10
朝から雨が降っていた。
夏休みは今日で終わりである。明日はいよいよ文化祭が行われる。
雅成にとって、今年は忙しい夏休みとなった。これほど積極的な日々を過ごしたのは、初めての経験だった。
それはギターの練習に明け暮れていたからか、それとも麻希と一緒に居られたからか。
夏祭りの日から、彼女は将来のことを一切口にしなかった。もうおそらく決心はついていて、これ以上赤の他人に語る必要はないと考えているのかもしれない。
雅成としても、今更その話を蒸し返すわけにはいかなかった。
心のどこかに小さな穴が空いてしまったようだ。四六時中、その穴から何かが漏れている感じがする。
どれだけ麻希と一緒に居ても、まるで心が満ち足りないのだ。むしろ、その穴がどんどん広がっているような気がした。
そんな気持ちを吹き飛ばそうと、ギターを構えてみる。
しかし麻希がいない演奏は薄っぺらなものに思える。やはり彼女の歌が必要だ。主役のいないドラマには虚しさを覚える。
昼を過ぎてから、麻希の携帯に掛けてみた。
これは一体何のための電話なのか、自分でもよく分からなかった。
確かに呼び出してはいるのだが、彼女は一向に出なかった。
そう言えば、麻希は電話に一度も出たことがない。必要以上に人と親しくなることを避けているのだろうか。明らかに自分と距離を置いているように思われた。
もしそうなら、彼女の携帯を鳴らすのは迷惑でしかない。
雅成はすぐに電話を切った。
しばらくぼんやりとギターを眺めていた。もちろんギターは何も語ってはくれない。仕方なく服を着替えた。
何だか無性に学校へ行きたい気分だった。例の場所で麻希と会えたらいいな、そんな軽い気持ちからだった。
雅成はギターケースを肩に掛け、雨の中を学校へ向けて歩き始めた。
夏休みの最後の日、学校には意外にも多くの学生の姿があった。文化祭の実行委員たちである。彼らは慌ただしく雨の中を駆けずり回り、最後の準備に余念がなかった。
雅成の足は、自然と体育館へ向いた。
館内をそれとなく覗いてみた。特設ステージの飾り付けもすっかり終わって、いつもは質素な体育館が華やかに生まれ変わっていた。明日はあの舞台に立って、大勢の観客にギターを披露するのかと思うと、わずかに足が震えるようだった。
立ち止まることなく体育館の裏へと向かった。
例の場所に麻希が居るかどうかは分からないが、たとえ居なくてもよい。とりあえずあの階段に座ってしばらく考え事でもしよう、そんな気分だった。
雨が激しくなってきた。
雨粒が屋根を強く打ちつけている。それはまるで観客の拍手のように聞こえてくる。明日のコンサートは絶対に成功させたいと思う。
雅成は身体やケースが濡れないように、体育館の軒先に沿って歩いた。しかしそんな努力も、この強い降りにはあまり意味がないようだった。
こんな強い雨の中、麻希が居るはずもない。
雅成はわざわざここまで来たことを後悔し始めた。
しばらくすると、目指す方角から女性の声が幾重にも重なって聞こえてきた。その声は、雨の音に負けじと大きなものだった。
(一体、何だろうか?)
