7
雅成は家に帰ると、服も着替えず押し入れを開けた。去年父親から譲り受けたギターの保管場所は分かっていた。
ギターを手にしたばかりの頃は、何だか自分が大人になったような気がして嬉しかった。毎日本体をケースから出しては磨き、基本動作の練習に余念がなかった。
しかし、いつの間にかその情熱も冷めてしまった。ギターを手に入れるのと同時に、自分は格好良くなった気でいた。それですっかり満足してしまった。ギターの練習を続ける動機が極めて弱かったのだ。
だが、今回は違う。強い動機がある。これは麻希を救うための、自分に課せられた仕事のように思われた。
何としてもやり遂げなければならない。
埃の積もったケースを開けて、ギターを取り出した。
とりあえず構えてみる。そして思いのままに弦を弾いてみた。アコースティックギターの六本の弦が創り出す乾いた音が、部屋中に響き渡った。
手の動かし方は一応覚えているようだ。しかしこの状態から、舞台に立てるようになるまで、どれだけ時間が掛かるのだろうか。
曲目の選定は麻希に任せてある。自分の仕事はその曲を演奏するだけである。彼女が気持ちよく歌えるよう助けられたら、どんなに素晴らしいことだろう。
一通り全音階を出してみてから、ギターを傍らに置いた。カーテンを大きく開いて夜空を見上げた。
麻希のことだけを考える。
砂を駆け、波と戯れる少女は、学校で見る彼女とはまるで別人だった。日頃の抑圧から解放されて、自由に身体を動かし、笑顔が溢れていた。
そして、麻希は双子の妹だった。顔の似た姉がいるという。
それを聞いた時、麻希の持つ不思議さが全て説明できるような気がした。しかし今になって考えると、やはり彼女は不思議なままなのである。何一つ麻希のことを理解できていないのだ。
どうしてこれほど彼女のことが気になるのか。その理由は自分でも分からなかった。
翌朝、麻希は先に教室に来ていた。
雅成の姿を認めると、すかさず立ち上がった。
「おはよう」
麻希は少し照れたような表情で言った。
そんな短い挨拶にも、彼女の朗らかな気持ちを感じ取ることができた。
「おはよう。曲目は決まった?」
雅成は早速訊いた。
「うん。でもその前に、昨日はいろいろとありがとう」
麻希は頭を下げた。
「いや、こちらこそ、無理言ってごめんな」
彼女は小さく笑みを漏らした。
「それで、曲の件なんだけど」
これほど明るい麻希の顔を今まで見たことがなかった。
「どんな曲?」
「ここではみんながいるから、お昼休みにちょっと付きあってほしいの」
「いいよ」
「じゃあ、食事が終わったら体育館の裏に来て」
「分かった」
麻希が自分に積極的に話掛けてくれることが何より嬉しかった。
これをきっかけに、二人は親しくなれる、そんな予感を抱いた。
授業中、雅成は何度も麻希の横顔を盗み見た。
垂れてくる長い髪を持ち上げるようにして、ノートを取っている。彼女もこちらの視線には気づいていて、それを意識しているようだった。
しかし彼女は馴れ馴れしく話掛けてはくれなかった。やはり学校では、どこか感情を抑えているように思われた。
昼食を食べ終えると、麻希は席を立ち、黙って教室を出ていった。しばらくしてから雅成も後を追った。
確かに体育館の裏は人気のない場所である。内輪話をするには、これ以上最適な場所はないのかもしれない。
指定の場所に到着してみたものの、麻希の姿はなかった。
「こっちよ」
突然そんな声が空から降ってきた。
見上げると、彼女は体育館に併設された階段の上にいた。
「ああ、そこか」
雅成もスチールの階段を上り始めた。二人が歩く度に金属の和音が周りに響き渡る。階段は途中で折れ曲がっていて、ついに地上からは見えなくなった。
「こんなところに階段があったなんて、知らなかったよ」
「実は、ここから体育館のステージ裏に出られるの」
「へえ」
それは知らなかった。
階段の突き当たりには、ドアが付いている。鍵が掛かっているのか、こちらからはびくともしなかった。
麻希はそのドアを背に腰を下ろした。
その隣に雅成も座った。朝からの日差しを受けて、階段はほのかに温められていた。
幅が狭いので、二人が座ると圧迫感がある。麻希とは身体が接触するほど近かった。
雅成は少し緊張した。彼女の方は案外平気な顔をしている。
麻希は楽譜を取り出した。
「これなんだけど」
手渡された譜面をざっと眺めた。果たしてどんな曲調なのか、すぐには分からなかった。本当に数週間後、この曲をステージで弾けるようになっているのだろうか。密かに不安がよぎる。
「この曲は、君のお気に入り?」
「そう、ね」
「ちょっと歌ってみてよ」
「いいわよ」
彼女は柔らかなハミングでメロディーを表現していく。雅成は目で譜面を追った。
爽やかな曲調だった。少しアップテンポな曲だが、メロディは比較的シンプルで、コードを押さえるにはそれほど苦労がないかもしれない。何より麻希の声質に合いそうな曲だった。
