3
チャイムがやたら遠くに聞こえていた。午前の授業はこれで終わりの筈である。
雅成は心底救われた気分だった。
授業中、強い睡気と何度も格闘を繰り返していた。気を緩めれば、それこそ泥沼に引きこまれそうな感覚があった。
春休みの間にすっかり生活習慣が乱れてしまったのだ。学校が始まった今でも、平気で夜更かしをしてしまう。
休憩時間になると、かろうじて活力が回復した気になるのだが、授業に戻ると、再び倦怠感に襲われる。
新学期が始まってもう一週間が経つというのに、これほど自堕落な自分に、少々嫌気がさした。
しかし隣にいる篠宮麻希は、そんな自分に何の関心も払っていなかった。
来る日も来る日も、貝のように口を閉ざしたままである。それどころか、自分に一度だって顔を向けたという記憶がない。
確かに彼女は、授業だけは真面目に受けていた。教師の言うことを興味深そうに聞いていた。黒板を見据え、しっかりとノートも取っていた。それは真面目な女の子という印象であった。
その点においては、彼女は立派な高校生である。雅成には、かすかな敗北感が湧いていた。
しかし自分だって、最初はこんな風ではなかったのだ。
麻希の真剣な姿を目にして、自分も彼女と共に頑張ろう、そんな気でいたのである。
だが彼女がこれほど自分に無関心では、徐々に張り合いがなくなってくる。
隣の席に座ってはいても、二人は見えない壁で分け隔てられているようだ。こちらからいくら大声で呼びかけても、彼女の耳にはまるで届かないのだ。
確か、出会って二日目のことだった。
雅成は篠宮麻希に話し掛けてみようという気になっていた。同じクラスで、席が隣になったのも何かの縁である。
それに、毎日長い時間を一緒に過ごすのである。早く仲良くなることは、お互いに得策と思われた。
麻希はチャイムが鳴る寸前に教室に姿を現した。初日と同じく、慌てる様子も見せずに、のんびりと席までやって来た。
「篠宮さん、おはよう」
雅成は思い切って声を掛けた。女子に向かって話すのは緊張する。こんな挨拶一つするのに、随分と心の迷いがあった。しかし勇気を出してみたのだ。
麻希は雅成の顔を盗み見るようにして、
「おはよう」
と抑揚のない声で返した。
「今日はぎりぎりセーフだね」
雅成が気安くそう言うと、彼女はそれには応じず、椅子に掛けた。
それから長い髪をかき上げるようにして、忙しそうに鞄から勉強道具を取り出し始めた。それはまるで、これ以上話す隙を与えないぞという意思の表れに思われた。
雅成はそんな彼女の態度に少々腹が立った。こちらは折角友好的に声を掛けているというのに、彼女は無視を決め込むつもりらしい。
相手がこんなでは、自分が馬鹿らしく思えてくる。
確かに新学期のクラス内は、初対面同士ということもあり、誰もが自己主張を控え、相手との距離を保とうとしている。
その結果、教室の中には緊張した空気が流れ、みんな孤独に似た気分を味わうことになる。
もちろんその空気は時間とともに薄らいでいく。現に教室のあちこちで、いち早くその緊張を解くことに成功した者同士の姿も見られる。
しかし篠宮麻希だけは徹底していた。
彼女は心にシャッターを降ろして、どんな人の気遣いも受け付けないといった、強い意志を持っていた。孤独になることを、自ら選んでいるようにさえ見えた。
クラスは昼食時間を迎えていた。
雅成はいつものように弁当箱を取り出すと、一人で食べ始めた。
隣には、髪を肩まで垂らした麻希の横顔があった。
彼女は鞄の中から菓子パン一つと小さな飲み物を取り出した。昼食は毎日決まって、たったそれだけなのである。
そのくせ彼女は、いつも食事に時間をかけている。
何か考え事をしながら、パンをちぎっては口に運ぶ。時に思い出したように、飲み物を口に含む。
一昨日だったか、クラスの女子が孤独な麻希を見るに見かねて、声を掛けた。
「篠宮さん、あっちで一緒に食べない?」
「はい」
麻希は表情一つ変えることなく、席を立った。
そして女子連中に混じって、昼食を取り始めた。
しかし彼女は、無表情にパンを口に入れているだけで、周りと打ち解けようとはしなかった。折角、友達ができる機会を自ら逃しているようであった。
さすがに固まっていた女子たちも、麻希をどう扱えばよいのか、困り果てているようだった。賑やかで楽しい筈の昼食が、麻希のその態度によって台無しになってしまったのだ。
そんなことがあって、麻希はついに女子からも相手にされなくなってしまった。
人付き合いがそれほど上手くない自分にも、友人はいる。
しかし麻希には、一人もいないのだった。
去年のクラスで友人はできなかったのだろうか。あるいは同じ出身中学の知り合いはいないのだろうか。
今、隣でぼんやりと食事を取っている篠宮麻希は、実は転校生なのではないか、そう思えてくる。
でも、それはあり得ないのだ。担任からそんな紹介は受けていないし、本人も学校の勝手は知っているようである。
篠宮麻希というのは、何とも不思議な存在である。
雅成は、いつしか彼女のことを気に掛けるようになった。
どうしてなのだろう。
自分の中にどこかほんの少し、彼女の気持ちが分かる部分があるような気がするのだ。
彼女は感情をひた隠しにして、平静を保っているが、実は心の中ではもがき苦しんでいる。そんな心の不整合が、他人に対する冷たい態度となって現れるのではないだろうか。
教室で麻希と別れた後も、雅成は彼女のことを度々考えた。
(何か彼女の力になってやれることはないだろうか?)
