに近いものを、この本からは読み取った。いや、書かれていることは、私の在り方を真っ向から否定するものではあったけれど。
自分と他人を分けること。境界線に踏み込まないこと。そうすることで、初めて自分主体になれて、見える世界が変わること。
はっとした。確かに、それは本当に景色が一変してしまうかもしれないと思った。その先にあるものは、自分から見ても、他人から見ても、価値あるものだろうなと感じた。
その上で、ひとつ言えることがあるとするなら。これは、私ですら全く届いていないものだけれど。
人と人との境界線。しっかり引くべきと語られていたそれが、そもそも存在しない生き方というのは。果たして叶うだろうか。
さらに、その上で自分自身にだけ意識を向けて、境界線がないが故に自分というものが溶けていってしまって、誰にも気づかれないくらいの薄さになって、消えてしまうくらいの自意識の薄さに、辿り着くことはできるだろうか。
そこから見える景色は、その本で言うところの本当の底まで落ちきったところにたゆたう意識は、とても美しくて、愛おしいもののような気がして。
そういう意味で私は、自分自身をまったく大切に想えない人というものに、ひどく憧れてしまうのだ。
見下しているわけでも、皮肉でもない。いや、本当の気持ちなんて私自身に分かるはずがないけど、私はその真逆にいる人だということは分かる。
だからこそ、憧れを見出すのかもしれない。
だって、その生き方は、他の全ての生き方というものを心から尊敬できるはずだから。
自意識は溶けている。ほとんど何もせずとも相手に共感し、そして同調する。社会から読み取った空気や評価と、その人から読み取った大変さの間に板挟みになって、苦しむ。
そうしてでも生きているということが、どれだけすごいことか。あるかも分からなくなった心で確かに頷く。
自分を大切に想えないから、自分というものがとても希薄だから、自分のことを守ろうとせずに生きることができる。本当に他人のためだけに生きることができる。社会の役に立つために、命の全てを使い切ることができる。
どこか奴隷のような生き方かもしれないけれど。一歩道を踏み外せば悪い方にも突き進んでしまえる危険性を孕んでいることも否定できないけれど、それでも。
私は、私以外の全ての人を尊敬して生きるという歪みに憧れる。
奇しくもそれは、全てのものに境界線が引けた人も至ることができるものらしい。
今の私は真逆だ。自分が愛おしくてたまらない、自分自身は努力も何もせずに、ありのままの自分を愛してほしいと願うごみに過ぎない。
ただ、自他同一視の傾向はかなり強くて、より近しく感じているから、そちらの方に惹かれてしまうのだろう。
何か叶えたい願い事があるとすればそれは、自尊心の全てを捨て去ることだ。その上で、自分の意思が何もなくなったその人形に、誰かの迷惑にさえならなければいいよ、と楔を打ち込むことができればいい。
あの日に見た夢のように。
自分の命というものに全く価値を見出さず、いつ手放しても笑っていられるくらいの優しさに染まっていたかった。
……今からでも、その片鱗だけでも掴めるだろうか。
……いや、きっと指先すらも遠く、届かないだろう。
かろうじてできていることと言えば、私がこうなってしまった理由を全て内在させることだ。本当は他人の領域にあったかもしれない理由まで全て、自分のせいだと抱え込むことくらいだ。
これが自他同一視の傲慢さであり、祝福でもある。その在り方だけは、とてもいいものだと私は思う。
少なくとも、世間から見て本当に恵まれていた私が、外に理由を求めることだけはあってはいけない。
私の存在が社会に認められないなんて見方は間違っていて、本当に甘えていて、独りよがりで。
結局は、私自身が私を認めていないだけだという、本当に小さくて滑稽な自演だということに気付いたとき。最も遠いと思っていたはずの感情が、心の大部分を支配していると悟ったとき。
私は、私なりの方法で歩んでいくしかない。
この醜さを、私自身の手で消し去ってしまうまで。
もうほとんど動くことのできないこの心身でできる、思いつく限りの手段を尽くしていきたい。