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二日目:自分を好きになれないという罪

 

 あるとき、とても強かなひとが隣に座っていたことがある。

 要領がよくて、なんでもできて、打たれ強くて。本当に私の対極にいるような人だった。


 彼もまた、価値観が他の人とは変わっていて。そういう意味で代わり者同士、話をすることは多かった。

 片や暇潰し、片や嫌われないための取り繕いという悲しい構図だったけれど。


「だからさ、世間にはマジで使えないやつっているんだよな。最近増えたんだ。ちょっと叱られただけで仕事辞めるやつとか」

「ああ、いるよね。そういうのでダメージ大きい人」

「それ。叱るっつうか、ただの小言程度だぞ。なのに『傷つきました~』とか言って病院行って診断書とかいうの貰ってきてさ。マジで、マジで使えない。そういう奴ほどありえんくらい仕事遅いくせにさ。ああいうのにはなったらダメだ。死んだほうがいい」

「実感こもってるなあ……」

「新入りでたまにいるんだよ。信じられないだろ。この年にもなってアレとかマジで終わってる。あいつら仕事辞めたらどうするんだ? ずっと親のすね齧って生きてくんかな」

「……うーん。俗に言う引きこもりってやつかもね」

「それだ。引きこもりがあんなんばっかだったらマジでこの国沈むって。俺あんなやつらのために税金払いたくねえもん。気持ち悪い。引きこもりは全員死刑でいいだろ。自分で食い扶持稼げないやつは死ねって法律ができない理由がマジで謎だ」

「……その気持ち、分かるなあ……」

「な。お前もやってみないか? やっぱ接客がいちばんおすすめだ。社会勉強になるから。俺は大っ嫌いだけどな」

「君の愚痴聞いてやりたいと思う人がいたらもっとやばいでしょ」

「ははっ、違いない! ミスったな。今度また印象操作しとくわ。忘れといてくれ」

「なんだそれ」


 ……はやく覚悟を決めないとな、と思った。






 どさり、と倒れ込む。普段着のままで。はあぁ、と吐き出した息は、少し震えていた。

 いつもの日々の欠片。その日、私はとても疲れていた。


 たくさんの人と話す機会があった。私にとっては、たくさんだった。

 そうしていく中で、話が合う人もいれば、合わない人もいる。気が強い人もいれば、そうでない人もいる。その人には、その人なりの正しさがある。

 当たり前のことだけれど、実は、私はそれを受け入れることができていない。その状態のまま話だけを合わせるから、こんなことになる。


 心がぼうっとしている。今日はもうだめみたいだった。

 使えないなあ、と笑った。本当に、使えない人罪だ。

 人罪。人材の捩りで存在が罪というあの言葉は、何かの偉い人から聞いた。あまりにも救いがなくて笑ってしまうけれど、自分にこそ、当てはまるのだろうと思う。


 ふつうの人は、人と話すことを前提に、するべきことをこなしていくのだから。

 その前提で躓いて、疲れたと言っているような私に、与えられるものなど何もない。


 苦しさを感じるものと、向き合い続けることはとても大変だ。これはふつうの人も同じだろう。

 私にとってそれは、人と関わることだった。これも、当たり前だと頷く人はきっと多いはず。

 ただ、私はこの手の苦しみにとても弱くて、社会の基準をずっと下回っている。


 他の人にとっては、面倒だな、くらいの感覚で。

 私にとっては、そのひとつひとつが大きな出来事として処理されている。

 その人の機嫌も、好き嫌いも、価値観も、全てを受け止めて、いっぱいいっぱいになりながら処理している。その時点で、社会に批准できるはずもない。


 人と話すことと、溺れそうな感覚は重なっていて。

 相手の不機嫌や、価値観の違いは、大波となって私に押し寄せる。

 当然、溺れる。心の中で。また呼吸ができるようにはなっても、そこにはぞっとするような恐怖が刻み込まれる。


 そんな苦しさは、記憶に残って自分を縛り付ける。溺れるまでのしきいが低ければ低いほど、思い出になる数が増えていく。

 思い出のひもが一本、二本と心の上に覆いかぶさっていて、それはやがて網となって、心をそれ以上に弾ませなくなってしまう。


 それだけの量の、記憶がある。今このときも、積み重なっている。

 そう。思い返せば、いくつでも紡ぎ出せるほどに。


 内心を悟られてしまうのが、とても怖かった。心を傷つけられることを恐れていた。

 心では全く違うことを考えながら、他の人に話題を合わせていく。ありとあらゆる人にそうしてきたら、いつの間にか自尊心が果てしないほどに膨らんでしまっていた。

 そして、その上でもぼろはでる。ほとんどの人がおもしろいと思えるものをそう思えなくて、想像で話を合わせているのだから。不器用な私にうまくできるはずもなかった。

 そうなってしまったら、当然のようにその場は冷める。場違いなことを言ってしまったときの、あの空気。ありがちなことで、けれど決して慣れることはない。


 ひとりでいる時間が欲しかった。

 何の情報も入れず、生産的な思考を何もせず、ただただぼうっとしているような、身体ではなくて心を眠らせるような、そんな時間。

 他人が近くにいると、それがどんな状況であれ、そんな時間が欲しくてたまらなくなる。徐々に息が苦しくなって喘いでしまう感覚に近い。

 疲れるのだ。ただ他の人と居続けるというだけで。それが人としての根本的な欠陥だというのに。

 楽しく話せているときですら、例外ではない。自分ではどうにもならなくて、本当に申し訳なくて。

 耐え続けて、その先に電池が切れてしまったときの私は、ひどく間抜けな表情をしているらしい。笑われて、取り繕うようにして私も笑った。ただただ、嗤うしかなかった。


 本当に些細なことで、心が折れた。

「ただの小言程度」と彼は言っていた。それで病院にまで行く事態になってしまう人の気持ちが、私には分かりすぎてしまうくらいに、分かる。それはきっと、私にとっても致命傷になるだろうから。