「どうかしら?」
一通り歌い終わると、彼女は雅成の顔を覗き込むようにして訊いた。
「いいと思うよ」
麻希が好きな曲なら、何の問題もない。
「これは、誰の歌なの?」
「さあ、私も知らないの。でもいい歌でしょ?」
「そうだね」
とは言ったものの、すぐに違和感を覚えた。
好きだと言う割には、誰の歌かは知らないと言う。それは少々妙な話ではないか。麻希はどうやってその歌を知ったのだろう。楽譜まで用意しているのだ。歌手が誰だか分からない筈がない。
しかしそんなことよりも、今は別のことを考えなければならなかった。
まずはこの楽曲を特訓しなければならない。伴奏がしっかりできるようになってから、初めて彼女と音合わせが可能となる。それは当分先の話になりそうだ。
雅成は彼女に一週間の猶予をもらって、一人で練習を開始することにした。
夏休みが始まる直前に、文化祭の案内が生徒に配布された。
クラスやクラブ主催の催し物が企画され、模擬店もいくつか予定されていた。そしてコンサートの参加者も発表された。
麻希が雅成とコンサートに出場することを知ったクラスメートは、誰もが驚きを隠せなかった。教室の中は、しばらく二人の話題で持ちきりになった。
それもその筈である。日頃孤独に過ごす麻希と、地味で目立たない雅成が一緒にステージに上がるのである。驚かない方が不思議だった。
麻希はいつもの通りマイペースだった。周りの声には一切無反応だった。
一方雅成は人々の注目を浴びるようになり、教室では居心地が悪かった。こんな時、人前でどんな顔をすればよいのか、まるで分からないのである。
体育の時間、友人の東出が立ちはだかった。雅成の性格をよく知るだけに、一番驚いたのは彼かもしれない。
「おい、お前本気かよ?」
いきなりそんな言葉を投げかけた。
「ああ、そのつもりだ」
「学校中の笑い者だぞ」
「どうして?」
「分かるだろ。よりによって篠宮と一緒だなんて。一体どういうつもりなんだ?」
「彼女は歌が上手いから大丈夫だ。むしろ俺のギターの方が心配なんだ」
「そういうことを言っているんじゃない。どうしてあんなヘンなヤツと組むんだ?」
「別にヘンじゃないさ。みんな彼女を誤解しているだけだ」
「どうなっても俺は知らないからな」
東出は怒ったように立ち去った。
雅成は不安な気持ちを焚きつけられた。
二人して学校中の笑い者、か。
確かに自分には人に誇れる才能はない。
しかし自分一人でステージに立つのではない。麻希がいる。彼女の歌声は、きっと学校中の生徒を魅了するに違いない。ギター演奏は、そんな彼女の邪魔にならない程度でいいのだ。
きっとうまくいく、雅成はそう自分に言い聞かせた。
夏休みに入ると、雅成はギターの練習に明け暮れる毎日だった。
自分でも着実に上達しているのが分かる。最初はおぼつかなかったコード進行も、今では完璧に頭に入っていた。後はいかに自然に演奏できるようになるかである。
麻希とは明日、学校で会う約束になっていた。
だが一刻も早くギターを聴かせてやりたかった。これだけ仕上がっていれば、音合わせだって十分可能である。それに自分の上達ぶりを彼女に褒めてもらいたかった。
麻希の携帯に何度か掛けてみた。しかし呼び出してはいるものの、一向に出る気配はなかった。
雅成は諦めて、ギターを抱えて一人学校へ出向いた。明日になれば彼女と会えるのだ。焦る必要はない。
学校は夏休みも開放されている。
校門付近は木陰が揺れ、蝉の声が辺りに充満していた。門をくぐって、校舎へと向かった。
グランドで練習に打ち込む運動部員の掛声が聞こえてくる。それに覆い被さるように、音楽室からはトランペットの不安定な音が流れていた。
雅成の足は体育館へ向いていた。
コンサートに出場する連中が、体育館で練習していることを知っていた。そんな彼らの様子を見ておきたいという気持ちからだった。
体育館に近づいていくと、様々な楽器が入り混じって聞こえてきた。
それとなく館内に目を遣ると、グループ同士が集まって練習に励んでいた。入念に音合わせをする者、本番さながらに演奏するバンド、激しいダンスをする女子がひしめき合っている。
雅成は一人でその中へ入って行く勇気はなかった。
そこで麻希に教えてもらった裏の階段を思い出した。あそこなら静かで、練習には最適かもしれない。
ギターケースを担ぎ直して歩き出した。
やはり思った通りである。体育館から楽器の音が漏れてはいたが、人の気配はまるでなく、ひっそりとしていた。まさに穴場と呼ぶに相応しかった。
雅成はケースからギターを取り出して、階段を上がった。
階段を折れたところで、人の気配を感じた。先客が居たのか。思わず視線を上げると、そこには麻希の姿があった。
雅成は驚いた。まさか彼女と出くわすとは思ってもみなかった。
麻希は突然の来訪者にびっくりして、慌てて何かを隠すような仕草を見せた。
雅成はその手が覆い隠した物を見逃さなかった。