いつもは静かな体育館の裏で、何か異変が起きていた。
雅成は悪い予感を抱いて、自然と駆け出した。
階段付近に、女子生徒たちが傘を差して群がっていた。彼女らは何かを取り囲んでいるようだった。
雅成は慌ててその人垣に近寄った。
ただならぬ気配を感じる。
彼女らを押し除けるようにして、視界を確保した。
そこには、麻希が立っていた。ずぶ濡れだった。白いブラウスが身体に張りついている。
麻希ともう一人の女子生徒が対峙しているのだった。
その女子も激しい雨に身を任せたままである。お互いが睨み合っている。
「おい、何しているんだ」
雅成は思わず叫んだ。
その場に居合わせた生徒たちが一斉に雅成の方を振り返った。全員が女子であった。
麻希と睨み合っている女子の顔に見覚えがあった。いつか彼女を尾行していた連中の一人に間違いなかった。
麻希がトラブルに巻き込まれているのは明らかだった。
「麻希、どうした、大丈夫か?」
雅成は、そう呼びかけた。
周りの女子を掻き分けて真ん中に出た。
麻希の目は、自分をも睨みつけているようだった。ただこの激しい雨足では、それすらよく分からない。
見ると足下にはタバコの吸い殻がいくつも落ちていた。
もしや、吸っているところを見つかったというのか。もしそうだとしたら、それは非常に分が悪い。学校側に知られたら処分されるのは間違いない。いや、それよりもこれから芸能界デビューを控えた歌手にとって、スキャンダルになりかねない。
雅成は考えた。ともかくこの事態をうまく収拾せなければならない。
「やっと来てくれたのね、待ってたんだよ」
その声は、麻希ではなかった。名前も知らない、ずぶ濡れの女子だった。
雅成の頭は混乱した。
彼女は何を血迷っているのか。自分は麻希の味方である。
「一体、何のことだ?」
不快な気持ちが、言葉になった。
「とぼけなくてもいいって。もうバレてしまったんだから」
その女子は続けた。
外野からも「そうだよ」という声がした。
雅成は慌てた。どういうことだ。
「だからさっきも言ったでしょ。彼も私たちの仲間。今まであんたを騙して、人前に引っ張り出そうとしてただけ」
女は、今度は麻希に向かって言った。
まるで言葉の意味が分からなかった。
「たばこを吸っているのは、紛れもない事実でしょ」
傘の中から声がした。
麻希はその声の方へ強い視線を向けた。
「私、吸ってない」
「嘘言わないで。じゃあ、そこに落ちている吸い殻は何よ?」
別の鋭い声。
「私じゃない」
「あんたじゃなきゃ、誰のものって言うの?」
「知らない。でも、もう吸ってない」
雅成はしまった、と思った。麻希は口を滑らせた。
「今、もう吸ってない、って言ったわよね。ということは、やっぱり以前に吸っていたんじゃない」
鬼の首を取ったような勢いで、ずぶ濡れの女が言う。やはり失言を見逃してはくれなかった。
とにかくこの場を逃げ切る方法はないのか。このままでは、麻希の将来に大きな傷がつく。
「何言っているんだよ。それは俺が吸ったんだ、麻希のじゃない」
雅成は咄嗟にそう言った。
周りの女子連中は言葉を失ったようであった。誰もが沈黙した。
「麻希は吸ってない、関係ないんだ」
語気を荒げて、重ねるように言った。
「何言っているのよ。この子がタバコを吸っているって、あなたが教えてくれたんじゃない」
「嘘だ」
雅成は叫んだ。
次の瞬間、麻希は体当たりをして円陣を突き破った。
とっさの出来事で、雅成はどうすることもできなかった。
麻希の後ろ姿だけが小さくなっていく。
自分も彼女を追わなければならない。
いや、その前に、この連中に確認することがあった。
「おい、お前たち」
雅成はすごんだ声を上げた。こんなやり方で人を脅したのは生まれて初めてだった。
「麻希に一体何をしたんだ?」
「化けの皮をはいだだけ」
一人がそう言った。
雅成はその声の主を睨みつけた。
「どういうことだ?」
「そう、かっかしないで。あんたもどうして、あんな不良の肩を持つの?」
「彼女は不良じゃない」
雅成は声を張り上げた。
「タバコ吸っていたのは事実でしょ。それなのに、清純気取りでコンサートに出るなんて許されないわ」
別の女が言った。
「真実を暴いて何が悪いの?」
要するに寄ってたかって麻希をいじめていた、そういう訳だ。
これ以上、この連中と話すことはない。
麻希を追おう。
雅成は彼女らを突き飛ばして全力で駆け出した。