6
「よかったら今日、一緒に帰らないか?」
期末考査が終わったところだった。雅成は思いきって麻希に声を掛けてみた。
教室の中は、重圧から解放された生徒たちの笑顔で満たされていた。みんな、この瞬間を待ち望んでいたのだ。
生徒たちは競うように教室を出て行った。ずっと朝から缶詰だったこの部屋に、一秒でもこれ以上居たくないという心の現れであろう。
どうしてこれほど彼女に対して積極的になれるのか、自分でも分からなかった。ただ、麻希とはもっと話す必要があるという気がずっとしていた。
彼女はすぐには答えなかった。鞄の中をあらためていた手をしばらく止めて、
「ごめんなさい。また、今度」
と言った。
麻希は自分が思うほど、まだ心を開いてくれていないようだ。雅成は寂しく思った。
「さようなら」
麻希は立ち上がると、教室を出て行った。
彼女はクラブ活動をしていない。今日は家の用事でもあるのだろうか。もしかすると、自分のことを意識的に避けているのかもしれない。そう思うと、気分が重かった。
雅成は諦めて、一人教室を出た。
廊下のずっと先を麻希が歩いている。
すると今、雅成の目の前に他のクラスの女子が二人、突然割り込んできた。
二人は目配せをして、身をかがめるように麻希の背中を追っていく。
雅成は、一瞬にして全てを理解した。
あの二人は、麻希の後をつけて、彼女が何か悪事を働かないか、監視しようというわけである。
まだこんな嫌がらせが続いていたことに閉口する。
二人は麻希に付かず離れずで歩いていく。当人はまるで気づかぬようだった。三人とも校舎を出ると、そのまま校門を抜けた。まるで刑事ドラマの尾行である。前を行く二人は、あれで探偵を気取っているつもりなのだろう。
雅成もそんな二人に続いた。もしも彼女らが麻希に危害を加えるようなことがあれば、阻止しなければならない。
いつだったか、東出が言っていた話を思い出した。
麻希がよからぬ場所に出入りしている、そんな噂だった。それをあの二人は見届けようというのだろうか。
今、三人は坂を下り始めた。
先頭を行く麻希は、帰りも歩くのが遅かった。まっすぐ自宅を目指しているようには見えない。やはりどこかに立ち寄るつもりなのだろうか。
彼女は足が絡んでしまうような、どこかふらふらした動きで進む。この後、誰かと待ち合わせをしているような様子でもない。
麻希はそんな歩き方で、駅前通りを抜けていく。色鮮やかな商店街の飾り付けに目を奪われているようだ。
ようやく麻希は駅に辿り着いた。切符売り場の自販機の前で立ち止まった。通学定期を使わないのだろうか。それとも自宅に向かわず、どこかに寄り道するというのだろうか。
彼女は壁に掲げられた大きな路線図を見上げた。
確かな目的地があるようには見えなかった。右に左に何度か視線を動かした。
そんなふうにしてから、彼女は券売機で切符を買った。
尾行する二人も、わざと別の列に並んで、同じ切符を買う。
雅成も二人に続こうとしたちょうどその時、中学生らしき一団が流入してきた。一気に列が渋滞する。
しまった、これでは三人に置いていかれる。
雅成ははやる気持ちを抑えながら、先を行く彼女らの姿を目で追った。
三人は、順番に改札口に吸い込まれていった。
券売機が空くのを我慢して待つ。心だけが焦る。果たしてあの三人に追いつけるだろうか。
雅成は切符を手にすると、改札に駆け込んだ。
どのホームだろうか。辺りを見回す。
手前のホームは乗客の数が多かった。この中に紛れているとかなり厄介である。
それでも雅成は諦めずに、麻希の姿を探した。
突然、ベルが鳴り響き、列車が入ってきた。
だめだ、列車の車体が壁となって、もう誰の姿も見えなくなった。一段と焦りが募る。
跨線橋を走った。
しかしホームに届く直前に、発車のベルが鳴り出した。
慌てて階段を降りた。確認はできないが、もう乗り込むしか方法はない。
雅成の目の前で、無情にも扉が閉じた。列車が動き出す。
間に合わなかった。
列車が去ってしまうと、ホームには静寂だけが残された。
