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翌朝、教室に入ってきた麻希は綺麗な顔をしていた。どうやら顔の腫れも引いたようである。雅成は安心した。
ひょっとすると、彼女は学校に来なくなってしまうのではないか、と気掛かりだったのだ。
しかし彼女は雅成の優しさに触れて、孤独でないことを悟った筈である。もしそうであるならば、彼女は必ず自分の前に姿を見せてくれる、そんな自信も実はあった。
雅成は、麻希の姿を見て素直に嬉しかったのだが、すぐに彼女の異変に気がついた。様子がいつもと違うのだ。
はっきりとは断言できないのだが、いつもの彼女らしさが消えていた。慣れないことをする前の緊張感が、身体からひしひしと伝わってくる。
こんな麻希を見るのは初めてだった。
「おはようございます」
麻希は雅成の顔を認めると、軽く頭を下げた。
先に挨拶をされるのは、妙な気分だった。彼女が積極的に話掛けてきたことに少々驚いた。
雅成は、挨拶を返して、麻希の顔を近くで観察した。
上唇が少し腫れていた。それでも大きな腫れは見事に消えて、つるりとした顔がそこにあった。
「昨日は大丈夫だった?」
雅成は優しく声を掛けた。
「はい、何とか」
昨日のことをきっかけに、彼女は湧き出る泉のように喋り始めるのではないかと期待したが、さすがにそういう具合にはいかなかった。
彼女は席につくと、それで会話を終わらせてしまった。
お互いに言葉は交わさなくても、雅成は麻希の味方でいるつもりだった。この学校で、自分は彼女の唯一の理解者である気がした。
「あ、そうだ」
麻希は急に思い出したかのように声を上げた。
しかしそれは、実はシナリオ通りで、彼女は切り出すタイミングを見計らっていたように思えた。
鞄から何やら取り出した。
派手な紙袋だった。赤と白のストライプがクリスマスを連想させる。上端部には、ご丁寧にもピンクのリボンまで掛けてある。
「はい、これ」
麻希はその紙袋を、無造作に雅成の机に置いた。
一瞬、何のことだか理解できなかった。この状況を察するに、どうやらこれは自分への贈り物であるらしい。
もう少し補足説明が欲しいところだが、すでに彼女の顔はこちらを向いていなかった。どう見てもプレゼントを人に贈るやり方ではない。
「これ、俺に?」
雅成は半信半疑で確認した。
「そう。昨日のお礼」
どうやら日本史のノートのことを言っているらしかった。それにしても大げさな外装である。中には何が入っているのだろうか。
「別にお礼なんていいのに。でも貰っておくよ」
口ではそう言いながらも、雅成は嬉しかった。彼女との距離が一気に縮まった気がした。
「中にノートが入ってるの」
彼女はそう付け足した。
それにしては、紙袋が異様に膨らんでいる。中身はノート一冊だけではなさそうだ。手に持つと、中からビニール袋がかさかさと音を立てた。
雅成はそれ以上、何も言わずにおいた。
代わりに、その紙袋を耳元まで持っていき、二度三度振って音を確認した。
麻希は思わず笑っていた。
いつもと同じ昼食時間を迎えていた。
麻希は実にのんびりと菓子パンを食べている。それはまるで何かの作業のようで、決して楽しそうではない。
雅成は、そんな彼女に話掛けたかった。少しでも彼女が楽しい気持ちになってくれればよい、そんな願いからだった。
さっさと食事を済ませると、麻希から貰ったプレゼントを机の上に置いた。これをきっかけに、彼女と自然に話ができるような気がしたのである。
「篠宮さん、これ開けてもいい?」
「あなたの物だから、ご自由に」
中からは、クッキーの詰まった透明な袋と、新品のノートが出てきた。
「こっちはおいしそうだね」
雅成はクッキーの小袋を手にして言った。
しかし昨日のお礼としては、やはり大げさに思われた。たかだかノートを書き写したぐらいで、お菓子まで付けるものだろうか。
「これって、もしかして、君の手作りとか?」
麻希はそう言われて、雅成の方に向き直った。
「違うわ。市販品を買ってきて、その袋に詰め替えただけ」
「そうなんだ」
余計なことを言ってしまった。そんな野暮なことを言わせるつもりはなかった。
しかし彼女は特に困った表情も見せずに、
「私、料理は苦手だから」