どうやらタバコの箱だった。彼女は人目につかないこの場所で吸っていたに違いなかった。
「ああ、もうびっくりしたじゃない」
雅成の姿を認めると、そんな風に言った。
しかしその声は不自然に大きく、しかも裏返っていた。明らかに動揺を隠せないといった様子である。
雅成は冷静に、
「やあ」
とだけ言った。
やはり麻希はタバコを吸っていたのだ。しかも校内で吸っていた。その行為はひどく挑戦的なものに思えた。噂は本当だった。
知らず怒りがこみ上げてきた。これまで彼女を擁護してきた自分が、ひどく惨めに思われた。コンサートに参加する気が一気に失せてしまった。
「それ、前から吸っていたのか?」
雅成は彼女を睨んで、威圧的に言った。有無を言わせぬ強い口調となった。自分にはそれを言う権利があると思った。
麻希はあっさり観念したようだった。
「ごめんなさい」
「俺に謝ってどうするんだよ」
雅成は吐き捨てるように言った。
ひどく裏切られた気分だった。これまで必死になっていた自分が裏でせせら笑われていたような気がした。
麻希は何も答えなかった。ただうつむいていた。まるで粗相をした召使いが、主人から許してもらうのをじっと待っているようだった。
コンサートの参加を取りやめようかと本気で考えた。今辞退すれば、恐らく後ろ指をさされることは目に見えている。しかし今の自分は、麻希と一緒に出場する気にはなれなかった。
「俺、帰るよ」
そう言ってギターのネックを持ち直すと、彼女に背を向けた。
「待ってよ」
そんな強い声と同時に、彼女の手が腕を掴んだ。意外にも強い力だった。思わず振り返った。
「ごめんなさい。もう吸わないから」
嘆願するような目をして、小さく口が動いた。
これほど弱々しい麻希を見るのは初めてだった。
雅成はしばらく何も言わなかった。
どうしようか、と考えていた。折角お互いがここまで来たのである。自分が我慢して、これまでの関係が続けられるなら、それでもよいと思った。
「分かったよ」
雅成は彼女の手を振りほどいた。
「じゃ、私これを捨ててくる」
「いや、それは後でいいよ」
学校内でタバコの箱など捨てたら、余計に問題が大きくなりそうだった。とりあえず学校側には知られたくなかった。
「校外で人に言えない場所に出入りしている、ってのも本当なのか?」
雅成は強い調子で訊いた。
「えっ?」
麻希はポカンとした表情になって、
「そんなことしてない、と思う」
と言った。
それは嘘のない自然な反応に思えた。本当に思い当たる節はないようだった。どうやらそれは噂に過ぎなかったようだ。
雅成の心に少しだけ安堵感が生まれた。
ようやく麻希の隣に腰を下ろす気になった。
相変わらず体育館からは、様々な楽器が奏でる不協和音が流れていた。
「今日って、約束の日じゃなかったわよね」
「ああ」
ある程度演奏できるようになったので、ぜひ君に聴いてもらいたかった。そんな口まで出かかった言葉を飲み込んだ。
代わりにギターを構えて静かに演奏を始めた。麻希に上手く聞かせようという気持ちが緊張感を生む。
ギターからは、濁りのない澄んだ音が溢れ出した。
彼女はその音色に驚いたようだった。
途中から彼女の歌声が重なる。
途中コードを間違えて、調子を狂わせてしまったが、麻希はそのまま歌い続けた。
こんな自分の伴奏でも、彼女の歌を支えているのが分かる。
雅成は彼女がこの歌を唄うのを初めて聴いた。
彼女の歌声は淀みなく、力強く伸び切っていた。それは、人知れずこの歌を何度も練習した証に思えた。
演奏を終えると、麻希は肩を揺らすように拍手をした。
「上手ね、素敵だった」
その言葉に少し照れくさくなった。
しかし手応えを感じたのも事実である。これならコンサート当日までに、もっと技術を磨けるような気がする。
雅成には充実感が湧いていた。高校生活でこれほど心が満たされる出来事は今までなかった。
「明日はどうする? また一緒に練習する?」
麻希が訊いた。
「いや、感じが掴めたからいいよ。もう少し一人で練習してみる」
今弾いてみて分かったのは、思ったより歌のテンポが速いということである。コード進行に気を取られて、どうも彼女の歌声に置いていかれている。ここは改善すべきところだろう。それが克服できたら、また音合わせをすればいい。彼女の方に問題はないのだから、わざわざ一緒に練習する必要はないと思った。
「それなら、明日は時間空くよね?」
麻希が切り出した。それは最初から考えていた台詞のようだった。
「そうだね」
「あのね、明日の夜、お祭りに行くんだけど、一緒に行かない?」
そう言えば、地元の夏祭りの日だった。すっかり忘れていた。小学生の頃は、両親に連れられてよく行ったものだが、最近は行ってなかった。ギターの練習の合間に出かけるのも、気分転換ができていいかもしれない。
「いいよ、一緒に行こうか」
「うん。よかった」
麻希は格別の笑顔を見せてくれた。