8
今日は時間の経つのがやたら遅く感じられた。朝から何をやっても手につかないのだ。
どうしてだろう。
一度構えたギターを傍に置いて考えた。
麻希が積極的に自分を誘ってくれた。人と接することを頑なに拒否してきた彼女だけに、雅成は内心驚き、また嬉しさもひとしおだった。
これまで地元の祭りなど、大して興味も湧かなかった。人混みよりも、静かな場所の方が性に合っている。
しかし今日だけは違った。夕方がとても待ち遠しく感じられた。誰かが自分を待っているという期待感。心がわくわくする。麻希も今、同じ気持ちでいるのだろうか。
「気をつけろよ」
いつか友人の東出が言っていた。
確かに麻希は学校でタバコを吸っていた。周囲の悪い噂は本当だった。
あの時は正直、彼女に騙されていたのだと感じた。
しかし彼女は開き直ることもせず、いきなり謝った。
その瞬間、何故か彼女を他人とは思えない、見えない鎖で繋がっているような気がしたのだ。
あの感覚は一体何だったのだろうか。
本来なら、彼女を突き飛ばして、さっさと立ち去ることだってできた筈である。しかし、その場に踏みとどまった。
コンサートの出場も取りやめよう、そう頭では結論を出しておきながら、実際にはそんな気はさらさらなかった。
むしろ、彼女とこれからも一緒に居よう、そんなことを考えたのだ。
何故だろう。
彼女の孤独をこれ以上放ってはおけないと思ったのだろうか。でも、それは自分が引き受けるべき仕事ではない。
いや、そうではないのだ。そんな仕事だからこそ、自分にしかできないのだ。雅成はそう考える。
だが、心のどこかでは、麻希のことを完全に信じられない自分もいるのだ。
タバコが見つかって、彼女はひどく慌てていた。瞬時にこの先の不利益を予測した筈である。
もしかすると、祭りに誘ったのは、実はまるで別の考えがあってのことではないかという気もするのだ。
すなわち、このままではコンサートに出られなくなってしまう。彼女としてもその機会だけは失いたくなかった。そこで自分との関係を修復しておこうと算段した。
例えそうであるなら、彼女は雅成のことを最大限に利用しようと考えていることになる。
しかし別にそれでも構わない。どこか寂しい気はするが、それで彼女の学校生活に弾みがつくのであれば、それでよいのかもしれない。
麻希とは学校の校門で待ち合わせをしていた。
夕方、約束の時間には少し早かったが、雅成は家を出た。
夏の夕日はまだ空高く残っている。外に出た途端、昼間と変わらぬ熱気に包まれた。手足が動く度に、身体にまとわりつくようだ。
途中、浴衣姿の若い女性たちと遭遇した。この暑さの中、みんな屈託のない笑顔を見せていた。今夜は花火大会があるので、それを楽しみにしているのかもしれない。
雅成は約束の時間より、三十分以上も早く着いてしまった。
もちろん、麻希の姿はなかった。
鉄の門扉は閉じられていた。この時間、生徒はみんな帰ってしまって、校内はひっそりと静まりかえっている。
ただ職員室には、明かりがついていた。どうやら先生だけが残っているようだ。
門扉は施錠されてはおらず、少し力を入れるだけでゆっくりと開いてくれた。
雅成は校内に入った。
身を隠すようにして、体育館に向った。
例の階段に自然と足が向いていた。時間を潰すには丁度いいかもしれない。
空はどこまでも茜色で、細長い雲が幾筋も浮かんでいた。
体育館の裏側には夕日は差し込んでいなかった。そのため、あらゆる物が黒い影と化していた。
昼間の印象とはまるで違う、どこか寂しげな雰囲気が漂っていた。
雅成はゆっくりと階段を登り始めた。
「雅成くん!」
突然、頭上から声がした。弾かれたように、顔を上げた。
そこには麻希がいた。
彼女も周りに同化して、ただのシルエットだった。白いブラウスだけが妙に浮かび上がっていた。
昨日、ここで見たのと同じ服装である。彼女はずっとここに居たような錯覚を覚えた。まるで時間が止まっているかのように感じられた。