雅成は肩で大きく息をする。
疲れはまるで感じなかった。ただ麻希を想う気持ちで一杯だった。
(彼女の身に何も起きなければいいが)
新しい視界が開けていた。奥のホームが見渡せた。向こうはローカル線で、乗客もまばらだった。
そこに、麻希の姿があった。背を向けて立っている。ほっと胸を撫で下ろした。
何とか彼女に追いつけた。
しかし全ては偶然がもたらした結果なのである。ちっとも彼女を守っていることにはならない。雅成は自分の無力さを感じずにはいられなかった。
列車が来るまでには少し時間があった。同じホームに降り立つのは目立ち過ぎる。
跨線橋の上でしばらく待った。麻希から少し離れた所に、二人の女子もいる。
列車がやって来る頃には、いつの間にかホームは混雑していた。
そんな大勢の人々に紛れるように、雅成は乗り込んだ。
麻希は出入口付近に立って、ずっと窓の外を見ている。少し離れた座席に二人の追跡者が腰を下ろしていた。
しかし彼女はどこへ行くつもりなのか。この路線は、確か海沿いを走って隣町までつながっている。
この短距離切符では、数駅しか乗れない。
麻希は二つ目の小さな駅で下車した。
ホームからは夏の海が見えた。夕方とは言え、昼とは変わらぬ熱気が身体を押し包んだ。
麻希は改札まで歩いていく。
そろそろ、この二人に警告した方がいいだろうか。
雅成は二人に小走りで近づいた。麻希の背中が見えなくなったのを確認してから、小さく声を上げた。
「おい、待てよ」
前を行く二人が同時に振り返った。
「彼女に近づくのは止めろ」
なぜか雅成には、勇気が湧いていた。日頃、人に声を掛けるのも躊躇する自分が、見知らぬ女子を相手に、これほどきっぱり注意できるのが不思議でならなかった。まるで怖いとは思わなかった。正義を貫く気持ちが、自分を支えてくれていた。
「あんたには関係ないでしょ」
片方が感情的な声を張り上げた。
その声があまりにも大きかったので、先を歩く乗客が一斉に振り返った。すかさず駅員が飛んできた。
「どうしましたか?」
「いえ、何でもないんです」
もう片方が努めて穏やかに言った。
乗客の多くが足を止め、何事かとこちらを見守っている。
その中に、麻希の顔があった。
しまった、彼女に見つかった。雅成は顔面蒼白になった。
駅員への説明が続けられていた。雅成にとって、それはもうどうでもよかった。
「私たちは同じ高校の知り合いですので」
そう言った一人が有無を言わさず、雅成の身体を引っ張った。
三人揃って、何事もなかったように改札を出た。
そこには麻希が待ち構えていた。
彼女はどんな気持ちでいるだろうか。まっすぐに彼女の顔を見られなかった。
「あなたたち、私の後をつけてきたの?」
麻希が訊いた。その声はひどく挑戦的なものであった。
その響きに、二人の女子もさすがに恐れをなしたのか、
「じゃあ、さよなら」
と言い残して、その場をさっさと立ち去った。
雅成はその場で動けなかった。
いつしか駅に人の流れはなくなっていた。麻希と雅成だけが取り残されていた。
彼女にどう説明すれば分かってもらえるのだろうか。ただそれだけが頭を巡っていた。
「あなたも私をつけてたの?」
麻希は意外にも穏やかな声で言った。
「うん、いや、君のことが心配でつい」
言葉が喉に引っかかるようだった。
「私にはそんな心配、要らないのに」
麻希は背中を向けると、さっさと歩き出した。
雅成も無言で後に続く。
駅のすぐ裏は、海が開けていた。
麻希はコンクリートの階段を下りていく。途端に潮の香りが強くなった。
海開きはまだなのか、海岸に人影はなかった。はるか遠くで犬を散歩させる人の姿が見えた。
目の前に海の家がひっそり並んで建っている。開口部は木の板で覆われて、まるで大きな積み木のようだった。
麻希はその片隅に鞄を置いた。そして靴を脱いで、さらに靴下まで脱ぎ捨てた。
白いブラウスの少女は、まっすぐ波打ち際まで駆けていった。両足が砂を巻き上げて、足跡が彼女を追う。
