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三日目:浅い自分の心しか、知らない

 

 親切な人だね。と言われることがある。


 その度に、愛想笑いで返している。そんなことないよ、というと謙遜しているみたいだし、そうなんだよ、と言うわけにもいかないので、難しい。

 そういう話になると居心地が悪くなって、逃げるようにその場から去ってしまう。過剰な感謝を受け取りたくない。

 ありがた迷惑だったり、いい子ぶっているように思われているかもしれない。けれど、どうやって対処すればいいのか分からない。


 ……本当は。ぜんぶ自分のためにやっていることなんだよ。本当の親切ではないんだよ。私は、この場にいる誰よりも自己中心的なんだよ。

 そう、本心を話したとき。

 はたしてそれは、正しい意味で伝わるだろうか。






 街中を歩いている。空の色は青い。


 車通りも人の気配もあるけれど、混雑しているというほどのものでもない。

 ちょうどいい、くらいだと私は思う。少し見栄を張ったかもしれない。まだ少なくてもいいかも。

 ここはぜんぜん田舎だよ、何もなくてつまらない。と誰かが言っていた。きっと、その考えがふつうで、正しいのだろうなと思う。


 街中は、少しだけ居心地が悪い。私のような間違った人が、歩いていいような場所ではない気がする。当たり前のように道行く人たちの、生きる世界が少し眩しい。

 車か自転車でも使えばいい、歩くなんて時間の無駄じゃないの。と誰かに言われたことがある。

 その言葉だけで、私が本来ここにいてはいけない理由としては十分だ。私は、ふつうの人のようにさっさと車に乗って、もっと他の人が価値を感じるものに時間を費やすべきだった。居心地の悪さは、きっとそういうところから来ているのだろう。


 顔も性格も知らないけれど、そんな誰かがたくさんいる。ふつうの感性を、正しい認識を私に教えてくれる人がいる。

 例えばそれは、日常の過ごし方であったり、楽しいと感じなければならないものの定義だったり。SNSにいる人々も例外ではない。

 日によっては一日に何度も経験する。その度に申し訳ない気持ちになる。

 私にとって、多くの人の共通認識から外れた考えを持つことは、とても悪いことだから。だってそれは大抵の場合、いろいろな人に及ぼす迷惑の温床になってしまう。

 社会に生きる人たちというのは、私にとって全て先生のような感覚だった。認識がずれがちな自分を定めてくれて、いろいろなことを教えてくれる。いつも、教わってばかりだった。


 てくてくと歩いて、するべきことをする場所へと着いた。何人かの人がいて、挨拶をする。

 ここにいる人たちは、街中の誰かよりもう少し私と深く関わる。私は引きこもりがちだから、もう少しどころではないかもしれない。

 その場所には雰囲気というものがある。盛り上がっていたり、落ち着いていたり、調子がよさそうだったり、逆にぴりぴりしていたり。

 その場へ踏み込んですぐに、私は雰囲気によって自分の色合いを変える。警戒を解いたり、逆に強めたりする。


 私は、自分のことを空気が読める人間だとは思っていない。それは器用で余裕のある人が為せることで、私はその対極にいるはずだ。

 その代わりに、その場の雰囲気を感じ取ることで今までごまかしてきた。それでも、多くの人からすれば存在が迷惑の範疇にあるだろうけれど。かろうじてその感性は生きてくれていた。

 場の穏やかさは生きるために必要な空気のようなもので、楽しさとは自分の感性を試す試練のようなもの。そして不穏とは、無数の針として肌に突き刺さり、呼吸をするための空気も与えられていない、過酷な環境だ。