「篠宮さん、どうしてここに?」
思わずそんな声が出た。
「まだ時間には早いでしょ。だから待ってたの」
夕暮れが彼女から顔の表情を奪っていた。感情を読み取ることはできなかった。
まさか、またタバコを吸っていたのではないか。
雅成は瞬時に彼女の周りを確認した。
しかしそんな形跡はなかった。もとより、彼女が慌てていないところを見ると、それは的外れのようだった。
「大丈夫よ、心配しなくても。私吸ってないよ」
麻希は雅成の心の内を知ってか、笑ってそう言った。
安心したのも束の間、彼女を信じてあげられなかった自分が恥ずかしくなってきた。
しかしすぐに気を取り直して、
「いつからここに?」
と尋ねた。
まさかとは思うが、昨日から家に帰らず、ここに一人で居た訳でもあるまい。
「今、来たばかりよ」
「それならいいんだけど」
「ヘンなの」
麻希は大袈裟に笑った。明らかに彼女の気分は高揚していた。祭りを楽しむ準備がすっかりできあがっているのだった。
「それじゃあ、行きましょ」
二人は階段を下りると、誰もいない校庭を抜けて、一気に校門まで駆けていった。
雅成は誰かに見つかりはしないかとスリルを味わっていた。麻希も笑いながら走っていた。
しばらく歩いていくと、徐々に祭りの喧騒が二人を包み込んだ。
大きなウサギの風船を持った子どもが、お父さんの手に引かれて歩いてくる。食べ物を頬張りながら闊歩する中学生らとすれ違った。
麻希は左右に屋台が並ぶ道をゆっくりと歩く。そんな彼女に歩幅を合わせた。
桜の季節を思い出した。そう言えば、初めて会った日も彼女はこうして物珍しそうに歩いていた。
「お祭りは初めて?」
雅成は横から訊いた。
「初めてじゃないわ。昔、家族と一緒に来たことがあるもの」
「俺と同じだ」
「そうなの? 今は?」
「大して友人もいないから、もうずっと来てなかったなあ」
「私もそう」
「お互い、友達がいない者同士か」
雅成がおどけて言うと、麻希は髪を揺らして笑った。
そして、
「でも、今日は違うわよね」
と真面目な顔で言った。
そんな麻希の瞳は雅成をしっかりと捉えていた。
祭りの屋台は昔と何ら変わらない。焼き物を売っているすぐ横で、金魚すくいをやっていたりする。テレビゲームが普及した今でも、昔ながらの素朴な遊びをしたくなるのは何故だろう。ゲームの原点が、実はここにあるからかもしれない。
二人で射的をやってみた。
麻希は高身長を生かすべく、身体を曲げるようにして銃を構えた。そして的のぎりぎり近くの所で発射するのだが、当たってもびくともしなかった。熱くなって何度かやってみたのだが、戦利品は小さなクマのぬいぐるみ一つだけであった。
麻希の隣で、雅成は才能ということを考えていた。
彼女には、歌という立派な才能がある。
では、自分には何があるのだろうか。さっきは似た者同士だという話をしたが、才能では彼女の方がはるかに上回っている。そんな自分は、彼女の目にはちっぽけな人間に映っている筈で、それが情けなく思えてくる。
辺りがすっかり暗くなって、人々が大移動を始めた。どうやら花火大会が始まるようである。
二人も堤防を上がって、並んで土手に座った。かすかに草の匂いがする。
花火が一発打ち上がる毎に、観客の歓声が沸いた。
漆黒のキャンバスに真っ白な模様が描かれる。その模様は重なりあって、予測のつかない複雑な造形を生む。同時に身体を芯から揺さぶる大音響が見る者を圧倒する。
雅成は、こっそりと麻希に視線を向けた。
彼女の目は、大空に描き出される、瞬間の芸術にすっかり奪われているようだった。その一つひとつを、目に焼き付けるように見入っていた。
やはり篠宮麻希のことが好きなのだと思う。恋心と呼べるほど、まだ形ははっきりとはしていない。しかし彼女の不思議な魅力に確かに惹きつけられている。
(麻希はどう思っているのだろうか?)