 慣れることは、ないのだろう。どうして慣れるということすらできないのだろう。ほんの小さな言葉の刃が刺さるだけで、どうして、どうしてこんなに。血が流れる。

 痛みなんて感じたくなかった。こんなことで心を折りたくはなかった。他の人はがんばっているのに、他の人だって苦しい思いをしているのに。私だけが楽をしている。

 自分の心が分からなくて、悔しくて、情けなくて。泣き出しそうな息を吐きながら、自らの体を抱いた。


 思い出のひと欠片ですら、これだ。

 これら全ては、世間からすれば甘えに属するもの。私も、それを否定できない。否定する権利があるはずもない。

 私のような心の持ち主は、変わるか、消えるかしないといけないということを、私はどこまで自覚できているのだろうか。世間はきっと、私が思っている以上に。


 私は、変わろうとしなかった。変わることなんかできないと思い込み続けて、今もその思想で在り続けている。

 自覚から数年経っても、社会の基準に辿り着くどころか、一歩を踏み出すことすらできなかった。


 だから、もう一つの選択肢を、私は自分の手で遂げないといけなかった。

 存在ごと消して、もとからこんな人はいなかったんだよ、という扱いになれたら良いけれど、あくまで理想でしかない。それなら、現実にできる最善を選ぶ。

 他人の手で自分を終わらせてもらうなんて、その人の人生にとってとても迷惑な話。命を終わらせるなら自分の手で。


 こういうときに、なにかの物語であれば、命を終わらせることを手伝ってくれる、あるいは否定してくれる誰かがいるのだろうか。

 羨ましいなと思う。きっと私も、心の大部分で救いを求めている。そしてそれは、笑わずに話を聞いてくれるという、ただそれだけで十分だったりするから。

 そして、そんな願いは叶わない。それが、物語と現実のどうしようもない違いだ。


 自分の気持ちに共感してくれるひとは、きっとどこかにいる。いないなんて思ったらいけない。

 悲劇の主人公なんて高尚なものではなくて、ただただ、出会う努力をしなかっただけ。自分が救いようのない、救う価値もない存在に甘んじ続けていたというだけ。


 自分に酔っているというのなら、それでもいい。

 たぶん、自分の感じている大事なものはその議論の延長線上にはないし、今はこういった思考が答えへの導きになってくれているような気がするから。

 辿り着かないといけない答えは、自分自身の幕引きを自分で担う心の持ち方。そこを歪めてはいけない。


 人と話しているとき、いつも自分の感性とせめぎ合い続けた。

 自分の領域を少しでも侵されれば、過剰な反応を示してしまうほどに、自分だけに気持ちが向いていた。

 全ては自己責任の社会の中で、もう戻れないところまで歪んでしまった人が、自らが背負った責任を全うするには。


「……しんどい。しんどいなあ……」


 いつもの日々の、帰り道。

 歩きながら、そう一人で呟く。天気はいいけれど、少し肌寒い。意識するまでもなく、微笑みが浮かんでいた。


 以前は使命感だけがあった。私は生きていてはいけないのだと。それなのに生きることを止められない。どうして生きているんだと、延々と悩み続けて。

 今は、どうだろう。あのときの傷跡だけは、生々しく残っている。


 変われなかった。変わらなかった。私は、私だ。

 私は、誰よりも私が大切で、私自身を傷つけたくなくて、私を守ろうとしていた。


 そんな頑なな自分の心に牙を向けるのではなくて、そっと、指先だけ触れるような。

 お疲れさま。もう、休もう。と笑いかける。


 わがままが過ぎて、世間からは、なんでこんなやつがいるんだろう。いなくなればいいのに、と思われる存在が、本当にいなくなってしまうというだけの。

 それだけの話にできるように。本当はもっと残酷に退場するべき身が、ずるをするくらいの感覚で、いたずらっ子のように笑おう。




 空を見上げた。

 その道に立っているのは、私だけだったから。


 辛いとか、苦しいとかの感情しか思い浮かばないはずの想像の中で、ふと浮かび上がってくる、この得体のしれない気持ちを何と呼べばいいのだろう。

 思わず涙を零してしまうような、身体の奥から熱いものがこみ上げてくるような、崩れていく情緒の先に存在する衝動は、何物にも代え難いものだった。

 理性は手放される寸前で、でも握られていることは確かで、滲んだ視界の先の、この不確かな情景をたまらなくきれいだと想う。


 脆い心の殻を砕き割った、あるいは一片も砕かせないために逃げ続けた先にある。

 私にしか見えていない、それが酷い間違いだと分かっていても。あのきれいなものをそっと包み込めたなら。

 そのとき、あの日の夢が叶う。そんな物語であればいいなと、祈っている。


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