 だから私は身構える。浅ましくも、自分が傷つくことを避けるために。最近の私の目標と矛盾してしまっているだろうか。分からない。


 八方美人という言葉が、昔から心に引っかかっている。

 人や集団によって自分の態度を変えるのは、とても悪いことだと本で読んだことがある。八方美人という言葉も、悪いものとしての意味合いが強いと思う。

 それなら、私はもうどうしようもなく悪者だった。こうする以外にどうやって生きていけばいいのか分からないくらいに、心と体に染みついてしまっている。


 今、依存してしまっているSNSでも、同じようなことが言えるかもしれない。


 SNSには、様々な情報と、人の思惑が海のように溢れている。

 思わず微笑んでしまうようなときもあれば、とても悲しい気持ちになるときもある。人には裏と表があるということを教えてくれている。

 私は、その前提すらうまく処理できていなかった。


 例えば、何か対立する構図があったとして。

 いがみ合っている人たちの意見をそれぞれ聞いて、あなたはどちらにつきますか、と問われたときに、私は困ってしまうことが多かった。

 どちらの意見も、同じくらいに分かる。なんて回答は求められていないことは分かっている。

 それでも、難しかった。そういうときにも、八方美人という言葉が頭の中でちらついて、沈んだ気持ちになってくる。


 私が考えてもいなかった意見を目にして、衝撃を受けることもある。

 その予想外の切り口の意見というものは、思考して歩いている中にずん、と降ってきた大岩のようなもの。

 そんなとき、私はどんな反応をしたらいいか咄嗟に分からなくなってしまって。結果的に、苦しいという着地点のない感情を抱えてしまうことが多かった。

 自分と他人が違う意見を持つという当たり前すぎる事実を、苦しみとして変換してしまう。できてしまう。簡単な地獄のできあがりだった。




 ……本当に、幼い心だ。

 現実でもインターネットでも、どことなく感じている孤独は、ごくごく当然の摂理だった。

 八方美人とは、つまるところ誰も信用していないのと同じだ、という巷の言葉は、本質を突いているように感じる。

 私は、自分の内心を誰かに相談しようと思ったことはなかったから。いや、それこそその程度で相談なんてしないのがふつうのことなのだろうけれど。


 けれど、じゃあどうすればよかったのだろうとも思う。

 誰かと意見が合わない状況、誰かが不機嫌でいる場というだけで辛くて、するべきことが何も手につかなくなる。だから、それを避けるために自分なりに考えて見出した処世術だった。

 自分と他人の境界線が分からなくて、自分の心に簡単に踏み入られるような感覚を味わったり、逆に他人の領域にまで無意識に踏み込もうとしてしまう。そこから悲劇を生まないために、人と距離を取った。

