11
雨は依然として強く降り続いていた。
それは、大地を蹴って走る雅成を容赦なく打ちつけた。
これは天の涙である。麻希の悲しみが天まで届き、大粒の涙となって大地を濡らしているのだ。
どこかに傘を置いてきてしまった。しかし今はそれどころではない。
雅成は姿の見えない麻希を追った。
この激しい雨の中、人の姿は見られなかった。視界には、ずぶ濡れになって立つ緑の木々や、川と化したアスファルトの歩道だけが広がっていた。
人はみな、この天の攻撃を避けるように、どこかにひっそりと身を隠している。
出る杭は打たれる、か。
麻希は確かに普通の女の子とは違っていた。
それは出会った日から分かっていたのだ。
彼女はその優れた才能を生かすべく、芸能界を目指していた。その特異性によって、彼女の不思議な性格が生み出されていた。
麻希は今、夢に向かって大きな一歩を踏み出そうとしている。
それは、いち早く大人の世界に生きるということを意味していた。彼女は普通の高校生と違っていて当然なのである。
学校生活には打算的な人間関係が蔓延している。それを「協調」や「友情」と称するのは笑止千万である。
そんな連中はやたら「個性」を口にするくせに、周りから弾かれないことに日々神経をすり減らしている。他人の目ばかりを気にして、自己保身のために生きているのだ。
どうしてそんな連中に、主張を持つ人間を差別することができようか。個性あるが故に身体から発するオーラを、彼らにはどうも理解できないらしい。
麻希の生き方を妨害する権利は、誰にもありはしない。
少なくとも自分は彼女の味方であり続ける。何が起きても絶対に守ってやる。
雅成は心の中で叫ぶ。
(麻希が好きだ!)
雅成はぬかるんだ地面を強く蹴った。
体育館から校庭の方へ出てみたものの、麻希どころか人っ子一人出くわさない。
彼女はこの雨の中、どこへ消えてしまったのだろうか。
麻希は強い女でなければならない。無個性な連中に何と言われようと、それに心が左右されるような弱い人間であってはならない。
芸能界で生きていくのであれば、今以上に辛いことが降りかかってくることだろう。この程度の挑発や中傷に負けるようでは先が思いやられる。
麻希には強くなってほしい、雅成はそう思う。
とにかく今は麻希を見つけることが先決だ。
彼女の傍にいてやりたい。言葉など要らない。ただ寄り添うだけでいいんだ。
彼女は家に帰ってしまったのだろうか。
そうか、携帯があった。
雅成は校舎の軒下に入って、麻希の携帯に掛けてみた。いつものように呼び出し音が聞こえるだけで彼女は出ない。
ふと見ると、校舎の出入口が開いていた。
雅成はずぶ濡れの身体で飛び込んだ。自分の教室を目指して、階段を駆け上った。
わずかな望みに託して、教室のドアを勢いよく開けた。しかし教室には誰もいなかった。
近くの廊下でクラスの女子連中と出くわした。壁や天井に飾りつけをしているところだった。
雅成は勢い込んで、麻希のことを訊いてみた。
しかし彼女の姿は見ていない、という言葉が返ってきただけであった。
時間だけがむなしく経っていった。
結局、麻希を見つけることができなかった。
今、彼女は一人どんな気持ちでいることだろう。傍にいてやることすらできなかった。雅成は、自分の無力さをまざまざと見せられた思いだった。
きっと彼女は大丈夫だ、雅成は自分に言い聞かせた。
明日のコンサートで、いつものように彼女の歌を披露すればよい。あんな連中の脅迫に屈することなく、堂々としていればよいのだ。
雅成はそう思ってみたものの、不安な気持ちは拭いきれなかった。
そうだ、これから麻希の自宅へ行ってみようか。
正確な住所は覚えていないが、家に帰れば暑中見舞いのハガキがある。確か住所が書いてあった筈である。
それに自宅に戻って、水を吸って重くなったこの服も着替えることができる。
雅成は校門まで歩き出した。
そこでやっと思い出した。大事なギターケースを体育館の裏に置きっぱなしだった。
この大雨の中、果たして中身は大丈夫だろうか。