雅成は彼女の横顔を見ながら考えた。
彼女は自分の気持ちに、少しでも気づいているのだろうか。
今はただ彼女と一緒に居たい、静かにそう願った。
あっという間のショーだった。最後の一発が夜空を彩ると、辺りは急に静けさを取り戻した。火薬の匂いが河川敷に残された。あちこちで拍手が沸き起こっている。
「とても綺麗だったわ」
そう言って、麻希は立ち上がるとスカートのお尻を叩いた。
雅成も黙って腰を上げた。
花火大会が終わると、一斉に観客が同じ方向に動き始めた。家路を急ぐという目的は皆同じである。人の波が延々と遠くまで続いていた。
二人はそんな波に押し流されるように堤防を進んだ。
「はぐれちゃいそうね」
麻希は雅成の手を握った。
雅成も無言で握り返した。
黙ったまま麻希のことだけを考えた。この手の温もりを大切にしたい、そう思った。
「ねえ、ちょっとそこで休まない?」
麻希の指は、小さな公園に向けられていた。
「そうしよう」
二人は人波から離脱して、堤防を下っていった。小道を行くと誰もいない空間に出た。真ん中に外灯が立っていて、その下にベンチがひっそりと置かれた公園だった。
握っていた手を思い出したかのように離すと、麻希はベンチに腰掛けた。
雅成の手にはまだ彼女の温もりが残っていた。手が離れた後も、自分の手が少し汗ばんでいたのが分かる。風を受けてすうっとする感じがあった。
雅成は公園の外に自販機を見つけると、ジュースを買って戻って来た。一本を麻希に手渡してから、横に腰掛けた。
まだ耳には花火の余韻が残っている。空を見上げれば、まだ続きが打ち上がるような気がする。
「今日は、来てよかったね」
ジュースを一口飲んでから、麻希が言った。
「ああ」
「今夜は、楽しかった」
彼女は、心底嬉しそうな声で言った。
「これが青春、ってやつかい?」
いつかの台詞を思い出して言った。
「そうね、これが青春」
彼女は笑った。
頭上の明かりが二人の姿を闇に浮かび上がらせていた。それはまるで舞台に立つ役者を思わせた。雅成は自然とコンサートのことが頭をよぎった。
「昨日、あなたのギターを聞いてびっくりしちゃった」
麻希が突然言い出した。
「どうして?」
「だって、最初、全然弾けないって言ってたもの。本当はギターやってたんでしょう?」
「いや、本当に弾けなかったんだ」
「嘘。すぐに上達する筈がないわ」
君のために毎日練習したんだ。君の顔を思い出して弾いていたんだ、そう言ってもいいのだろうか。しかし、それはためらわれた。
麻希は黙って雅成の顔を覗き込んだ。
何も言わずに、ただ凝視している。こちらの言葉を待っているようだった。
しかしどんな話を切り出せばよいのか、雅成には分からないのである。
お互いが言葉を譲り合って、気まずい空気が流れていく。
麻希は雅成から視線を戻すと、真っ白な足を交互にばたつかせるようにした。
「どうして今日は俺を誘ってくれたんだ?」
雅成は思い切って訊いていた。やはりどうしても訊いておかなければならないことだった。
「実はあなたに話しておきたいことがあって」
麻希は神妙な顔をして言った。
今日の彼女は、様々な表情を持っていた。これほど感性豊かな少女だったのか。教室の彼女はやはり別人に思われた。
「私が芸能界デビューするって言ったら、どうする?」
「えっ」
唐突な言葉に、雅成の思考は追いつけなかった。自然とオウム返しになる。
「芸能界?」
確かに、そう聞こえたが。
「そう」
麻希は大きく頷いた。顔には、いたずらっ子のような表情が浮かんでいた。何かの冗談だろうか。
「それ、本当の話?」
「一応、本当。でもまだ、正式に決まった訳ではないんだ」
雅成の頭の中は混乱していた。ただ漠然と、麻希と離ればなれになる運命を想像した。