4
体育の時間だった。
体育館の窓からは、校庭が臨める。激しい雨足が遠くの景色をかき消していた。連日降る雨を、大地は黙々と受け止めている。
雅成のクラスと隣のクラスの男女が、一同に集められていた。
六月のこの時期、体育館は肌にまとわりつくほどの湿気が充満していた。じっとしているだけで汗ばんでくる。
この日は体育館の半分を、男子がバスケットボールに、もう半分を女子がバレーボールに使用していた。
今、目の前では、クラス対抗のバスケの練習試合が始まっていた。
床の上では、シューズが急ブレーキを掛ける音が絶え間なく響いている。
雅成はコートの外で、ぼんやりと自分の出番を待っていた。
運動がそれほど得意でない自分にとって、他人の試合を見学するという時間は実にありがたい。ここは女子の目もある。自分の格好悪いところを晒したくはなかった。
雅成は、何気なく隣のバレーコートに目をやった。
女子もクラス同士で試合をしているようである。こちらと同じく、試合に出ていない生徒が、隅の方でその行方を見守っている。
雅成は、ちょっと興味が湧いて、篠宮麻希の姿を探してみた。
それほど苦労することもなく、彼女が目に映った。
今、ちょうど奥のコートに入っている。彼女は手足が長く、身長が高いだけに、本来なら頼もしいバレー選手の筈である。しかし身体の構え方がどこかぎこちなかった。どうやらスポーツはあまり得意ではない、そう雅成は直感した。
今、相手のコートから強いサーブが繰り出された。体育館の空気を切り裂くような音とともに、白いボールが鋭角に飛び込んできた。それは麻希の身体にたちまち吸い込まれた。
突然襲いかかったボールの勢いに、麻希は身体を動かすことすらできなかった。不用意に突き出した手に当たったボールは、彼女の顔面を強打したようだった。身体が二つに折れ、床に崩れ落ちた。すかさず相手クラスの女子から笑いが起こった。
サーブを見事に決めた女子は、戻ってきたボールを意のままに操っていた。自分のプレイに何の疑いもないようだった。どうやら相当バレーの経験を積んだ人物に思われた。
麻希はのろのろと身体を起こした。少し頭を振るようにして、それから鼻の辺りを手で押さえた。そしてネット越しに、相手を睨みつけた。しかし足がわずかに震えているようだった。
さっきのサーバーが、控えの女子に、目で何か合図を送った。それから二度目のサーブを打ち込んだ。今度も体育館が震えるほど激しい音がした。
白いボールはまたもや麻希を襲う。今度は足をかすめて、思わずバランスを失った。長い髪が助けを求めるように左右に揺れて、床に尻餅をついた。隣のクラスからは歓声が沸いた。
そこで笛が鳴り響く。
教師が、不格好に足を投げ出す麻希に駆け寄った。そこでメンバーが交代となった。麻希は右足をかばうようにして、コートの外へ出ていった。
「あれは、わざとだな」
雅成のすぐ近くで、誰かの声がした。
気がつくと、周りの男子の視線は、みんなバレーの方に吸い寄せられていた。
「あのサーブは俺たちでも取れないぜ。あいつ、バレー部の副部長なんだ」
「狙い撃ちってやつか」
雅成の知らない男子がそう言った。
やはりそうか。あのサーブは悪意に満ちていた。みんなの前で麻希に失態を演じさせ、それを笑いものにしようという意図が感じられた。
どうしてそんなことをするのだろうか。
確かに麻希は、人とうまく付き合えない人間かもしれない。しかしだからといって、彼女を非難する権利は誰にもない。彼女だって自分の意志で生きている。それを他人が矯正する立場にないし、またその必要もない。
ふと公開処刑という言葉が頭をよぎった。
こんなやり方で麻希を苦しめるのは、それは卑怯というものである。
あのバレー部員を始め、こんな馬鹿げたことを企てた女子たちが心底憎くなった。
「おい、お前ら。どっちを見てるんだ」
体育教師の怒鳴り声が響き渡った。
更衣室で着替えをしていると、隣のクラスの東出祥也が近づいて来た。彼とは去年まで同じクラスで、数少ない友達の一人だった。
「さっきおまえのクラスの女子、随分とやられてたな」
いきなりそんなことを言った。
「見てたのか?」
雅成はどう反応するのが一番自然なのか分からず、とりあえずそんな言葉を発した。
「ああ、あれは明らかに一人を狙って攻撃してたんだ」
「でも、どうして?」
雅成にはそれが正直疑問だった。