自然と小走りになった。
あの女連中の前にギターを放置したのは迂闊と言わざるを得ない。逆恨みから、いたずらされているかもしれない。
雅成の足はさらに速くなった。
体育館の裏まで戻って来た。
さっき麻希が女子に取り囲まれていた場所には、今は誰の姿もない。
悪い予感は的中した。ギターケースはどこにもない。あの連中に持ち去られたのだろうか。
これは大失敗である。ギターがなくては、明日の演奏ができない。
とにかく大急ぎで探さなくてはならない。
慌ててその場を離れようとした、その時である。
目の前にある鉄製の階段が、わずかにきしんだようだった。
誰かがいる。
しかしここから見上げようにも、つづら折りの階段は、その裏側を見せているだけである。
雅成は恐る恐る階段を登っていった。
そこには背中を丸めた少女の姿があった。大きなギターケースを抱くようにして座っている。長い髪はすっかり濡れて頬に張り付いていた。毛先からは、水の雫が途切れることなく落ちていた。
「麻希!」
雅成の声が聞こえないのか、彼女は無反応だった。
しかし確かに声は聞こえている筈だった。その証拠に、ケースを抱える腕に力が入ったようだった。
「麻希、大丈夫か?」
彼女は雅成と目を合わせようとしなかった。
ただケースを大事そうに抱えたまま動かずにいた。親に叱られた子供がやり場のない怒りを胸の内に溜めている、そんな様子である。階段のどこか一点をぼんやりと見つめていた。
「麻希、風邪引くぞ」
雅成は彼女の肩を掴んで軽く揺さぶった。
「放っておいて頂戴」
麻希は強い調子で言ったつもりだったが、それはかすれた声にしかならなかった。
それが悔しかったのか、紫色に変色した唇を噛んだ。
「まさか、連中の話を信じているんじゃないだろうな?」
そうゆっくり問いかけた。
雅成には見えない自信があった。
麻希と自分は見えない絆で結ばれている。この程度の策略で、壊れてしまうほどの関係ではない。
「昔からいつもそうなの」
突然、麻希が口を開いた。視線は動かさなかった。
「せっかく人と仲良くなっても、いつもこうなっちゃう。周りの目が気になって、本当の自分の気持ちに嘘ついたりして。そんな自分がたまらなく嫌になるのよ」
雅成は黙って聞いていた。よく意味が分からなかった。
要するに、あんな悪意に満ちた同級生の言動も無視できず、心が穏やかでなくなるということか。
誰だって、自分の評価は気になるものだ。それは何も麻希に限ったことではない。
「周りが何と言おうと、自分の信念を曲げる必要はないんじゃないか」
麻希は濡れた顔を上げて、雅成に強い視線を投げかけた。
初めて出会った頃の、あの挑戦的な目つきだった。今でもそんな表情を見せるのか。雅成は寂しい気持ちになった。
(まだ麻希は俺を信じてくれないのか?)
「いつだって私は、人によく思われたい、いい子を演じようって心の中で思ってる。本当は全然そうじゃないくせに、ハッタリだけで生きている」
「誰だってそういう面はある。特に芸能人を目指してる君は、誰からも好かれたい、っていう気持ちが強いのかもしれないが、それは自然なことじゃないか」
麻希は複雑そうな表情を浮かべていた。
自分は見当違いなことを口にしているのではないか、と雅成は一瞬考えた。
しかしそのまま続けた。
「俺は芸能界のことはよく分からないが、そこには味方もいれば敵もいる。陰口や嫌がらせなんて、ごく日常的なことだと思う。それを一々気にしていたら、本当に自分がやりたいことなんてできないよ」
「そうね」
麻希は諦めたように唇だけで笑った。
「さっきのあれは君の吸ったタバコじゃない。そうだろ?」
雅成には強い自信が生まれていた。
麻希は自分と約束したのである。芸能界デビューを控えた彼女が、そんな愚かなことをするとは到底思えなかった。
「信じてくれているのね、私のこと」
麻希は震えた声で言った。
その声は寒さによるものか、感情の高ぶりによるものか、雅成には分からなかった。
「麻希、とにかく帰ろう」