と言って、またパンを口に入れる作業に戻ってしまった。
雅成は途端に居心地が悪くなった。彼女を嫌な気分にさせるつもりはなかったのである。ちょっと勢い込んで訊いてしまっただけなのだ。
しかしその日を境に、二人は多少なりとも話をする間柄になった。
とは言え、彼女は積極的に話掛けてくるわけでもなく、雅成の言葉に相づちを打つぐらいのものであった。
その後、学校内で麻希に対する露骨な嫌がらせは、雅成の知る限り起きなかった。
しかし悪い噂だけは学校中に広まり、人を寄せ付けない性格と相まって、彼女は次第にみんなから無視されるようになっていった。
七月に入り、夏休みが目の前に迫っていた。
しかしその前に期末考査と三者面談が、雅成の前に立ちはだかる。
これらを乗り越えて、初めて夏休みが許される。いや、テストの結果によっては、強制的に補習になることも考えられる。そうなると夏休みどころではない。
そう言えば、麻希の成績はどうなのだろうか。
彼女は授業を真剣に受けてはいるものの、小テストの結果は芳しくなかった。遊び呆けている自分と、それほど得点は変わらないのである。どうやら彼女は、昔に習った筈の知識が所々で欠落しているようだった。
雅成のすぐ前の女子二人が、話をしていた。
「進路調査の用紙は、もう提出した?」
「まだよ。これって、今度の懇談会の資料になるらしいから、いい加減に書くわけにはいかないんだって」
雅成もまだ提出をしていなかった。
自分は、勉強が得意ではないし、打ち込んでいるスポーツもない。人付き合いも上手な方ではないし、これといった特技も見当たらない。
こんな自分に、どんな積極的な将来があるというのだろう。雅成はこんな時、決まって自己嫌悪に陥るのだ。
(麻希は将来のことをどう考えているのだろう?)
雅成は少し興味が湧いた。
音楽室に男女混声の合唱が響き渡っていた。
雅成のクラスでは、今日から練習が始まった。八月末に開催される文化祭で、各クラスが歌声を披露することになっていた。
まだ今の段階では、クラスの歌声は一つにまとまっていない。ただ各自が独りよがりに声を出すだけでは、ハーモニーは生まれないのだ。
練習をしていて、雅成はおやっと思った。
隣で歌う麻希の声が、驚くほど透き通っていたからだ。明らかに彼女の歌声は澄んでいる。まだ多少抑え気味ではあるが、声に確かな存在感がある。自分にはない才能を感じる。
男女に分かれて、数人ずつで発声練習をすることになった。
その時、麻希の声は他の連中を圧倒するほど伸びていた。歌に主張が感じられる。クラスの誰もが、それに気づいたようだった。
音楽の教師もすぐに彼女の才能を感じ取ったのか、
「篠宮さん、ちょっとお手本に一人で歌ってみて」
と要求した。
教師がグランドピアノを奏でた。
その軽快な旋律に見事に融合するかのように、麻希の歌声が重なる。彼女の歌は既に完成の域に達していた。練習する必要もない程だった。どうしてこれほどの能力を今まで隠していたのだろうか。
彼女の歌声を前に、クラスの誰もが言葉を出せなかった。その美しい歌声に驚くばかりだった。
どこからともなく拍手が沸いた。みんなは顔を見合わせて、口々に彼女を称えた。
篠宮麻希には、素晴らしい才能があったのだ。
授業後、音楽室から教室に戻ってくるなり、
「歌が上手いんだね。びっくりしたよ」
と雅成は声を掛けた。
この言葉を聞いた時、麻希の反応は明らかにいつもと違っていた。その言葉をきっかけに、彼女の中で何かが動き出したようだった。
雅成に笑顔を向けて、
「そうかしら」
彼女は照れを隠すように、無感動を装って言った。
しかし雅成の褒め言葉が、彼女の心を揺さぶっているのは明らかだった。
「中学時代、合唱部に入ってた?」
「ううん、入ってないよ」
彼女は嬉しそうな顔をして、首を振った。
「篠宮さんはいいよな。歌という特技があるから」
それは雅成の本音だった。お世辞でも何でもなかった。
「でもね、私、他に何の取り柄もないから」
「いや、何もないのは俺の方だよ」
そうなのだ。彼女には綺麗な歌声がある。それに比べて自分は、人に自慢するものが何もない。正直、麻希が羨ましかった。
(彼女は、人前でもっと自信を持っていい筈だ)
雅成は彼女の顔を見つめてそう思った。