彼女はいつも孤独なのだから、人畜無害の筈である。人から妬まれたり、恨みを買う人間には到底なり得ない。
東出は声をひそめて、
「どうも変な噂があるらしいんだ」
「噂?」
「ああ、どうやら彼女は不良らしい」
「不良?」
雅成は驚いて訊き返した。にわかに信じられなかった。
麻希は確かにぶっきらぼうな所はあるが、決して不真面目というわけではない。毎日きちんと学校に通って、授業もしっかり受けている。
自分は一日中隣に座っているから分かるのだが、彼女は不良なんかではない。何かの間違いではないのか。
「女子が話しているのを聞いたんだが、放課後ヤバい所に出入りしたり、校内でタバコを吸ってるって話だ」
東出はますます見当違いのことを言う。
雅成はついつい笑ってしまった。
そんなことはあり得ない。みんな、麻希のことを誤解している。
「それで、うちのクラスの女子にとっては、あれが制裁のつもりだったんだろう」
東出はなおも続けた。
「制裁?」
「そうさ、中途半端な不良は叩かれるんだよ」
「どういう意味だ、そりゃ?」
雅成は着替える手を止めて、東出を睨むようにして訊いた。
「本物の不良だったら、後が怖くて手が出せないだろ。ところが、仲間もいなくて、身体も強くない不良なら、叩いても平気というわけさ」
何とも勝手な論理である。
本当に制裁を加えたいのなら、むしろ本物の不良にこそすべきではないのか。中途半端な不良なら、話し合いでけりが付く。
つまるところ、これは単なる弱い者いじめに過ぎない。こんな馬鹿げたことに付き合わされてる麻希が可哀想である。
それでも東出は、
「お前もあんまり関わらないように、気をつけろよ」
と最後に付け足した。
教室に戻ると、ちょうどチャイムが鳴った。
体育の後の休み時間というのは、いかにも短すぎる。特に女子は着替えに時間が掛かるのか、まだ誰も戻ってきていなかった。
それでも日本史の教師は、何食わぬ顔で授業を始めた。
しばらくして女子が次々と教室に戻ってきた。
しかし、隣の席だけは、時間が止まったかのようだった。
(麻希はどうしたのだろうか?)
雅成は心配になった。
ボールが顔面を直撃したので、保健室で休んでいるのかもしれない。
(何事もなければよいのだが)
日本史の授業は、板書の量が半端ではない。教師は喋りながら、次々と黒板に書き付けていく。
雅成は、麻希の分も取ってやることにした。
自分のノートの一番最後を丁寧に破り取り、同じことを二回ずつ写していった。
雅成は教師の言葉を聞きもらさず、必死にノートを作った。こんなに真剣に授業に臨んだことは、中学以来今まで一度もなかった。
黒板が何度も消されて、二枚の紙にびっしりと文字が並んだところに、麻希が戻ってきた。
鼻の辺りに湿布が貼ってあった。顔の半分が紫色に染まっている。
教師に軽くお辞儀をして、自分の席に静かに腰を下ろした。
彼女は周囲の視線を遮るように片手で顔を覆い、もう片方の手でぎこちなく教材を準備した。
雅成は、破ったノートを彼女に差し出した。
「これ、ここまでの板書」
雅成は優しい言葉の一言でも掛けてやろうかと思ったが、どうもそれは彼女が望んでいることではない気がして、敢えて言わなかった。
麻希は一瞬目を丸くして、
「ありがとう」
と小さく微笑んだ。
それは初めての笑顔だった。
湿布を貼った彼女の顔には、気取ったところがまるでなく、自然な優しさに溢れていた。彼女にもこんな顔があるのか、と少々意外に思った。
雅成は心の中にぬくもりを感じていた。麻希に対して、まちがったことをしていないという自信が湧いた。
彼女はその後は一度も雅成の方を向かなかった。次から次へと流れていく黒板を自分のノートに受け止めていた。それはいつもの彼女だった。
今は、麻希の気持ちが多少なりとも分かる気がする。
中学時代、雅成は引っ込み思案で、目立たない存在だった。周囲からは、やれ消極的だ、無気力だなどと言われ続けた。そんな自分は人より劣ると決めつけていた。挙げ句の果てに自分が嫌いになっていた。
しかしそれは違うのだ。自分だって毎日を精一杯に生きていた。たとえ人より優れた結果が出なくても、確かに日々を生き抜いていた。
地味な人間も、派手な人間と何ら変わりはない。内に秘めたささやかな感情、主張もちゃんとある。それが周りの騒音にかき消されて、聞かせることができないだけなのだ。
雅成は、いつしか麻希の姿を自分自身と重ねているのかもしれなかった。