雅成は彼女の手を取った。その手は氷のように冷たかった。
このままでは風邪を引いてしまう。明日のコンサートのこともある。
「ギター大丈夫かしら?」
彼女はさっきからそればかりを心配しているようだった。ギターケースを抱えたまま、離そうとしなかった。
「いいよ、それは。そんなことより君の身体の方が心配だ」
こんな状況でも、ギターを気にしている麻希がとても愛おしくなった。
「家まで送ろうか?」
雅成は優しく訊いた。
「ううん、大丈夫。一人で帰れるから」
麻希はきっぱりと言った。
「傘は持っているの?」
「大丈夫、これだけ濡れたら、もう傘なんて要らないわ」
麻希は笑って言った。
そう言えば、自分もどこかに傘を置いてきてしまったことに思い至った。
二人は階段を下りていった。
雨粒がまるで針のように地面を鋭く刺している。
生徒たちは帰ってしまったのか、校内はひっそりとしていた。
雅成はしばらく考えてから、
「じゃあ気をつけてな」
と言った。
「うん。明日のコンサート、頑張ろうね」
麻希はそう弾んで言うと、駆け出した。
一度も振り返ることなく、雅成の元を去っていった。
強い雨しぶきが、景色から全ての色を奪い去っていた。それはまるで水墨画を思わせた。
そんな中、麻希の背中が小さくなっていく。
寂しい背中だった。今彼女の背負っている悲しみを、自分は一体どれだけ分かっているというのか。
彼女を追いかけていきたかった。
しかしそんな資格が果たして自分にあるのか、雅成は考え込んだ。
自分からどんどん離れていってしまう麻希の姿を目で追うのが精一杯だった。
いつしか雨足の勢いは衰えていた。それでも霧雨が作り出す薄いカーテンが、周りの景色を全て包み込んでいる。
雅成は一人、ギターケースを抱えて家路を急いだ。
ケースの中身は大丈夫だろうか。今すぐにでも蓋を開けて確かめたくなる。
傘は差していなかった。身体中がすっかり濡れてしまった以上、もはや傘の必要は感じられなかった。
麻希は大丈夫だろうか。
さっきからそんな不安が、雅成を圧迫している。
どうして彼女の後を追わなかったのか。彼女の身体を気遣って、家まで送ってやるべきではなかったのか。頭の中で自問自答を繰り返す。
そうしなかった理由は分かっている。
麻希はもはや自分を必要としていない。それは時とともに、いつしか確信に変わっていた。
彼女に対して積極的になれない理由もそこにある。自分に自信が持てないのだ。
麻希との出会いは、無気力だった雅成に一筋の光を与えてくれた。身体に充実した精神が芽生えた。彼女との学校生活は、自分に驚くほどの勇気を与えた。
ところが麻希は優れた歌の才能を持っていた。何ら個性を持たない自分とは、まるで釣り合いが取れなかった。そして彼女は芸能界という、さらに手の届かぬ所へ羽ばたこうとしている。
麻希との別れが確実に近づいている、と思う。
明日のコンサートが無事終了すれば、彼女は雅成の元から姿を消すだろう。全校生徒の大きな拍手に送られて、彼女はこの学校を去っていく。それは麻希らしい幕引きに思われた。
そんな麻希の前で、自分は無力である。彼女を引き留めることなどできはしない。
家の玄関を開けると、自分の身体よりも先に、タオルでギターケースを丹念に拭いた。ゆっくりと蓋を開けると、雨水が内側に染みを作っていた。
しかし幸いなことに、ギター本体までは達していなかった。
これは麻希に感謝しなければならない。
彼女は本来雨ざらしになっていた筈のこのケースをしっかり抱きかかえていた。そのおかげで、ギターは無事だったのだ。
階段を上がって麻希と再会した時、まず一番に彼女に「ありがとう」と言うべきだった。
そんな当たり前のことをすっかり忘れていた。どうやら自分は麻希を目の前にして、自然体ではいられなかったのだ。彼女が自分を捨てていく恐怖と戦っていた。
肌にへばり付いたシャツを一枚一枚剥がすように取り去ると、シャワーを浴びた。
皮膚が寒さによって萎縮しているのが分かる。熱湯がそれを溶きほぐす。
麻希も今頃、無事に家に着いただろうか。