 こうするしかなかったんだと、そう思いたくて。


 思わず笑ってしまう。自分を悲劇の主人公か何かと勘違いしているかのような。あまりにお門違いで、自意識過剰な独白だ。

 『だから何だ、迷惑なことに変わりはないから、さっさといなくなってくれ』

 私の気持ちばかりを押し付けて、面倒くさくなった相手が発するだろうその一言に、反論の余地などどこにもない。いくら私が言葉を積み重ねても、その言葉は越えられない。

 ふつうの人が放つだろう、その無関心と容赦のなさが、私にとっては数少ない無条件で信じられるもののひとつだった。


 だからこそ私は、私が信じるもののために。私を社会から退場させないといけない。

 やっぱり自分に酔っている風だけれど、それでも、それすら最後に行動に移すための薪になってくれるなら、なんだって利用するつもりだ。

 自分を生かそうとする方向性の思い込みの場合だと逆効果だけれど、そればかりは今は判別ができない。

 でも、それなりに効力が見出せそうではあるのだ。なぜなら、それは。


 これまで必死になって取り繕ってきたものが、大切に組み上げてきた心の防壁が。

 『面倒だから、消えてほしい』という何気ない一言で全て瓦解する様子は、少しきれいなように思えるからだ。




 もう少し、深いところまで語ろう。

 私にとって、人との関係性を描く心象世界は、少し現実と見え方が違ってくる。

 その世界は、なんと言えばいいのだろう。とても脆くて、儚いものだ。

 ここからは、自分の内側の話になる。




 一枚のガラスだけでできたような透明な地面が、どこまでも続いている。

 その上に人々が立っている。砂の集まりのような薄い輪郭だけを残した、今にも崩れてしまいそうなかたちの人が、何人も、何人も。


 私は、彼らに手を触れる。それは言葉で、目で、肌で。何かしらの手段でコミュニケーションを図る。

 恐る恐る触れて、反応を確かめて、たいていの人は、最初は優しく手を握り返してくれる。その度にほっとする。そうできている間は、関係性を保てている証拠だ。

 ただ、砂を押し固めもせずに集めたものが、そのかたちを保ち続けられないのと同じで。そんな人との繋がりは、本当に些細なことで、崩れ去る。


 ほんの小さい、小さすぎるものでも悪意が私に向けて伝えられたのなら。怒鳴り声や不機嫌な雰囲気が周囲に向けて放たれていて、それが私に及んでしまったら。

 その判断をするのは私だ。本当は世間の評価に合わせた方がいい。けれど、変えられない。他の人にしてみれば、あまりにも理不尽だろう。過敏な感性だ。


 小さな針がちくりと手を刺して。それは一瞬で、ホチキスで指を挟んだかのような形容しがたい痛みとして私の身体を駆け巡る。その手は、反射的に払いのけられている。

 ああ、と私が思ったときには、それまでやっとのことで手を握り続けられていたその人との関係は、終わる。

 人の輪郭を保っていたものが崩れ去って、細かく砕けた陶器のように地面に散らばって。もう、決して元には戻らない。私は、もうそれに触れることはできない。怖いからだ。再び針で刺されることを、極端に恐れてしまうからだ。


 地面に散らばった、かつて手を握っていた人だったものから視界を外して、またやってしまったと、俯きながら歩き出す。そのうちにまた誰かと出会って、そう時間もかからないうちにまた手を振り解く。

 そうやって、もう何人の人に心を閉ざしてきただろう。内心でひどく怯えながら言葉のやり取りをする相手が、どれだけ増えただろう。


 心の底を見せることができる人なんて、そう見つかるものじゃない、甘えるな、と誰かが言っていた。

 その通りだと思う。私の本当の気持ちを分かってくれる人なんていない、のではなくて。その前提として、私は、私に関わった人の気持ちを分かろうとすることを拒絶してしまったのだ。私の勝手な感性によって。


 私はきっと、私の全てを受け入れてくれるような人しか受け入れることができないのだろう。私自身は何も努力をしないままに。

 このあまりにも都合のいい考え方に吐き気すらした。けれど、私は私で在り続けていることに精いっぱいで、とても手が回らない。

 そう思い込んでいる。目を逸らすための理由を探している。


 ただ一人で、空に立っているかのような心象世界を歩き続ける。

 人と繋がって、自分勝手に痛みを感じて、逃げ去ることを繰り返す。

 自業自得の、一人旅だ。




 そして今、ここまで来た。

 今日も、わたしは歩いている。普段通りから少しずつ離れていく生活を続けながら、歩いている。


 ああ、だめだったんだな。と。一年くらい前に、受け入れた。

 変われなかった。もう、変わろうとは思わないことにした。

 相変わらず、人の言葉に、あらゆる人の持つ「ふつう」に苛まれている。そういうものなのだ。私は。自分でも苦笑してしまうくらいに不器用なのだ。


 その代わりに手に入れた。

 どうしようもなく偏屈で、ひねくれて、手の施しようがなくなってしまった対人関係の世界の奥深くは。


 ────人並み以下だろうけれど、きれいな空だ。

 だって、そこには誰もいない。信じられる人を見つけることをしなかったからだ。

 現実ではないかのようだ。現実に存在しようとする努力を最後までしなかったからだ。

 きれいだと思う。これを否定したから苦しんで、でも、手放さなかったからそういう風に見えてしまっているのだ。そうしてでも、自分しか愛せなかったのだ。


 社会にとっては、甘えに浸って、吐き捨てるほどに価値のないものかもしれないけれど。

 私にとっては、空色、あるいは夜の色に澄みきったかたちに見える。


 これが、心の弱い私の世界。

 せめて、私だけでも大切にしようと思った居場所だ。


 そして、そんな自己陶酔しきった気持ちの悪い心の持ち主が、この先に生きていてはいけないことが、かろうじて認識できている間に。

 この心が被害妄想で被害者面の化け物になってしまう前に。


 はやく。はやく。


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