「いつ、デビューするの?」
「まだ決まってない」
「どういうきっかけで?」
「スカウトされたの、中学の時」
なるほど、そうか。それならあの上手な歌声は、確かに納得がいく。そういうことだったのか。
芸能界という遠い世界がこれほど現実味を帯びてくるとは、これまで考えたこともなかった。平凡な自分の身近でこんな話が沸き起こることもあるのだと、少々感慨が湧いた。
しかしまだ分からない点もある。確かに麻希は整った顔立ちをしているし、背もすらりと高い。歌声だって普通の高校生とは思えないレベルにある。それらは確かに芸能界で通用するのかもしれない。
だが性格はどうだろうか。彼女は人と交わるのが決して上手な方ではない。果たしてそれで芸能界を渡り歩いていけるのだろうか。
いや、そうではないのか、雅成は思い直した。
これから芸能界へ進むことで、どのみち学校を辞めることになる。だから学校ではあんな振る舞いをしていたのではないか。友達をろくに作らなかった理由もそこにある。
これまでの彼女の不思議さが、それで少しは説明できるような気もする。
しかし、どうして麻希はこんな話を自分にしたのだろうか。どんな反応を期待しているというのだろうか。
雅成には、もうこれ以上積極的に掛ける言葉はなかった。
「ああ、何だかすっきりした。あなたに隠し事するのは、どうも後ろめたい気がして」
麻希は夜空を見上げて言った。
長い髪の横顔は、今までとはまるで違って見えた。芸能人という、自分とは無縁の資質を持っているからに違いない。
「家族の人は知っているんだろ?」
横顔にそう投げかけた。
「うん、家族には言ったわ」
「それで、反応は?」
「両親は一応賛成みたい。お前の好きにしなさい、って」
「じゃ、双子の姉さんは?」
「反対してる。あなたには向かない、だって」
「ふうん」
顔のよく似た双子の姉。彼女は今、どんな気持ちでいるのだろうか。
「でも、お姉ちゃんの言うことは正しいかもしれないよね」
それは意外な言葉だった。姉の意見を素直に受け入れるというのは、随分と慎重な態度である。普通なら他人の忠告に耳を貸さず、一人で突っ走ってしまうところだ。
「家族以外には、言ってないの?」
「ええ。あなたが初めてよ」
雅成は嬉しいような、寂しいような複雑な気分になった。
確かに自分に打ち明けてくれたことは素直に嬉しいのだが、やはり手放しで喜ぶことができない。彼女が雲の上の世界に行ってしまったら、もう会うことさえままならない。
「でも、中学でスカウトされて、どうしてすぐに行かなかったの?」
「そのまま東京に行ってしまうのが、何だか怖くて。地元で高校生活をちゃんとしたかったんだ」
彼女はそんな風に言った。
しかし芸能プロダクションというのは、そんなに待ってくれるものなのだろうか。他にも才能ある若い子はたくさんいるだろう。なぜ、この麻希でなくてはならないのか。
「それで、君としてはどうなの? やっぱり芸能界に入りたいんだろ?」
雅成はややぶっきらぼうに訊いた。今の気持ちがそのまま表れてしまった。
「あなたはどう思う?」
麻希は逆に訊き返してきた。
確かに麻希の人生は自分で決めればいいと思う。他人にあれこれ言う権利はない。だが、もし麻希がいなくなってしまったら、それはそれで寂しいものになるだろう。
今、学校生活の中で芽生えた心の充足感が、あっという間に消えてしまうだろう。それだけは間違いない。
「俺には、芸能界なんて未知の世界だから、何のアドバイスもできないけれど、君がやりたいと思うことを正直にやればいいと思う」
麻希は頷いて聞いていた。
「分かったわ、今日はどうもありがとう」
彼女はそう言って、先にベンチから立ち上がった。