それは草原を走る動物のようだった。速く、そして力強く砂を蹴る。
学校生活を無感動に過ごす彼女とはまるで別人だった。あれは仮の姿で、こちらが本当の姿ではないのか、と考えたほどである。
砂を跳ねていた長い足は、ついに水際にまで達した。
白い少女は初めて海を見た子どものように、無心になって波と戯れた。
打ち寄せる波に合わせて身体を動かす。その動きはしなやかで、躍動感に溢れていた。
雅成はそんな彼女のダンスを見守った。
激しい動きに疲れたのか、しばらくして麻希はゆっくりと戻ってきた。もう海を十分堪能したと言わんばかりの満足気な顔だった。
近くに寄ると、呼吸が乱れていた。白い足は砂で汚れていた。
「こういうのが、青春なんでしょ?」
「えっ?」
呆気にとられる雅成を見て、麻希は笑った。白い歯が印象的だった。やはり学校の彼女は別人だと思われた。
「ううん、何でもないの。ただこんな風に一度やってみたかったんだ」
それは、不思議そうに見つめる雅成への説明らしかった。
しばらく彼女の言葉の意味を考えた。しかし意味が分からなかった。
「これですっきりしたわ」
麻希は身体を折り曲げて、足に残った砂を両手で払い落とした。
それから雅成の横に腰を下ろした。
「実は昔、家族と一緒にこの海に来たのよ」
「へえ」
「でも、それって、青春とは言わないでしょ?」
雅成は思わず笑ってしまった。
しかし麻希は真面目な顔のまま、
「今日はあなたと来たから、青春よね」
と言った。
彼女の言いたいことは何となく分かる。学校以外の場所で友達と会うのが楽しいという意味なのだろう。そうか、こんな自分を友達扱いしてくれるのか。雅成は途端に心が軽くなった。
「君に兄弟はいないのかい?」
「姉ならいるけど。双子の姉」
「双子なの?」
雅成は驚いた。
学校の麻希と目の前の麻希は、ひょっとすると別人ではないのだろうか。どこかで姉妹が入れ替わっている、いや、それはあり得ない。
しかしどうにもこの点が引っかかった。
「双子ってことは、やはり顔も似てるの?」
「そうね、瓜二つ。あなたには見分けがつかないかも」
やはりそうである。この麻希が妹と言うのなら、学校で隣に座っているのは、実は姉なのだ。
「君は妹なんだろ?」
「そうよ」
「じゃあ、お姉さんはどこの学校に通っているの?」
「今は行ってないんだ」
彼女は答えにくそうに言った。それは高校に進学しなかったということか、それとも中退したという意味なのか。
いずれにせよ、それ以上突っ込んで訊ける雰囲気ではなかった。
二人はしばらく沈黙した。
波の打ち寄せる音がこの世界を支配していた。それは途切れることのない一定のリズムである。
雅成は、麻希の歌声のことを考えた。
彼女の澄んだ歌声を、クラスメートだけで聞くのは勿体ない。ぜひとも学校中に響かせたい。
とりわけ彼女を無視する連中に届けるべきものなのだ。彼女の隠れた一面を知れば、きっと誤解を解くだろう。そして敬意を払うようになる筈だ。
何かよい方法はないだろうか。
その時である。天啓がひらめいた。
毎年、秋に開かれる学園祭。そこでは生徒によるバンドコンサートが開かれる。
雅成は思わず立ち上がっていた。
「篠宮さん!」
彼女に強い視線を投げかけた。
「一緒に学園祭のコンサートに出場しないか?」
「コンサート?」
「そう」
「あなたと歌うの?」
「いや、俺は無理。音痴だから」
「でも、一緒に、って?」
「俺は楽器をやるよ。そうだな、ギターはどう?」
「弾けるの?」
なかなか痛いところを突く。
「去年、親父からギターを譲ってもらったんだけど、全然。でも、これを機に弾けるようになればいいんだろ?」
麻希はずっと雅成の顔を見つめていた。少しも目を逸らさなかった。彼女は思いがけない提案に心を動かされたようだった。
しかしすぐに表情を曇らせた。
「だけど、みんなの前で演奏するんでしょ。大丈夫?」
「任せとけって。君が歌ってくれるなら、俺も頑張って弾けるようにする」
「分かったわ、それじゃあ一緒に出ましょう」
麻希は力強く言ってくれた。